直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2009年12月の記事

ヨガの効用

2年ほど前から、毎週一回、ヨガスタジオに通っている。会社で新しい役目、新しいTOP、新しい仕事などの変化に耐えきれず、メンタルクリニックに通っていた時期に、カミさんから誘われて一緒に始めた。カミさんはそれまでにホットヨガをやっていて、心身のすっきり感に魅了されていたが、美容志向が強まる教室の在り方に少し合わなくなって、しっかりとヨガの本質を教えてくれそうな教室を探していたところだった。試しに行ってみたところ、なかなか良いので続けている。週一回だと少し足りない感じだが、最低週一回のヨガが生活のサイクルになって欠かせないものになっている。ヨガは体が柔らかくないとできないと一般の人は思っているみたいだが、別に硬くても構わない。いろいろなポーズにはつらいものもあるが、体の可動範囲で少し頑張ってみて、筋肉や筋の伸び具合を細かに丹念に観察するのが重要だと言う。呼吸に合わせて動くことも重要だ。私の理解は、ヨガのポーズ(アーサナという)は、自分の体のあらゆる部分を自分で感知する、認識する、観察するということに意識を細かく集中する訓練の道具である、ということである。深く丹田腹式呼吸をおこないながら、例えば、脇の筋肉の伸びや心地よい痛みを1cmずつ意識を這わせながら観察する。これに意識を集中する。アーサナをゆっくりと変えながら1時間以上続ける。集中力の訓練みたいなものだ。そして自分の体を存分に認識できるようになると、たぶん、コントロールできるようになる。また、一方で、心を開放できるようになるのだと思う。体に集中することで、雑念が軽く流せるようになる。雑念は無くならないが流せるようになると一週間の仕事のやり残し感や次週への不安感などが一時的にではあるが忘れられる。ヨガ後、しかし、もとの精神状態に戻ってしまうことは否定しないが、たぶん、全く同じではなく、ひとつ抜けた感じがするのだ。不要な感情の起伏は自然と修まり、ニュートラルで客観的な自分に少し気づくことができる。一時的なことだが、それを毎週続けていくことで必ず自分は変化していくと思う。ヨガにはまる人は、もっと多くのことに気付き、気付きは終わることが無く、毎回新しい発見をし、ちょっとずつちょっとずつ変わっていくみたいだ。自分はいつも自分であり、10年前の自分と昨日の自分は今の自分と同じで、明日も自分だと、まずはどうしても無意識に感じているものだから、たとえ、他人から見て自分が変わっていても、自分で自分が変わったとは認識しづらい。私は変わったのだろうか。何らかの定点観測の方法を会得すれば、自分を客観的に見れるだろう。
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ソクラテスの弁明

池田晶子さんの「死と生きる 獄中哲学対話」を読んで、「ソクラテスの弁明」をもう一度読まなければならないと思い、家のどこかにあるかもしれない古い文庫本が見つからなかったので、新しく買ってきた。共著の睦田氏が獄中で読んで理解したことを自分も理解してみたかった。
一応、一通り読んだが、もう一度読んだという感じではなかった。初めて読んだ気分だった。前に読んだのは高校時代。倫理社会のホッタ先生の授業が面白く、ソクラテスやプラトンやアリストテレスやらをアイドルのように感じて、イデアやらエロスやらについて勉強した筈だったが、すべて忘れていたことを今回認識した。一度読んだことがある、というのは、内容を覚えてなければ意味のないことだ。読んだことがあるという事実には全く意味がない。だから、人に言うのは恥ずかしいことだ。他にもこういうことは多いと思う。梅原猛先生の本もよく読んだが、最初に読んだ「地獄の思想」は、内容を全く思いだせない。だから、読んだことがあると言うのはやめようと思う。
しかしながら、ソクラテスの弁明を今回読んでみて、死ぬことと生きることはそれぞれどういうことか、池田さんがいつも言ってることと共通の言説を見つけることができた。遠い高校時代の自分はもしかしたら、その時に何か感じて、思うところがあって、実際には潜在記憶に何か残っていて、だから、池田晶子さんの本に惹かれる自分が今いるのかもしれない、とも思った。
さて、しかし、一通り読んだだけでは(しかも、10分ずつ、通勤電車の中で、何日もぶつ切りでは・・・)、しっかりよめた気がしない。もう一度、一行一行、吟味しながら読んでみることにする。

