直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年01月の記事

人が電車と接車・・・

JR中央線は人身事故が多いらしい。通勤に使うようになって13年になるが、もう何十回あったことだろう。多いときには、金曜日夕方3週連続なんてことも記憶にある。他の線でもそうかと思っていたが、JR中央線は多いと書いているサイトがあったので、やはり多いのだ。

今日も用事を終えて帰ろうとして駅に行くと、「勝川駅と春日井駅の間で人と電車の接車事故があり・・・しばらく上下線とも動かない」というアナウンスで、次の列車の情報は掲示板から消えていた。
正直、またかという気持ちが湧いた。おそらくその事故は飛び込み自殺であり、どのような事情かは知らないが尋常な心理状態ではなくなった彼か彼女かが身を投げたのだから、それはしてはいけないことだと思うのだけれど、またか、と思うのは不敬だと反省した。
また、考えても見よ、これまでに飛び込んだ人と今日飛び込んだ人は別人であり、またか、と言われる筋合いない。僕のほうの感覚がマヒしているのだ。飛び込みをする人は、僕の頭の中で「飛び込みをする人」という同じ誰かになってしまっている。

自殺者は皆違う個人なのに、なぜ同じような方法で自殺するのか。自殺の仕方を書いた本が出たこともあるが、そうした本でなくとも、新聞やテレビやネットやに自殺の情報が流れることによって自殺の手本になり、自殺者が自殺に至るまでの間に、それら情報が彼らに記憶に忍び込み、その中から自殺の仕方を選びとった結果として、同じ自殺が続くのだと思う。自殺した人の情報を一切公表しない世の中にならないのだろうか。

電車に飛び込む時に、運転手のことは考えないのだろうかと素朴に思う。たぶん、人のことを考える心の余裕はないのだから自殺するのだろう。飛び込まれた運転手は、平気でいられるはずが無い。運転手の心のケアはどうしているのだろう、そのことが実は心配だ。あるサイトで同じようなことを質問している人がいて、電車の運転手の知人を名乗る人が答えていたが、運転手は人を跳ね飛ばしたことについてそれほど心の傷を負うことはないそうである。どのようなことでそうなっているの正直理解できないが、本当にそうなら安心だ。毎週のように自殺者がでて、その都度、運転手が心の傷を負っていたら、JRがどれだけ運転手を養成しても足りなくなってしまうだろう。そんな話は聞かないから、淡々と運転を続けていらっしゃるに違いない。

とにかく、電車がしばらく動かないのだが、急いで帰る用事もないし、「待つ」ということも修行のひとつかと思い、本もゆっくり読めるからと思って、ちょうど駅に入ってきてドアが開いたままの車両に乗り込んだ。人はまばらで席はたくさんあいていたので、ゆったりと座った。飛び込み自殺で人がおそらく亡くなったというのに、その事故で止まっている電車にゆったり座って僕は神谷美恵子著「生きがいについて」を読んでいる。そのことに気がついて、どういうことだこれは、何かねじれているようなおかしなことになっているのではないか、そういう違和感を覚えた。生きがいを無くして自殺した人が作った時間で「生きがいについて」を読んで人の生きがいについて考えている自分は何者なのか。周りの人たちもあきらめて電車が動くのを待っているが、何を考えているのだろう。きっと、自分のことしか考えちゃいない。自分のこと、家族のこと、恋人のこと、明日の仕事のこと、来週の旅行のこと、今夜の晩御飯のこと、夜のテレビ番組のこと、なんだろう、つながっていない。
そうだ、彼と我とはつながっていないのだ、これほどまでに。それはどうしようもないことなのか。
当たり前ではないか。ずっと遠くの線路に飛び込んだ人と、「生きがいについて」を読む僕とは、どこでつながり得ようか、この現世において。

やはり、この先も事故がおきて電車が止まれば、またか、と思ってしまうのだろうな。
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寝返りのとき目が覚める

夜寝てから朝起きるまで、一度も目が覚めないことがない。
寝返りをうつとき、寝返りをうつ意識がある。だから目が覚めていると思う。
そのまま起きてしまうことはなく、すぐに眠りに戻るようだが、気になる。
一般には一晩で20から30回寝返りをうつそうなので、すべての寝返りで目が覚めているわけではなさそうだ。
だが、眠ったまま寝返りをしているかどうか、たとえしていたとしても自分は眠っているのでわからない。

