直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2009年11月の記事

The 19th Aichi Figure Skating Competition(小塚杯)に行った

今日、The 19th Aichi Figure Skating Competition(小塚杯)を見に行った。笠寺の日本ガイシアリーナで行われたこの地方大会は初めてだが、鈴木明子さんが出るかもしれないのと、村上佳奈子さんと宇野昌磨君が見たくて行った。鈴木さんは結局出なかったが、村上さん、宇野君は見れた。村上佳奈子さんと「さん」づけするのは、自分の娘と同い年であることを考えるとちょっと複雑だが、「ちゃん」づけしたくないので致し方ない。彼女は、ジュニアではなく、シニアで出たが、結局一位だった。ダブるアクセルを失敗したものの、他の演技内容は断トツで、お姉さん方を押さえて優勝した。来週のグランプリファイナルのジュニア女子シングルでの優勝が期待される。次世代の一押しアスリートとして注目し続けたい。
一方、宇野君は小学校6年生でありながら、やってることはシニアに近い。今日はノービスでなく、ジュニアで出場し、たった4名だったが断トツで一位だった。本当に小さくて、ロビーでランニングする彼とすれ違ったが、びっくりするほどだった。こんな小さな子が・・・と思ったが、演技前の顔つきは凄味があり、いっぱしのアスリートの顔だった。演技はほぼ完ぺきで、終わった後、山田真知子コーチにほっぺをぺしぺしされてうれしそうだった。今の日本フィギュア男子シングルの代表格は高橋大輔、織田信成、小塚崇彦君たちで、次の世代がおそらく羽生君で、その次がたぶん宇野君だと思う。うまく大きく育ってほしいものだ。
 村上さんも宇野君もロビーで間近にすれ違えたのがとにかくうれしい出来事だった。40すぎたオヤジがこんなことではしゃいでは恥ずかしいが、いや、ほんとのところ、世界を目指せる期待の若い選手たちを身近に感じることができてわくわくする感情を抑えることはできない。

先日来、テレ朝系列でグランプリシリーズを放映していたが、番組のコピーで「日本対世界」と謳っていた。しかし、私は「大須対世界」と言いたい。浅田真央、村上佳奈子、宇野昌磨びいきの私としては。
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回復志向

前回、プラモデルやペーパークラフトを作るのが好きだと書いた。これらはすべて他人が設計し、部品や型紙を制作したものを、ただ、マニュアルに従って組み立てるだけであり、オリジナリティや創造性もない作業である。そんなことを時々考えて、創造する側に回れたらよいのにと思うこともあれば、しかし、たぶんそんなことは自分には向かないのではないか、とも思っていた。
最近、読んだ「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう」という本に、人は誰でもある種の才能=「無意識に繰り返される思考・感情・行動のパターン」を持っていて、それはなかなか変わらないのだと書いてあった。書の主旨は、そんな才能を客観的に明らかにし、才能を強みとして強みを伸ばすことに力を尽くそう、その方が弱みを克服するより成功する確率が高いというものだが、それは脇に置いといて、まず、自分の才能とは何か診断してみた。この本に書いてあるパスワードを使うと「ストレングスファインダー」のURLから診断テストを1回だけ行うことができる。百問以上の質問に5段階で答える、性格診断のような感じもしたが、とにかく結果として5つの才能=強みのキーワードがでてきた。その最初のひとつが「回復志向」であった。問題を解決することが大好きで、物事を本来あるべき輝かしさへ回復させることを素晴らしいと感じるという志向だ。そう言われてみるとそうだ。プラモデルやペーパークラフトもばらばらになっている部品を本来あるべき姿に組み立てる(戻す)作業と言える。思えば、自分の体については昔からとにかく回復させたいことばかりであった。

まずは視力。高校3年から近視になり、視力回復の本や道具やビデオをいくつも買っては試した。長続きしないのが欠点で、同じようなものを幾度も繰り返し購入してしまったが・・・。次に、頭髪。かなり薄くなっているが、やはり30代のころは気にして、育毛剤や発毛剤(ロゲインなど)試した。もうあまり考えなくなったが、髪の回復には力をある程度そそいだ。花粉症もそうだ。治したくて、減感作療法を5年間くらいやって、少しは楽になった。ヨーグルトが効くと聞けば毎日食べるようにしたし、ほかに効くものがあると聞けば試した。