全日本フィギュアスケート選手権終わった

全日本フィギュアスケート選手権が終わり、オリンピック代表が決まりました。今、エキシビションを見ながら書いています。一押しのジュニアチャンピョン村上佳奈子さんは、シニアに交じって5位と健闘しました。上位4人とはレベルの差が明らかですが、明らかに次世代を担う若手ホープの位置づけを全国のフィギュアファンに印象付けました。女子シングルは、やはり、大須VS世界がしばらく続きそうです。とてもうれしい。しかし、なぜだろう。今回の大会を見ていて、浅田さんと村上さんと高橋君の演技には終わってしばらく声も出せず涙が出そうになりました。背負っているもの、オーラ、才能の発露、どういう言葉で説明していいかわからないが、訴えるものがありました。3人とも滑り終わったあとの表情が非常に魅力的だったことは共通点です。衣装を着てはいても髪ぼさぼさで練習をしていた浅田さんのアスリートづらと本番での強い表情、それらを思い出す度、彼女の生きざまの凄さに感動します。
そして、来年は村上さん、もうふたまわりくらい大きくなってシニアでメダルとってくれることを望みます。

ところで、高橋大輔君のエキシビションの曲は、月野そらさんの「Luv Letter」という素敵な曲です。きらきらと輝くような心が洗われるようで、軽やかに動きたくなるような曲です。カミさんが気に入ってCDを購入したくて、何カ月か前に月野そらさんのホームページから購入申し込みをしたら、手作りのCDということで、忙しくてすぐに作れないとの返事でした。それでも先日、忘れたころにご本人の直筆のメッセージ付き(封筒もご自分で書いた模様)でCDを送ってくださって、カミさんは感激していました。もはや高橋君のエキシビで使われてきっと名前も売れてどこかのレーベルから発売してもらってもいいだろうに、謙虚な方だと思いました。才能のあるアスリートと才能あるアーチストの出会いと、その邂逅に触発された芸術を追い求めるカミさん(一応ピアニスト)のこうした小さな関係性というのは、何か小さいようでいて大きな意味のあることに思われ、楽しい気分です。

アルヴォ・ペルト ARBOS

アルヴォ・ペルトというエストニアの作曲家がいる。まだたぶん存命だ。そのARBOS(アルボス≪樹≫)というアルバムを持っている。最初の曲、アルボスが好きだ。たまに聞きたくなる。たまに聞きたくなるような曲という意味で好きだ。金管楽器が目立つ曲で、音の始まりがわからない。たくさんの楽器が同じような旋律をずらしながら重ねて響かせ、最後は、最初の逆の順序で終わるように、すっと、またすっと音が消えていき、少し突然に終わる。少し突然に。ま、音楽を文章で表現することはまず不可能だから、これ以上の説明はあきらめる。
この曲を聞くとヨーロッパの暗い街の運河の周りに立つ込み入った石の建物群のブリキ臭いような、そして、よく宮崎駿監督のアニメにでてくるごった煮のようないろんなものがくっついてひんまがったゴミの塊のような建物のイメージが湧いてくる。その建物からトランペットの音が物憂い感じで流れてきて、物憂い感じの貧しい労働者達が、肩を落としてゆっくりと体重そうに仕事にでていくような様、空気を感じる。なんで、≪樹≫というタイトルなのに、そんなイメージが湧くのかよくわからない。(追記:アルボスは ニコニコ動画の アルヴォ・ペルト「タブラ・ラサ」他 の動画の一曲目に入ってるのを見つけました。ご参考まで)
これ以外の曲は、静謐という言葉が似合う、聖歌のような音の少ない曲だ。気持ちがいい。
もうひとつ、アリーナというアルバムもある。この中の曲は、本当に音が少ない。ゆーっくりと、一音階ずつ長い音を出して、順に上げていき、真中で折り返して、ゆーっくりと降りてくるだけ。簡単な和音の伴奏があるので音楽に聞こえる。これに呑まれると、時間の速度が一気に遅くなる気がする。落ち着いた時間が取れるときに聞くのが善い。というか、そういうときしか聞けない。そんな曲。