さいきんTVで「まくら外来」の先生が枕の重要さについて解説していた。
寝返りが打ちやすい高さと硬さの枕をひとりひとりの体にあわせてオーダーメイドするのがよいのだそうだ。
簡易的にはタオルなどを重ねて調整することができるとか。体を横にしたときに、脊椎から頸椎が一直線になるような枕の高さがよいのだそうだ。そのような枕は仰向けに寝ても、寝返りを打つときにスムーズに体が回転しやすいという。

それで、今の枕にブランケットを折りたたんだものを敷いて高さを調節し、まさに上に書いたような寝返りを打ちやすいように調節してみた。ただ、ブランケットの重ね枚数の調整がうまくいっているのかどうか今一つわからず、結局、何回か寝返りを打っては一枚ふやしたり、またしばらくするともう一枚ふやしたり、別の日には1まいづつ減らしたりして、結局、寝返りを打つたびに、うまく寝返りを打てたかどうか意識して確認しているのだから、いったい何をしているのやら。

考えてみると、今に始まったことではなく、寝返りを打つ時はとにかく軽く目が覚めているという状況はずっと続いているようだ。だから、夜眠りについて、気がついたら朝という経験はほとんど記憶にない。そんな眠りが恋しい。
健全な眠りをしている人は、寝返りを打つときにも眠ったままですか?自分だけが目を覚ましているのでしょうか?

人の気配

1月24日日本経済新聞の朝刊に、人の気配は生体電位を感じるからであるというようなことが書いてあった。詳しくは、例えば、以下を参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20100124/p1
人や動物、植物、つまり生命体は生体電位を持っているとのこと。東大の滝口淳教授という先生がその計測をしている。人は歩くと大地と電荷のやりとりをして生体電位が変動するそうだ。
電磁気学の理論によれば、電位が変動すれば電磁波がでるはずじゃなかろうか。
電磁波の進行速度は光の速度である。
もし、人や動物がその電磁波を感受することができるなら、ほぼ瞬時のはずだ。したがって、人の気配、動物の気配は、音よりも早く感じられるはずである。もちろん、感受する生体中のセンサーが感じた信号を脳が理解するまでの神経細胞を伝達する電気信号は光より遅いから、本当に瞬時に感知することはむりだろうけれど。
先生によれば、他者の生体電位を感知する部位がひとにもあるらしい。体毛中の産毛のような細い毛の先や内耳だそうだ。敏感な人は、他者の気配を微小な電位の変化として感知できる、ということのよう。

はあ、そこまで来なすったか。
気配を感じるというのはひとの一種の超能力だと思っていた方が面白かったかもしれない。
もちろん、生体電位が100%その正体だと証明されたわけではないと思う。他の感じ方がないという証明は困難だろう。しかし、いままで謎だったものの一部が物理的な作用で説明できてしまうと、少々さみしくもあり、楽しくもある。

人の場合、心の動揺のような内的な変化は、血流などにも影響するから、生体電位も変動するのではなかろうか。
集団心理というやつも案外この生体電位の伝搬が原因のひとつということはなかろうか。
誰かが興奮すると、単にその様子を見聞きしたことだけでなく、生体電位変化も感知し無意識のうちに自分の生体電位を変化させ、血流などにも影響するということはないだろうか。勝手な推測だが、東大の先生の研究も心理、感情の変化と生体電位の変化や他者への影響についても進んでいくと面白いのだが。

生きがいについて

神谷美恵子著「生きがいについて」を読み始めた。相当古い本で、図書館で借りたのだがぼろぼろ。
ゆっくり読んでいるから、まだここにレビューを書けるまでになってないが、昔の人の論文というのは、しっかりしてると思う。構成だけでなく、語り口に信頼感が持てるというか、しっかりとした物言いというか、安心して読める。
その時の社会情勢や流行などに左右されない真実が追求されていて、全く古さを感じさせない。題材となっている患者さんやアンケートを受けた一般人は確かにその時代(昭和の半ばかそれより前)のものの考え方にある程度したがっているのだろうが、総体的には、今読んでもなんら違和感が無い。読み終えるまでゆっくり読むつもりだが、読むのが楽しい。