体の歪みも直したい。4年ほど前、急に右肩から右手指先まで痺れるような痛みを感じることがあった。脇腹の筋肉がぴくぴく痙攣するし、字を書くと腕の筋肉が痛くなった。異常な状態が2週間ほど続いたので整形外科に行ったがはっきりした原因もつかめず、たまたまネットで見つけた「上部頸椎カイロプラクティック」に行ってみた。偶然にも自宅から歩いて5分のところにあったのだが、運のよいことにこの施術が効いたのだ。詳しくは述べないが、頭蓋骨と、それが乗っている一番上の頸椎とがずれていると、その下の脊椎から腰椎までが重心を保つために無理な形に傾ぐのたそうだ。肩の高さや腰の高さが左右異なっている人は多いが、その原因が頭蓋骨の上部頸椎からのずれであることが多い。これをほんの一瞬の施術によって修正する。そうすると、体の歪みが原因で圧迫していた神経が緩み、しびれや痛みが取れるという理屈だ。実際、施術して3日目に痛みが無くなった。これほどはっきりと症状が取れる体験をすると、この施術の理屈が正しいと考えざるを得ない。以後、体の歪みも直したいと思うようになり、半年、一年してなんとなく体が歪んでいるような気がすると、メンテナンスのために施術を受けにいくようになった。

いろいろ書いたが、要するに、回復志向の診断は正しいようだ。家電製品や家財道具が壊れたら、とにかく何とか修理して元通りに使えるようにしたいと必ず思う自分がいる。直したいのだ。自分の名前はchokjin=ちょくじん=直仁=なおすひとなのだ。なんとまあ、自分の「才能」は初めから名前にあったんだと、ようやく気がついた次第である。

ペーパークラフト

小さいころからプラモデルを作ることがすきだった。たくさんは作ってないが、基本的に何かものを組み立てるのが好きである。今は亡くなった祖父の戦友に田宮さんという人がいて、実は、田宮模型の初代社長さんだった。それで自分が小学校の時、祖父に連れられて一度だけ田宮さんの家にお邪魔したことがある。田宮さんは小学生がくるからということで、いろんなプラモデルを山積みにして待っていてくださった。当時の田宮模型や戦闘機や戦車、戦艦、自動車、F1レーシングカーなどが多く、その時もそういった種類のプラモデルをいただいた。一番大きいものは大型の戦車で小学生にはとても作れるものではなかったので近所の模型マニアのお兄さんに作ってもらった記憶がある。
そんなことで、プラモデルは好きだった。大学生になるとガンプラも作った。そんな折、書店で薬師寺東塔のペーパークラフト本を見つけて購入した。前頁がクラフト素材だった。部品を切り取り、折り曲げ、貼り合わせ全高40センチくらいの結構見栄えのする三重塔ができあがった。そうとうに時間がかかった。家人はそれをみて褒めてくれたが、出来が良かったというよりも、よくもまあこんな面倒くさいものを作ったもんだといった感じだった。以後、たまに気が向いたらネットで無料で手に入る素材を見つけてペーパークラフトを作るようになった。本来的には精巧なものが好きだが、紙1枚からできる単純形のものをさっと作って置いておくと、小さい子が来た時には喜んで見ている。子供には精巧さよりも、たとえばネコさんなんかの単純化した可愛らしいおもちゃ感覚のものが楽しいようである。
一番最近作ったのは、モンサンミッシェルである。Canonのサイトに無料ダウンロードページがあって、入手した。このサイトにはかなり精巧な動物や建物などがあって、全部作ってみたい気がするが、どれも面倒くさそうで、気分が乗った時にしか作れそうにない。
http://cp.c-ij.com/ja/contents/1006/
ま、しかし、作り上げた時の満足感はある。細かいところは歪んでいたり、貼り合わせがずれていたりで恥ずかしいが、全体を眺めるだけなら結構壮観である。

モンサンミッシェルのペーパークラフト

根気と集中力と、大事なのは、いづれは完成する時がくるのを「待つ」という気構えだと思う。自分がやることなのに、自分で待つというのもおかしいが、しかしそれが大事だ。気が向いたときしかやらないのだから偉そうなことは言えないが、またいつか別のものを作ったら紹介したい。 では。