「死と生きる 獄中哲学対話」と「動的平衡」

図書館で借りた2冊の本を明後日返却しなければならないので、頑張って読んだ。私の読書スピードは速くない。東京出張なんかでもないと一週間で一冊も読めない。新幹線の1時間40分は貴重な読書タイムだ。(しかし、行きだけは会社関係の書類を見るようにしている)
読んだのは、池田晶子・睦田真志「死と生きる 獄中哲学対話」と福岡伸一「動的平衡」である。
まず、「死と生きる」についてはレビューを書く段階に無い。何回か読みなおさないと迂闊なことは書けない。ただ、これを読んだ先週一週間の気持の高揚感だけは記録しておく。近いうちに購入すると思う。池田晶子さんの本はいくつか読んだが、この本で初めて、池田さんの「愛」を感じた。そして、「死と生きる」というタイトルにして、両名とももう生きていないということも加わって「死」についての考えが螺旋を巡るようにあっちこっちと揺らぐ。死刑囚であった睦田氏は先の宮崎勤と同日死刑が執行された。しかし、彼の言葉もガンで亡くなった池田さんの言葉も私は本を読みながら耳間近に聞いているようだった。睦田氏の言葉には考えさせられることが多く、いちいち取り上げて吟味してみたいが、一方で、いくつかの書簡を池田さんが嗜める、その内容にも新たな視点で気づきを与えてくれる。
わけわかんなくなってきたのでやめるが、いづれもう少し自分の身になってきたら書きたい。
「動的平衡」は読みやすくて面白かった。生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。環境は常に人の体を通り抜けている。その流れの中で人の体は少しずつ変わりながら、一定の状態を保ち続けている、のだそうだ。つまり、生命は動的な平衡状態にあるのだという。雑誌に書いたエッセーをベースにまとめなおした本らしいので、全体として起承転結がある内容ではないが、どの章も「そうだったんか」と思わせる知識を本当に素人にわかりやすく書いてくれているので、気楽に面白かった。
そこで、しかし、池田さんがよく語っている「死」と「生」についての論考を合わせて考えてみた。生命は動的平衡だという。なら、考えるという行為も動的平衡の所産なのだ。動的ということは、動いているわけで、分子の分解も構築も時間の流れのなかの現象である。ここで、時間というものの存在の大きさに思い至った。「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画があるが、適役のディオがスタンドという精神が生み出す超能力体のような力が、時を止めて、自分だけがその中を動けるというシーンがあって、それをまさに思い出した。時が止まった世界を動くディオを主人公たちは見ることはできない。これは、死と同じではないのか?生命体が死を迎えると、分子は分解だけして、新たに細胞を構築することはなく動的平衡がくずれる。一方的に朽ちていき、分子・原子は分散しエントロピー増大の方向に動く。平衡が崩れるのが死ということになる。これは明確な結論に思える。もうひとつの考え方は、動的であること、でないことが死、である。つまり、それは、時が止まっているということに相当する。時間があるから動的平衡が存在し、生命が存在し、私が存在する。「時間の流れ」が無ければ、何も存在しない、ということではないか。「死」とは「時間との決別」ということではなかろうか。
今日の昼間に思いついてなんだかよさそうに思っていたが、今、文章にしてみると、かなり論理の飛躍がありそうだ。ま、もう少し考えてみる。
もうひとつ、こんなことを考えてみた。池田さんがよく「生きている」ということはどういうことかを考えるときに、対極としての「死」を考えるが、「死」は「無い」のだから「死は無い」。「無い」ものについては知りようがない。ということになって、だから、わからないものが善いのか悪いのかわからないということになる。そんなようなことを考えると、結局、死ぬのが怖いという一般の人が思うことが実は意味のないことになる(と私は理解している)。確かに、死んでしまえば、死んだ自分をわかるわけはないから、死んだところで何のことは無く、恐怖も何も感じる理由はない。だけれども、これはどうしても頭の中だけの理屈のように思えてならない。一時期、というか今でも、スピリチュアリズムを提唱する人らのことを半ば信じていて、魂というものがあり、死んでも魂は残り、生まれ変わるということもありそうに思っている。確信はないが(当然)、思っている。なんとなく、そうなんだろう、という気がしている。だから、死ぬのは怖くない、ということになる。あくまでもそう思っている。どっちにしても、「死」んだ状態は「無い」か「(魂が)有る」のだから、怖いことはないはずだ。理屈では。
でも、やっぱり死ぬのは怖いんじゃないか。多くの人がきっと怖いと思っていると思う(他人の心はわからないので想像するしかないが)。だとすれば、それはなぜか。「死」は「無い」ということだと池田さんが言うことは正しい。しかし、いつか「無い」になることが、とてつもなく「絶望的に心細い」んじゃないのか、人間は。それを怖いと感じているのではないだろうか。「絶望的に心細い」のも「死ぬ」その瞬間のほんの手前までの感情に違いないが。なぜ心細いのか、それは「死」がわからないからだ。まったく理解できない、そのことにすべての人は必ず到達する。必ず来る「死」が理解できない。それだから心細いのだと思う。
またまたわけがわからなくなってきた。このへんにしておいて、また整理がついたら書いてみたい。