今日、昼にカミさんからメールが来た。彼女が東京方面に用事があって一泊するというので、昨日、会社の提携先のお得なホテルを予約してあげた。そういった事どもに対して、「ありがとう、いつも世話になってすみません」と言ってきたのだ。
そんな風に思ってくれなくても当然のことをしたまでだと返事しようと思ったところで、少し考えてみた。自分はなぜそうした事どもをやってあげたのか。ネットでいろいろ調べて申し込んで手続きして印刷して、なんてことをするのは好きなのだ。そういうごちゃごちゃしたことをするのは得意だし。そういうことをして彼女の役に立つのが嬉しいのだ。好きなことをして好きな相手のためになるのだからうれしい。これは、神谷氏の考える生きがいを感じるパターンのひとつにあてはまる。人に世話になるより、人の世話をする時の方がいきいきとして生きがいを感じるという、その小さな一例であることに気がついた。
彼女にしても家事を頑張っているのは、そういうことなのかもしれない。お互い様というバランスが大事なのだ。一人前の大人同士では、互いに得意なことを持っているはずだから、世話をしあえばよい。
しかし、相手が子供の場合には気をつけた方がよい。自分はできて子供にできないことはいくらでもある。自分の満足のためにすべてしてあげては、子供はできることもできないまま大人になってしまう。相手が子供の場合には、自分が得意でやりたいことであっても、我慢して子供にやらせることは必要なことで、そこには我慢が要る。我慢と思うようだと修行が足りない。大きな心で、子供を一人前にして神様にお返しするのが親の仕事と思いなして、いろいろと経験させ失敗させるのが肝要だ。
どこかで読んだようなことですみません。

ももひき?さるまた?男性用タイツ

もうすぐ47歳だからというわけではないが、年なのかなあ。
スーツのズボンの裏地が妙に肌に冷たく感じて心細い思いが募ってきたので、とうとう股引を買った。
股引なのか猿股なのか正式名称は知らないが商品名は男性用タイツ。
そんなことはどうでもよいが、とにかくあったかくて素晴らしい。
この年まで使わなかったことが悔やまれる。
ちょん。

グーグルマップのWebカメラで実家を見た

テレビのクイズ番組でこんなのがあった。

グーグルの地図に「Webカメラ」なるものによる道路からみた実写画像情報提供サービスがあるのだが、人や自動車のナンバーなどプライバシーに関係する情報はぼかしを入れている。
ぼかしを入れているものとしてもうひとつあるが、いったい何でしょう?
日本に特有のもの(ヒント)

という問題だ。僕は、洗濯物かなあと思ったが、正解は、表札。
グーグルジャパンによれば、日本の家屋は塀が比較的低いので庭の中や洗濯物が映ってしまうので、カメラの位置を低くして全部撮り直したいと言っていた。
今までの画像は、自動車の屋根の上に支柱を立ててそのうえに全方向カメラを載せて撮っていたということだが、支柱の高さを今後は低くするとのことだった。
へえー、こんな車が全国の主要道路をくまなく走って写真を撮っていたのか、と感心した。

そこで、我が家(マンション)も映っているのだろうかと思って見てみると、結構鮮明に映っていた。
それでは、実家の一軒家はどうかと思って見てみた。主要道から少し入った狭い道なのでどうかと思ったが、しっかり映っていた。実家は道路に面して門があって、車が出入りできるようになっているので、玄関や庭が丸見えの家だ。
だから、Webカメラの画像は拡大していくと、相当なところまで見えてしまう。庭木や鉢植えの種類までわかってしまいそうだ。ちょっと見えすぎじゃないか、それに、門についている表札はぼかしが入って無いみたい。
うーん、こりゃちょっとやりすぎちゃうか、と思えてきた。