池田晶子「死とは何か さて死んだのは誰なのか」を読んで

前回書いたが図書館で池田晶子著「死とは何か さて死んだのは誰なのか」を借りた。一度借りて半分くらいしか読めず、続けて借りようとしたら、ほかの方が予約を入れていて返さざるを得ず、しばらくしたら返っていたのでもう一度借りた。最後まで読みたかったのもあるが、すでに読んだエッセーの中で特に感じ入るものがあったので、それをもう一度確かめたかったのも理由だ。いけないのは、感じ入ったはずなのに、内容をほとんど覚えていないという体たらく。感じ入ったという気持の状態だけを覚えていて肝心のその中身を忘れているのだから情けない。ま、多くのことはこんなもので、あの映画は感動した、とずっと思っていても、もう一度見てみると、こんな場面だったかな、と思うようなことはいくらでもある。

 それでとにかく読んだ。途中どこまで読んだか、栞が挿んであるわけではないのであいまいだったが、中ほどから読み進めてようやく最後まで読み終えた。それでいいのである。なぜなら、だいたい同じことを何度も書いてあるから、抜けてても、ダブっていてもさして味わいに影響しない。

ともあれ肝心の前半で感じ入った部分がどこだったか、なんどもパラパラと斜め読みして探したが、これ、という部分が特定できなかった。いったい、どこがよかったのか?不思議な感覚だ。自分の記憶の不確かさを再認識したと同時に、こうも思った。音楽と同じで、読書の記憶もその時の自分の状況や感情とつながっていて、時を隔てて読んでみても同じ感覚では読めないということなのだろうか。

 ただ、ページをぱらぱらめくるうちに、今回は今回で気になる文が見つかった。今度は覚えておきたいので、このブログに記録しておくことにした。以下はちょっと長い引用である。

 覚悟があるなら、人生のたいていのことは、なんとかなるのではないでしょうか。「なんとかなる」というのは、決断を誤らない、失敗をしないということでは決してない。決断が決断である以上、それが誤る可能性、失敗する可能性は必ずあるわけですが、それらのリスクをも引き受ける覚悟で決断する、そういう心の構えがあるなら、結果はじつは二の次ではないかということです。
むろん、人生には、重大な決断をどうしようもなく迫られる場面があるでしょう。決断を誤れば莫大な負債とともに倒産するとか、決断を誤れば命を失うことになるとか、そういう場合に、決断の結果は問題ではないとは、なかなか思えるものではない。
しかし、決断の結果失敗するとか成功するとか言われる、その失敗とか成功とかはそもそも何なのかと考えると、これがじつはよくわからない。・・・中略・・・「失敗」「成功」というよくわからない言い方をあえて借りるなら、人生の成功とは、どういう心の構えでそれを生きたか、自分にとってのその納得に尽きるでしょう。・・・中略・・・ さらにもっと根っこにさかのぼって考えてみれば、そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意思は全然関与していない、気が付いたら、どういうわけだが、こういう事態にさらされていたわけです。 このことの不思議に思いいたれば、人間が自分の人生について、自分の意思で決断してどうのこうのということが、いかに小賢しいことであるかにも気がつくでしょう。・・・

 ここだけ切り出してみても理解できない面もあろう。反論したいこともあるだろうし、真に受けたら、何も一生懸命生きることは意味がないとも受け取ることもできる。だから、これを読んで何か納得がいかない方は、池田さんの本をいくつか読んでみてほしい。そうすると、上の引用の部分から感じることが違ってくると思う。
 池田さんが繰り返し言ってることに、「死は存在していない」というのがあります。また、一人称としての死、二人称としての死、三人称としての死といった形で死について掘り下げて考えています。死体はあるが、死は見えないし、わからない。一人称としての死、自分の死は、自分が死んでしまえば、自分が死んだことはわからないから、自分の死はわからない、ということになるので、自分にとって死は「無い」ことになる。生きている以上死んでいないので、生きている自分が死んでいる自分をわかるわけにはいかず、死がわかる状態は原理的にあり得ない。確かにそうだ。「死」は「無い」から、「無い」ものを恐れることはナンセンスだ。と一応、池田さんのいうことに理屈上納得した気になる。
 数年前に、江原啓之さんや飯田史彦さんの本を読みまくった。死後の世界や生まれ変わり、魂の存在を考えるならば、人生観が変わる。科学的に証明されていないので、これらの話は人生をよりよく生きるためのひとつの考え方であるとの立場から、でもしかし、本当にそうなのかもしれないと考えてみると、自分の日々の心の襞を一歩引いて見つめてなだめすかし、落ち着くことができたのも真実だ。
 池田さんは死後のことは全く無視している。死は「無い」のだから、死後も考えようがない。だが、死後があると考えても、死は無い、と考えても、自分は同じような気持になれるのだから不思議だ。死ぬことは怖くない。ということだ。いや、死ぬ直前はきっと怖いだろうし、「死にたくない」とおそらく思うだろうが、しかし、死んだあとは、魂が残った場合は、ああ魂が残ったと落ち着いて自分の今生を見つめなおすことができるし、無となるならば、何かを考える自分が無いわけだから、何もいうことは無い。苦しむ自分も恐怖する自分も安心する自分も何も無いので、無いことを心配することも無い。どちらにしても、結局、自分で死ぬことはできないのだから、死がやってくるわけだから、その時まで生きるということに尽きる。
 とまあ、池田さんにすこしかぶれて、池田さんの言うことを反芻してみると、今のところはこんなところだろう。少しは自分で考えろよ。と反省しきりである。