フィギュアスケート2009グランプリファイナル日本人優勝!

フィギュアスケート2009グランプリファイナルで日本人がダブル優勝した。シニアではなく、ジュニアのことである。ジュニア女子のホープ、大須VS世界の期待の星、村上佳奈子さんが、ジュニア女子シングルで優勝した。これで、今シーズンのすべての大会で優勝という快挙である。素晴らしい。夏にモリコロパークのアリーナで見て感動して以来、注目していたが、本当によく頑張った。敬服する。昨日のショートプログラムでは、3回転-3回転のコンビネーションにチャレンジして成功した。シニアの安藤さんや鈴木さんですら挑戦しなかった3-3をジュニアの村上さんがトライしたことだけでも評価できる。2位のロシアのポリーナも3-3を成功させたと聞く。若い人たちの将来が楽しみだ。今日のフリープログラムは、お互いミスはあったものの、良い面(演技力、技のつなぎなど)が出て感動的な滑りだったらしい。ああ、普通のテレビ番組では見れず、有料のテレ朝チャンネルを契約してないのが悔やまれる。
また、ジュニア男子は昨日、羽生君が優勝した。仙台の子なので、愛知県民の私としては今一つ親近感が無いが、映像で見る限り、しゅっとしていていい男で、体型もすらっとしていて、滑りる姿勢が良い。高橋君の次を担う若手だと思った。
ジュニアといえど世界一になったのだから、テレビ朝日系列のグランプリファイナルの放送(今日、もうすぐエキシビジョンの放送が始まる)で一般の人にも是非紹介してほしいものだ。いや、世界一になったことを紹介してもらいたいというよりも、彼、彼女の滑りの素晴らしさを、その感動を世の多くの人に伝えてほしいと思う。フィギュアオタクに片足つっこんだ中年オヤジの切なる願いである。
以上