こういうシステムというかサービスは特定に人には便利なのかもしれないが、とりたてて有名な観光地でもない、普通の居住域まで、どんな場所でも写真に撮って、いつでもどこでも見えるようにしてしまうことが本当に必要なのだろうか、と考えてしまう。機器やコンピュータの容量、インターネットの通信速度の目覚ましい発達によって、こんなことが可能になったのだろうが、可能になったからといって、わざわざ、このようなシステムを考え出す動機がわからない。いや、ネット関係の企業では、日夜、このような、誰も考えないようなことをあえて一所懸命考えて、一見不要なサービスを始めてしまうのだろう。そして、あるサービスが可能になると、そこでニーズを新たに思いつく人が五万といるのだろう。そうして、なんだかいろんなことがいろんな方向に展開していって、知らないところで知らないことが網の目のようにはびこり、気がつくと、知らない誰かにあることないこと調べられていたりするんじゃないか。

一方で、素晴らしきこの世界と思える事象や自然や思想や人々があり、一方でそうでない物事が蠢いている。
この世界、面白いと言えば面白い。余計なことは捨ておけ!
真善美に生きるのだ!

夢中になること

宮古島でセラピストしている人のページを覗いたら、ビーチコーミングという言葉に再会した。
ああ、ビーチコーミング、やったなあ。
沖縄本島や八重山の離島に何度も旅行して、ビーチコーミングやりました。
時の立つのを忘れて、貝殻やビーチグラスを拾いまくる。
ガラスの破片が何度も浜に打ち寄せられて角が丸くなり、表面もこすられてスリガラス状になったものがビーチグラス。白、茶、緑、たまに青や赤のビーチグラスがある。
とにかく、砂浜の端から端まで歩いては拾う。端まで行くと、Uターンしてまた探す。
何も妨げるものが無ければ、延々とやってるかもしれない。

同じように、潮干狩りも見事にはまる。家族で行っても、子供を連れて行っても、気がつくと一人で一所懸命貝を採ってる。夢中で採ってる。指の先が赤むけても採ってる。何でこんなに夢中になるのか、わからない。

沖縄でのビーチコーミングは、長袖長ズボンに帽子、首筋にタオルを巻いて完全防備でとりおこなう。
熱帯魚の見れるビーチでのシュノーケリングもやめられない止まらない。疲れて休みはするが、朝から夕方まで何度も海に入る。そうこうしていると、どのサンゴのあたりにどういう魚がいるか個体識別できるほどになる。

夢中になること。他にはペーパークラフト。これはそう長くは続かない。ビーチコーミングより集中力が必要だし、成果が見えるには時間がかかるので、ある程度醒めてやらないと最後まで続かない。できた暁には、これこれこんなに嬉しいに違いないと言い聞かせてモチベーションを上げ、だけど、毎週すこしずつやろうね、半年かけてもいいからと自分に言い聞かせてやる。何に集中するかというと、直線も曲線も延々とその線通りに鋏で切るのに集中力が要る。ちょっとでも線からはみ出したくない(内側切りすぎたり、外側に余分に残したりが1mmでも言語道断に嫌なわけ)。

しかし、これらの事どもを夢中にやってる間は、ほんとに他のことを忘れられる、と思うでしょ。
ところが集中しすぎると、やってることが無意識の動作になってしまい、なんだかんだといろんなことを考え出してしまう。これはいったい何の時間?

萩尾望都「思い出を切りぬくとき」

漫画家・萩尾望都さんが60歳にして初めてのエッセー集を出したというので読んだ。
20代のころに書いたものだそうで、その語り口には恋したくなるような品のよさと「世界」(萩尾さんの興味のある世界)へのひたむきさを感じた。
萩尾さんの作品の中では、「スター・レッド」「11人いる」「マージナル」「銀の三角」などのSFものが好きだが、これらとは趣の異なる、「イグアナの娘」「残酷な神が支配する」などの母娘、親子、少年、虐待などのテーマの諸作品群もあり、読んでいるとときどき耐えられなくなる。
萩尾さん自身、家庭での葛藤があったそうで、エッセーの中では、あとがきにだけほんの少し「両親との大けんか」と非常に控えめに書いているけれども、そんなもので、あれらの作品が書けようか。
しかし、家庭でどのようなことがあったにせよ、どのような心の痛手を受けたにせよ、漫画という世界、芸術(バレエなど)への興味に生きる道を見つけた萩尾さんの気持の飛びはね感がよく伝わるエッセーだった。