ひとつ思い出したが、池田さんは、本を読むということは、そこに書かれている言葉を理解するために「考える」という。当たり前のようだが、そうかと膝をポンと打ちたくなる。本ばかり読んでいると自分で考えなくなる、一生、自分で考えずに本を読み続けるのか、としばらく前に自分の他力本願なところを歯がゆく感じていたことがあったが、いやいや、本を読むというのは「考える」ことだと言われて少し安心した。考えなければ理解できないし、読んだあと、言葉が残る。「言葉」=ロゴスによって生きることが人間の人間たるゆえんであることも池田さんはうまい表現で説明する。ああ、自分には表現できない・・・、皆読もう、池田晶子さんの本を。

 最後に付け加えると、池田さんは2007年に46歳でガンで亡くなられた。当然、ガンのことを知っていて、死が近いこともしっていながら、直前まで書いていた文章に、ゆるぎはなかった。ずっと同じ調子で同じ思索を深めていた。無くなった前後に最後に掲載された週刊誌のコラムを探して読んでみたが、本当に今から死ぬ人が書いたとは思えないくらいにリラックスしていた。ちょっと温泉旅行に行っていたらしいが、本当にちょっと温泉に行く感じであの世に行かれたみたいだ(あ、あの世は無かったんだっけ)。そして、ずっと池田さんが書きつづけていた生死についての考えは池田晶子本人として真実であったことをその生きざま、死にざまで示したんだなあと思う。本当に死ぬ間際までペンを離さなかったそうである。
 しかし、自分にとって、池田さんの死は三人称の死であるが、いろいろと本を読んできたので二人称の死に近く感じる。つまり、池田さんが死んだというのは、単なる情報であって、死体を見たわけでなく、死後も本が出るし、いや、今まで出版された本は少なくとも自分が生きている限りいつでも読むことができる。そういう意味で、池田さんが仮にまだご存命であっても、状況は変わらない。つまり、死んでないということになる。この感覚は、祖父母がとうに亡くなったのに、もともと大学に行き出してから別居しているので、生きているようにも思えるし、遺骸を見たので亡くなったことも事実だが、それも今は「無い」、ここには「無い」ので、結局、死んでない、生きている、と考えても別段、何も変わらない。いつでも祖父は自分に語りかけるのだ。  こういうこと、こういう感覚になってきたのは、自分が40代後半になってきて少しは成長した証拠だろうか。

漫画にキリスト

漫画もよく読む。今日ふと気がついたのだが、最近読んでる漫画にキリストがでてくる。

スティールボールラン:アメリカ大陸の各地に分散しているキリストの遺骸を集めて大いなる力を得ようとする人達の物語で、一部でも遺骸に関係すると、スタンド能力が備わるというおはなし。ジョジョの奇妙な冒険の続きというか、別の世界のジョジョの物語。

聖おにいさん:キリストとブッダが現代の地上世界のアパートでふたりぐらしするギャグ漫画。しかし、歴史や宗教をひととおりかじってないと理解できないことがおおい。

ラキア:異端宗教の話のようだが、かつて、キリストがゴルゴダの丘に向かう途中に出会った靴屋が出てきた。

ビリーバット:浦沢直樹の最新連載。太平洋戦争直後の米国と日本が舞台にはなっているが、戦国時代や月やキリストの時代に飛んだりして、これから話がどう進むのか皆目見当がつかない。ここでは、キリストがユダに裏切りを予言し、認める場面がでてくる。