「日本の技術経営に異議あり」を読んで

会社の図書室にある本を読んでは、毎月、図書室のめるまがにブックレビューを載せている。今月は、日本経済新聞出版社の「日本の技術経営に異議あり」である。ISBN978-4-532-13376-4。本当は時間がなくて全体の3分の2しか読めていないが、期限が無いので、途中までの要約にしてしまった。けれども、結構面白いし、学者の書く耳学問的な話に終始する他のMOT本と違い、実際に企業で働く人が社会人大学院生として勉強しながら、その研究成果を書いたものを集めていて、会社を内側から観察して書いているのがなんとなくわかる点が興味深い。もちろん、のこり3分の1も読むつもりだ・・・ 以下、ブックレビュー原稿である。

技術経営(MOT)の本はいろいろあるが、本書は、東京理科大学MOT研究会の教員と社会人大学院生、すなわち、実際に企業で働きながら仕事の外でMOTを研究している人が書いたという点で一読の価値がある。内容を順に紹介する。
まずは、日本の企業経営の特徴は、人的ネットワーク尊重(組織の観点)、資源蓄積尊重(戦略の観点)、継続的安定的取引尊重(取引と分業の観点)とし、これを背景にMOTは蓄積志向型(自社の技術のDNAにこだわる)、分散型(滲み出し的戦略のため、現場に近い部署で実質的に意思決定するボトムアップ型)、横並び型(競合と似る)、セミクローズド型(自前主義+系列企業利用)と分析する。これには光と影がある。影として「戦略なきチマチマ開発」「新規事業開発の幻想」を挙げる。技術蓄積志向のため、蓄積の発展線上に大きな市場が予測できないと苦しむ。苦し紛れに既存事業との距離感を間違う。既存事業との距離が遠ければ開発はうまくいかない。ではどうすればよいか、それは本書を読んでほしい。
 次に、中核技術(コア技術)の認識の重要性とむつかしさであるが、中核技術を「自社で扱う様々な事業において競争優位な技術を生み出す源泉となりうる深い共通の技術、競争優位な技術を「特定の製品開発において競争優位な製品開発に直接的に貢献する技術」と定義する。村田製作所の中核技術は「セラミックスを焼く技術」、セイコーエプソンの中核技術は「超精密機械加工技術」と例示する。一方、セイコーエプソンの「インクジェット技術」は競争優位な技術である。なぜなら、インクジェット技術はプリンタ事業を競争優位に導いたが、液晶パネルは太陽光発電用パネルなどの別事業に参入を試みたが競争優位になってないからである。中核技術は、競争優位技術を生み出す源泉であり、環境影響を受けにくく持続性があり、深耕する価値のある奥深さのある技術であるから、これを的確に認識し、この深耕に資源を投入することが技術経営として重要である。中核技術は事業活動の背後で「いわば密やかに」蓄積されている、地味な存在で、客観的に評価しづらく具体的にイメージされにくい。自社でも認識しづらいのだから、競合他社には真似できず大きな価値がある(当たり前の技術の表現で字面ではわかっても内実は認識できないものだから)。そして中核技術の深耕という技術革新が起きる。中核技術の認識と資源投入による深耕ができている企業が強い企業だと言う。
 研究者と事業との関わりについても述べている。事業活動に必要な能力は、①情報収集力、②他人との協働能力、③折衝力であり、対して研究者の習性は、①正確性の重視、②技術への思い入れ、③柔軟性と協働性の低下である。事業展開には、顧客の顕在、潜在ニーズの引き出しが必要だが、顧客がわざわざニーズやロードマップを示してくれるとすれば、今見えている技術力以外の技術蓄積を感じてくれるかどうかである。技術蓄積を伴った研究者は、いち早く顧客のニーズを引き出すことが可能でニーズの技術的要件への変換が速い。しかし、研究者には上に述べた習性があって、事業部門に必要な能力に相いれないケースが多い。そこで、研究者のフィールドシフトが必要になる。良い例としてJSRのやり方がある。JSRでは技術系大卒者の多くを10年程度まで研究所で研究開発に従事させ、その後、生産や営業に配属、定期的にローテーションする人事制度にしている。技術系営業の大半が技術蓄積を伴った研究開発経験者である。また単に10年後に営業に転職ということではなく、先の研究者の習性を修正すべく、入社3-4年目ぐらいから、元研究者の先輩営業に同行し、顧客へのプレゼンの機会を持つようにするという。こうしたことはひとつの例であって同じようにすればよいとは限らないが、根本的な課題に対する人事上の工夫も全社として考えるヒントにはなると思う。