いのちは時間

昨日行ったヨガのレッスンで、ひとつ気付いたことがある。
 土曜日のレッスンはときどきしかいかないが(普段は日曜日を基本としているので)、土曜日の先生は、毎度、最初の立禅で、「額を緩めてー、こめかみを緩めてー、眼を緩めてー、口の中を緩めてー、・・・」と導入をしてくれる。このなかで、「すべてを手放してー、今の自分を受け入れてー・・」というフレーズがある。待てよ、今ってなんだ、すべてを手放すって・・・とちょっとだけ何かを思いめぐらした。それは、今から思い出してみると、こういうことではなかったかと思う。
 すべてを手放しなさいということは、最近気になっていることや悩みや仕事での問題や何かとにかく頭にひっかかっている有象無象のことを忘れてみましょうと促しているんだなあと思った。そうすると次には、仕事でいくつか気になってることがあって、それを思い出すはずなのだが、そうはならなかった。次の「今の自分を受け入れて、」というフレーズに素直に反応して「今の自分」を探ろうとしたせいだと思うが、仕事で気になっていることが思いだせないことに気がついた。思いだせないというか、思い出すのが億劫であり、思い出す作業が面倒な一仕事に思えたのだ。

 この感覚を少し覚えていて、ヨガが終わったあとの食事の時にカミさんと話していてふと思い出し、言葉を発しながら気がついた。今というのは、究極に考えれば時間の流れの無い瞬間であって、あるいは、非常に短いミリセカンド、ナノセカンド、ピコセカンド、フェムトセカンドの無限小の時間だとすると、そんな短時間だけを切り取ってみると、命も思考もありえない。生命活動は、福岡伸一先生の言葉でいうと動的平衡であり、動的平衡というからには時間変化を前提としている。いのちは、時間の流れの中に、ある。思考も同じで、必ず時間がかかるのだ。僕なんかは考えをまとめるのが遅いからとくに時間がかかるけれども、どんなに切れる人でも必ず時間がかかるはず。よって、今、という刹那だけに意識を集中すると、それができたらの話だが、絶えず過ぎ去る「今」だけを意識の速度で追い続けると、思考している暇が無くなるんじゃないか。

 「今の自分」を探ろうとして「仕事で気になっていること」を思い出せない状態になったことは、実は感違いで、たまたま、今からヨガを始めるという雰囲気の中で、額から始めてリラックスモードに入りつつある心身がただ平和ボケ的状態になっていたせいなのかもしれない。けれど、「今」を追い続けて、思考が離れた瞬間が本当にあったのかもしれない。

 思考もいのちも「時間」がなければ、無い。とは当たり前で、新発見でも何でもないことかもしれないが、自分には腑に落ちたのだ。で? と尋ねる自分がいる。 そうですねえ、時間の中で変化するのがいのちであり、時間によって思考が生じるとするならば、その時間の中での変化の仕方に目を向けて、変化のコントロールが大事ということになりましょうか。 まだよくわからないけれども、ここから考えていきたい。何かわかることがある気がする。

 この話には続きがある。ヨガの帰りに本屋に寄った。ふと日野原重明先生の「いま伝えたい大切なこと」という本に目がとまった。目次の1が「いのち」で、2が「時」だった。何かが光ったとでも言おうか。最近、本が増えて本棚が一杯になり、二度は読まないだろうと思われる本をブックオフに持っていった。これからは、よほど大事な本でないと買わないぞと誓ったばかりだったので、買おうかどうか迷ったが、買わずに去ることができなかった。
 まだほんの少ししか読んでないが、10歳くらいの子供たちに語った言葉として、次のように書いてある。
「いのちは目にはみえないが、君たちみんなが持っていて使えるものだ。そしてそれは、君だけが持っていて自分のためにフルに使っている時間だ。その時間をこれから先、どう使うかがすなわち、君の生き方だよ」
「いのちは君たちが自分らしく使える時間なんだよ」
「君たちが持っている『時間』が、君たちの『いのち』そのものなんだよ」
 ぼくがヨガの最中に考えた時間といのちの関係とは、本質的に異なるのかもしれないし、同じことになるのかもしれないけれども、臨床医である日野原先生の百年近い人生の深みから語られる言葉には真実があるに違いないと思うので、しっかり耳を傾けて、自分の糧にできればと思って、ゆっくり「時間」をかけて読むことにする。