偶然かもしれないが、それほど種類を読まない僕が最近購読している漫画が4つもキリストを登場させているのはどういうことか。ま、たんなる偶然と考えておこう。

「耳で考える」養老孟司、久石譲を読んで

図書館で3冊本を借りてきた。期限は2週間で、全部読めるかどうか自信はなかった。ひとつは、タレブの「まぐれ」、もうひとつは池田晶子さんの「死とはなにか」、そして最後は養老孟司さん、久石譲さんの対談本「耳で考える-脳は名曲を欲する」。タレブの「まぐれ」は前回紹介した本の中で紹介されていたので借りてみたが、翻訳本であるせいなのか、なかなか日本語がすっと入ってこない。たぶん期限までには読めないだろう。池田晶子さんのは、以前一回借りたことがあって半分くらい読んだ。再貸し出しお願いしたらほかの人の予約が入っていて一旦返したが、しばらくぶりに戻っていたのでまた借りた。2,3ページの小文の集まりなのでどこから読んでも途中で投げ出しても読んだ分だけ読んだ気がする。
さて、「耳で考える」は、養老先生がいつもの調子で、久石さんの話題をネタにあれやこれやの知識と見識とで解説を加える形で話が進む。久石さんは、宮崎アニメの主題曲の作曲家で有名だが、最近は映画「おくりびと」の音楽も担当されたとのこと。ほかにも知らない間に久石さんの曲をきっと聞いているのだろう。CM曲もあるらしい。それだけの実力と名声がありながら、養老さんの前では大人しい。会話の3分の2か4分の3は養老先生の発言で、久石さんは聞き役といった感じの本だった。謙虚に養老先生の説に感心しながら話は進む。久石さんが音楽作りに関連して不思議に思っていることや気がついていたことどもを養老先生が脳の仕組みから解説したり、古今東西の雑学から説明してみせたりするのが面白い。たとえば、視覚と聴覚の比較だ。人間はどちらかというと見ることによるよりも聞くことにより感動することが多いという。脳の中では、聴覚の方がより内部の原始的部位で処理されるかららしい。それに、音が耳に入ってから脳が認識するより、光が眼から入って脳が認識するほうが遅いので、久石さんは、映画で音楽を映像に合わせるとき、映像よりも音をほんの少し遅らせるそうだ。そういう工夫をしないとだめなのを経験的に知っていて、それを脳の働きから説明されたのに驚く。音の方が視覚よりも感動に結びつきやすいのは、自分もなんとなく感じていた。
映画などを見て泣けてくるシーンは、必ず、バックの音楽や、俳優の絞り出すような一声が効いている。昨日のフィギュアスケートカナダ大会で2位になった日本の高橋大輔君のフリープログラムの演技は映画「道」の曲を使ったが、このジェルソミーナのテーマを中心とした感動的な音楽を聞くと映画の感動シーンを思い出す。そして、それぞれのシーンを思い出させる振付やパントマイムが実にうまく、フィギュアスケートというスポーツというよりもひとつのアート作品を見ている感じで涙がでそうだった。とくに、けがから復帰して、けがする前よりも体の柔軟性が増して滑りがうまくなった高橋君が、今年のいくつかの大会に出て慣れてきてだんだんと仕上がってきた昨日の試合は、何度見ても感動的だ。しかし、もし、「道」の音楽がなかったらこれほど感動はしなかっただろうと思う。
昨日は、夜、TVで盲目のピアニスト辻井伸行君(20歳)がコンクールで優勝する話をやっていた。コンクールの初めから終わりまで、おもな参加者達と一緒に撮影したドキュメンタリーだ。彼のピアノの音色は、極限までに聴覚を研ぎ澄ませて最高の音を出すことだけに注力したかのようなクリスタルのような響きに聞こえた。彼の指は、音を出す瞬間のほんの手前まで小刻みに震えるように今から出す音を探っているように見えた(押そうとする鍵盤の上にいち早く指を運び、その位置を確実にしながら、確実に間違いのない輝くような音をだすのだ)。彼が優勝者として名前を呼ばれたシーンは、やはり感動した。お母さんはもちろん泣いていた。
映像は切り出してみることができるが、音は切り出したら、何も付随してこない。音は、過去と未来をつなぐというか、脳が音の時間性を認識の中に組み込んでいるから、リズムやメロディーを認識できて、ひと連なりの音楽という実体のない記憶としてしか認識できないものであって、だからこそ、さまざまな過去の映像記憶と結びついて心に残るのかもしれない。