シベリア抑留に思う

最近、シベリア抑留者についてニュースなどで聞くことが多い。ちょうど国会でシベリア抑留者対象の給付金法案が審議されているらしい。私の祖父もシベリア抑留者だった。しかし、すでに亡くなって久しい。91歳まで幸せに暮らした人だったと思う。が、祖父がシベリアでどのような体験をしたかはほとんど聞いていない。TVでは、抑留者が酷い仕打ちを受けたことを強調しており、存命の方のコメントを紹介している。祖父もそうだったのだろうか。今となってはわからない。

2003年に、シベリア抑留と祖父についてエッセイのようなものを書いたので、以下に転載する。会社のイントラネット上のとあるサイトの投稿欄に投稿したものだ。

シベリア抑留から帰還した祖父のこと
          2003年5月

街の図書館で「シベリアへの旅路 我が父への想い」という写真集を見つけた。シベリア抑留の話だなとピンときて手にとってみた。写真家・角田和夫さんのご尊父がシベリア抑留時に辿ったロシア各地の現在の様子を撮ったものだ。
私の祖父も太平洋戦争で旧・満州に渡り、戦後、ソ連の捕虜となってシベリアに約三年間抑留された経験を持つ。角田さんにとっては父親、私には祖父だが、彼らは同じ境遇を囲った。角田さんのご尊父は、満州での軍隊生活とシベリア抑留を経て帰還するまでを手記に綴っていて、これを元に角田さんはシベリアの地を訪れ写真に収めてきた。
シベリア抑留を経験して帰還した方の何人かは、その経験を手記にしたり、出版したりしたことだろう。劇団四季でもシベリア抑留を描いた芝居をやっていた。私はそうしたものをまだ読んだり見たりしてはいない。写真集もぱらぱらとめくっただけだ。私は自分の祖父から話を聞きたかった。
祖父は一昨年亡くなった。生前、シベリアでの話を何度か聞こうとしたが、祖父は多くを語らなかった。世界地図帳のソ連のページを広げて、自分が辿った町の名前を追いながら、こんなところまで行ったのだと教えてくれた。だが、詳しく聞こうとすると、「まあ、忘れちゃったがや」とそっけない。ソ連兵に祖父が腕時計をやったら喜んでいた、という話は何回か聞いた。喜んでいたというのは半分嘘で、タバコや食料を融通してもらったのだろうと思う。ほかにもいろいろと覚えているだろうが、きっと話したくなかったのだろう。
もともと口数が少ない人で、若いときからいろいろな職についてきたが、飄々、淡々と渡り歩いてきた人だった。五十を過ぎてから、祖母と二人でよく旅行に行った。近場へは孫の私なども連れて行ったが、楽しんでいるのだろうか、とにかくあまり話をした記憶が無い。たぶん、行った場所で何かを見て知って何かを感じて、それで満足なのだ。私もそういう面がある。とにかく行って帰ってくる。動くことが生きることみたいに。その時が去れば、次の時をどう動くかに興味は移っていく。
 祖父は、満州でソ連に捕まり、シベリアに抑留され、日本に帰ってきた。その間、本当にいろいろなことがあったはずだ。だが、その運命に飄々、淡々と従って生きただけだ。済めば次の瞬間を生きるためにまた動き始めた。
写真集を見たのがきっかけで、祖父のことを振り返ってみたが、そうした生き方があらためて見えたような気がした。

以上
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