氏神様お参りと川べりの散歩

地蔵川の翡翠
 

 氏神様まで30分ほどの距離だが夫婦で歩いて行った。境内の真中でたき火が始まっていて、神社の法被を着た町内会の人らが暖を取りながら輪になっていた。しめ飾りや古いお札をたき火で焚くのでうちのも持っていくと、法被の人からミカンを3個ずついただいた。
手と口を清めてから「今年は奮発」と冗談いって百円玉をお賽銭箱に投げ入れ、2礼2拍手1礼で娘の高校受験合格を祈念した。本人は塾での模擬試験で来れないため、合格祈願の祈祷まではお願いしなかったが、お札を買って、絵馬を掛けた。娘は地元の神社だと同級生がくるだろうから、絵馬に高校名や自分の名前を書いてほしくない云々と言っていたが、絵馬の書き方の例にちゃんと高校名、住所、氏名を書くように(あたりまえだけど)説明してあったので、ちゃんと書いた。
 さて、いざ、絵馬を掛ける場所にいくと、つい数分前まで掛けてあった古い絵馬が一切無くなっているのでびっくりして社務所の人に聴くと、ちょうど、古い絵馬を供養するために外したのだそうで、今年の一番乗りになるから縁起がいいよと言われた。だったら、と思って一番真中の最上段に掛けておいた。これで受験に失敗はないだろうという妙な安心感を持ったのはお目出度い親としかいいようがない。
あとで娘に絵馬に高校名と名前をちゃんと書いたことを正直に告げると、どうせ同級生のほとんどは知ってるからいいのだそうだ。ちょっと恥ずかしかっただけなんだろう。

 社からの帰り道に川辺を歩いて行った。先日、散歩して翡翠(カワセミ)を見つけた川だ。今日もあの子に会いたいと思って、カメラも準備して行ったところ、期待通り、いた。すぐ目の前のこちらの川岸の枯れ木の枝に青い背を向けて止まっているのを見つけた。心躍った。急いで静かにカメラを取り出し、め一杯のズームで撮った写真が冒頭の写真だ。しかも、さらに拡大してトリミングして載せてあるが、まあまあうまく撮れたと思う。こういう鳥を見るとき、心が躍る。自然にはこいつらのような芸術的な姿がどうして存在するのだろうといつも感動する。翡翠の姿は図鑑やネットの情報などで見て、もっときれいな写真で知っていて、きれいな鳥だと思っていても、どこか、絵画を見ているような、つまり、幻想のもののような感覚があったが、実物を眼の前で見ると、他のどんのきれいな他人の写真と違って、周りの風景とともに、そこに間違いない存在感を覚えるので不思議だ。芸術が生きて目の前に顕現しているという感覚。
 感動的な風景というのはたくさんあって、「満点の星空」「ヒマラヤの青くつきぬけた空」「沖縄の透明な海の中」とか。そういえば、昨日テレビで仕入れた情報で「天空の鏡(アンデスのウユニ塩原)」というのがある。これはまたすごい。アンデスの2つの山脈に挟まれた平らな高地にウユニ塩原という塩原がある。山脈に降る雨が流れる間に塩分が濃くなり、どこにも流れ出すことが無いため、そのまま平らな原に溜まり、かつ、乾燥地帯なので、水分が蒸発し、結果、実に四国の面積の半分くらいの塩原が誕生した。その平坦度は学者の計測によれば、高低差たったの50cmという。このだだっぴろい塩原に少し雨が降ると、一面、雨水の薄い皮が張ったようになる。風がなければ、見渡す限り超静かで平らな水面が現れる。これが鏡となって空を映すのだ。一度、映像を見てほしい。人が空の中に浮いているような錯覚に陥る。夜の星空でこうなったら想像を絶する体験ができるに違いない。
 どんどん脱線していくのでこの辺でやめる。
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