「やるべきことが見えてくる研究者の仕事術」を読んで

先月、勤め先の研究所図書室で借りた「やるべきことが見えてくる研究者の仕事術」編著者:島岡 要 発行:羊土社(2009)を読んだので紹介する。
  ハーバード大学医学部研究者の著者が、日本の大学を飛び出して海外の大学で地位を築いていく実践過程で考えた研究者のキャリア戦略について述べた本である。研究者を技術者や開発者、あるいは、企業人と読み替えても当てはまる考え方が多いので紹介する。例えば、仕事のやり方=仕事力を身につけることが大事という部分。当たり前のようだが、仕事を遂行するために必要な技術や知識の習得に意識が偏りがちな人には必要な視点だ。研究者として仕事をすべき10の原則も,研究者に限らず必要なことだ。例えば,①興味を持てる得意分野を発見する、④現場で恥をかく、⑤失敗を恐れつつも、果敢に挑戦する、⑥自分の世界で一番になり成功体験する、⑧井の中の蛙であった事に気づき、打ちのめされる、⑨すべてを知る事は出来ない事を理解する、等。そのほか、仕事術として、説得力をもつプレゼンテーションの方法や、中年以降の英語力向上戦略(うまく話す事を目的としない、ネイティブと話さないなど、一見どういうこと?と思わせる)など実践的なアドバイスもちりばめて
いる。最も面白かったのは、強みについての議論である。人は自分の弱みについてはたくさんわかっているが、強みについてはわかっていないことが多い。弱みを一所懸命克服しても平均レベルになるだけで、人よりすぐれた成果を出すのは難しい。弱みの克服に時間とお金を投資するより、強みを見つけて強みを伸ばすことに投資したほうが、優れた成果を達成する確率が高い、という考えである。これは、欧米で提唱されているStrength-Based Approach(SBA仕事術)に基づく。強みというのは才能であり、才能は、「無意識的に繰返される思考、感情、行動のパターン」と定義され、誰もが持っているものである。これを認識して、適切に仕事に生かすということである。ちょっと考え方が変る議論である。詳細については別書「さあ、才能に目覚めよう」(日本経済新聞社)が紹介されている。


以上、ブックレビューとして、会社の社内イントラネット上の図書室のめるまがに掲載した。だから、とても会社向けに書いてある。文末にある「さあ、才能に目覚めよう」という本は、2000年ごろに出版されたようだが、一か月ほど前に寄った書店に山積みされていたので、そこそこ売れているのだと思って購入してみた。ここで言っている「才能」「強み」の定義については、実際にお読みになるとよいが、一般的に思われているのとはちょっと違う種類の言葉だと思ったほうがよい。34種類の才能(資質といったほうがよさそうな表現だが。たとえば、「回復志向」「親密性」といったような言葉)が挙がっていて、本のカバーの裏に印字されているキーワードを使うと、専用のURLから一回だけ、才能診断ができて、5つの才能が特定される。性格診断のような感じがするが、本に言わせればまったく違うという。これをもとに職業適性がわかるか、というとそうではないという。どのような職業についても、そこで、その人の才能を発揮できれば「成功」につながるのだ。自分は「成功」という言葉にはいつも胡散臭さを感じるが、まあ、そこは、仕事がうまくいく、ぐらいに考えたい。職業適性はわからないが、職務適性はわかるようだ。製造業に務めるサラリーマンでも、病院に勤務する場合でも、そこで、どのような仕事に就かせたらよいかは、本でいうところの才能の種類を見極めて適材適所に配置するのが賢い人事制度だという。マネージャに適しているのか、営業職がいいのか、現場がよいのか、適切な判断ができるということだ。確かに、今の会社の人事制度では、従業員の資質(本でいう才能)を客観的尺度で評価していないから、職務の与え方、配置は、上司の属人的な判断によるところが大きい。適材適所という言葉が実効性を帯びる可能性のある斬新な考え方かもしれないと思った。

上橋菜穂子を読む楽しみ

我が家のリビングにある本棚の真ん中に目立つように4冊のカラフルな上橋菜穂子著「獣の奏者」が置いてある。今は、第4巻が抜けているが、これが僕には嬉しいことなのだ。というのは、カミサンがピアノを教えている小学3年の子がこれを借りていって読んでるからだ。その子は、以前図書館で獣の奏者の1巻と2巻を読んで大層好きになったらしい。完結したと思っていたこの物語の続編が最近出版されたわけだが、これをうちの本棚に見つけて読みたそうだったという。カミサンは僕に借りていいかどうか聞いてみるねと言って、そのことを僕に話してくれた。ああ、小学校3年でもこの本の面白さがわかるのだ、と感動し、好きにしていいよと伝えておいた。それで2週間あまり3巻が本棚から消えていたが、先週気がつくと3巻が戻り4巻が消えていたので、カミサンに聞くと、3巻よんで面白かったそうだとのこと。この物語は、3,4巻は少し政治的な話がでてきて込み入ってくるので小3にわかるかな?と思っていたが、どうも頭のいい子らしくて、それなりに咀嚼して読んでいるのだろう。

「獣の奏者」はNHKの教育テレビでアニメを放送している。少し、小さい子向けにアレンジしてあるし、絵も独特の描き方で雰囲気を出しているが、筋は原作を踏襲していて、僕も毎週楽しみに見ている。物語に出てくる「闘蛇」「王獣」といった架空の大型生物は本を読むだけでは自分で想像するしかないが、アニメでは著者の監修入りでそれら獣が描かれているので、まあこれをイメージして本を読んでも差支えないだろう。

物語の内容を紹介するには骨が折れるので余所に任せるが、分厚い4巻は面白くておそらく2,3日で読み終えてしまえるほど話の展開に誰もがのめり込むことだろう。上橋さんはテレビ出演で「ルール」という言葉を使って、物語の世界の秩序の大切さを説いていた。ルールが無いと荒唐無稽なただの空想話になってしまうファンタジーだが、上橋さんのファンタジーはどれも、世界があってルールがあって、その中で人々がさまざまな出来事に立ち向かい、傷つき、何物かを得ていく。ルールがあるから、もどかしく、それを破れないから祈りがあり、完全には解決しないで悲哀も含みながらひとつひとつのことがらが治まっていく。

上橋菜穂子さんの物語で他に有名なのが、守り人シリーズである。一作目は「精霊の守り人」で、これもNHKでアニメ放送があった。DVDも出ている。画が非常に精緻で素晴らしかった。ストーリーは若干異なる部分もあるが、原作の味がよく出ているし、アニメの主人公たちの風貌も「きれいな顔立ち」なので、気持ちよく原作が読める。この話で上橋さんの語りに魅了されて、「闇の守り人」「虚空の旅人」などのシリーズを読み、別作「狐笛のかなた」も面白く読んだ。基本的に上橋さんの物語に出てくる人は、それぞれに善い人だ。根っからの悪人はいない。悪人のように描かれていても、その人はその人の立場で一所懸命やるべきことを全うしようとしているので、それが主人公たちへの攻撃や嫌がらせであったとしても仕方がない。大人なのだ、皆。今、楽しみにしているのは、シリーズの文庫本が出ることだ。守り人シリーズは、半分が文庫本になっている。「蒼路の旅人」以降はまだ読んでなく、大型本や少し小さくした軽装版を買ってもよいのだが、あえて買わずに文庫本が出るのを待っているのだ。楽しみはあとにとっておこうという感じだ。あわてずに、その間、他のいろんな本も読みたいし、ってところだ。

洒落てみる

少しばかりカッコよく着こなしてみたい、と頭の隅に思っていた。46歳。頭は前から禿げあがり、眉毛は垂れて、お世辞にもイケメンとは言えない。元プロ野球選手の古田さんに似ていると言われたことがあるが、猫背でなで肩で立ち姿も元気がない。そんな風に自信の無い風体であるのだが、少しオシャレしてみたい気持ちがあった。それで、5週間前、近くのSATYで帽子を買った。夏には日除けのためにキャップを被っているが、あくまで実用重視だった。禿げは禿げのままでいい。若いころは育毛剤をいくつか試し、シャンプーも気を使ったが諦めた。今は、髪の毛がほしいとは思わない。けれど、どんな服を着ても似合わない気がして、何がどうとは説明できないが、外でふと鏡を見ると残念な気持ちになるのだ。考えたのは、少し洒落た帽子でも被ってみよかということ。それで買ってみた。前からなんとなく気になっていた黒のハンチング(元狩猟用、鳥打帽だそうだ)だ。
これを被ると何かいまひとつ。眼鏡だ。眼鏡をするようになってからずっと、縁の細い、縁が目立たない眼鏡をしてきている。どこにもいるサラリーマンの眼鏡だ。これは、縁の太い眼鏡にすれば、ハンチング帽と合うと直感した。それで、次の週に眼鏡を買った。休日、プライベート用として。
こうなると、何を着るかだ。カミさんが、PARCOに行って、メンズのMSPCという店で、黒い丸ネックのTシャツを買ってきてくれた。生地の丈夫そうな、身体にぴったりフィットする細身に見えるシャツだ。黒縁の眼鏡を新調したので、黒いシャツにしてくれた。今までTシャツと言えば、旅行先で買う土産Tシャツがほとんどで、だぼっとした半そでしか持ってなかった。今回のシャツは長袖で、かなり袖が長い。着てみると、娘までカッコいいという。最近はやりの草食系男子に似合う形らしいが、自分の場合、まだ腹は出てなくて細身の上、胸と肩に少し筋肉が付いているので、より良いのだという。そんなものかな、と最初は今一つピンとこなかったが、他人から似合うと言われるとその気になってくる。
そして、それから2週間。時間ができたので、カミさんにPARCOのMSPCに連れてってもらった。例のシャツを着て、新調した眼鏡とハンチング帽を被って。これは、自分としてはかなり勇気が必要な外出だったはずだが、結局、眼鏡や帽子は、鏡がなければ自分では見えないので、しばらく歩くと何とも思わなくなった。ただ、行き交う人の頭にいちいち目が行った。帽子を被っている人を無意識に見つけようとしていた。居ない。ほとんどいない。JR、地下鉄、PARCO、LOFTと人ごみを歩いたが、ハンチング帽を被っている人はわずかだった。ま、いろんな帽子があるので、人それぞれだが。そのうち、自分がその帽子を被っているのがちょっとした優越感に変わってきているのを感じて面白くなった。なぜだかわからないが、このファッションに自分がハマっているという気がしてきたのだ。
MSPCに行くと、前にカミさんが相手してもらった若い店員さんがまた応対してくれて、カーディガンやジャケットを着せてくれた。20代と思われる店員さんは、見かけ、チャラ男っぽいが、話が上手で客慣れしている。11月になって急に冷え込んだせいで、カーディガンと一緒に皮ジャンも買おうかと思って両方着てみた。皮ジャンも身体にぴったりする作りで、この年まで試したことのない(しかし、若い人は皆きてるような)形だったが、思いのほか、動きにくくなく温かい。羊の皮と言ってたみたいだが、かなり上等なもののようだ。気に入って値段を聞いてびっくりした。やめることは簡単だった。しかし、もうその気になっていた。高いものは良いもの。良いものは高い。とは必ずしも成り立たないが、今回はたぶんそういうものだ。ま、何年に一度の買い物と思ってカードで買うことにした。着て行ったシャツによく合っていたし、普通の襟のあるシャツでも、色についても何でも合うと店員さんは言う。試しに店にある赤いシャツに合わせてみたが、違和感は無い。たぶん彼は嘘は言ってない。それで腹を決めた。このあと、店の中を見て回ると鞄もいろいろある。薦められて面白いポーチがあったが、高額だったので今回はやめた。しかし、今でも思い出す。ちょっと気になるポーチだ。もう少し気持ちが大きかったら買っていただろう。あるいは、1か月以内に買ってしまうかもしれない。
ポーチの代わりにというわけではないが、ビジネス鞄で良いものがあった。革製ではないが、革製に見えて、いま持っている安い鞄とは明らかに品の違いがわかる。ああ、もう。高額な皮ジャンを思い切った後はその鞄が安く思えた。それで買ってしまった。
結局、二つの買い物はその日一日を心豊かにしてくれた。何か良いものに出会った。良いものを手に入れた。きっと、いつまでも気に入って使うだろう。そういう予感にあふれた買い物だった。
まずは明日の出勤が楽しみだ。そして、次の休日が楽しみだ。もちろん、新しい鞄を持って会社に行き、新しい皮ジャンを着て、ヨガに行くのだ。
最後に、こんな気分にしてくれた愛するカミさんに感謝したい。ありがとう。
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