直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年03月の記事

花粉症が治ってきた??

もう25年も花粉症に苦しんできました。
でも、今年は非常に症状が軽いので少し驚いています。
もしかして、治ってきた?なんて思うのは甘いかな。
花粉の飛散量が少ないからなのでしょうか、2月終わりごろに病院で目薬と添鼻薬を処方してもらい、少し使いましたが、ここ2週間くらいほとんど使ってません。多少はくしゃみが出たり、目が痒かったりしますが、ほとんど気にならず、鼻はいつも通っています。もし、治ってきたのだとすると、次のどれかか、もしくは、その複合効果なのでしょう。

・週一回のヨガ(2年前から始めた。ようやく体質が改善したきた?)
・朝起きたら水かお湯をコップ一杯のむ(1年前から始めた。花粉症に効くという情報があったから)
・会社の昼ごはんで、ヘルシーメニューを食べる(1年前から心がけている。カロリー控えめで野菜が多い)
・歳をとって、免疫反応が衰えてきた(花粉アレルギーは免疫反応の異常と考えれば)
・クエン酸飲料を飲む(1年前から飲んだり飲まなかったりだが、クエン酸入り沖縄黒酢を飲んでいます)
・無添加せっけんシャンプーを使う(半年くらい前から)
・ごはんをよく噛んで食べる(気持に余裕があるときは、50回以上噛んで食べる)
・ハーブティーを飲む(ときどきです。)
・玄米食(平均して家での食事の半分は玄米)


ちなみに、昔、あるある大辞典という番組を見ていたころは、ヨーグルトを食べていました。今は食べていません。
納豆もよいらしいのですが、これは花粉症のためというより、習慣でずっと食べています。

10年くらい前から4年くらい前まで、耳鼻科で減感作療法を受けていました。杉花粉エキスを薄めて、腕の皮膚の下に注射してました。慣れて来ると、毎月1回のペースになります。注射したところは、赤く腫れます。面白いことに、注射したあとでなくても、急にその場所が腫れて来ることがあります。今でも時々あります。何か体調と関係があるように思うのですが、予測できません。しかし、体は昔花粉エキスを注射して腫れていたことを覚えているんですね。
このことは、今でも自分の体は杉花粉に反応することを示していると思うのですが、マスクしなくても今年はほとんど症状が出ないのが不思議です。

自分では気が付いていない何かの習慣の変化や食事の変化があるのかもしれません。自分の体なのに、自分ではコントロールできないし、それどころか、変化の理由もわかりません。意識というのは万能な感じがして、実は無能なのかな。「自然」として生きているこの「からだ」に乗っかってるだけの、時にはからだを痛めつけることしか考えない厄介な居候に過ぎないのかもね。
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常識を破ってきた人達の歴史

サイモン・シンの「ビックバン宇宙論」上を読み終えた。会社の先輩に薦められて読んでいる。
これから下巻を読むのだけれど、面白いので紹介したい。

古代の人々が考えていた太陽とこの大地との関係、惑星との関係、銀河系との関係、宇宙との関係が、その時その時の天文学者や物理学者の当時として最先端の精密な観測技術や理論によって、ひとつひとつ解き明かされていく歴史を、秀逸な冒険物語を読むような感覚で追っていける、そんな本である。
皆、学校時代に習ったことで、知ってるはずのことだけれども、改めて、それらを成し遂げた人々の考えや周囲の人々との軋轢、時代との戦い、教会との戦い、学会との戦いまで含めて知ることができて、単なる知識が物語として生き始める。

天動説から地動説への転換。天の川銀河の認識。星までの距離の測定の成功、星雲(銀河)までの距離の測定の成功、天の川銀河が唯一の銀河で無く、多くの銀河のうちのひとつであるという事実の証明、有名はハッブルの法則、アインシュタインの特殊相対性理論、一般相対性理論、宇宙定数の追加と最後には撤回した経緯。などなど。

これらの流れが非常にうまくまとめられている。偉大な業績を残した(データを得た)のに不幸にも若くして亡くなった人達のことも知ることができた。

上巻の終わりは、膨張宇宙を人々が認識したところまでである。この後読み進めるのがまたわくわくする。

では、下巻を読み終えたころにまた。

フィギュアスケート世界選手権

フィギュアスケート世界選手権が終わりました。男女シングルの結果はとてもうれしい結果です。
終わってみれば、ジュニアもシニアも男女とも日本の期待の星が皆優勝という快挙ではありませんか。
ジュニアのアベック優勝は前にも書きましたが、シニアも今週、高橋君と浅田さんがそれぞれ優勝しました。
今回の世界選手権はオリンピックが終わってから1カ月後ということで、多くの選手がモチベーションを高く維持することが難しかったと言われています。その中で、意地とこだわりを持った選手が表彰台に上れたのだと思います。
ほとんどの選手がオリンピックと同じ演技内容で来たのに対し、高橋君は4回転ジャンプの種類を変えてきたのがすごい。次を見据えている。長光コーチの考えたことだとしたら、オリンピックで切れそうだった靴ひもを本人に気付かれずに取り替えておいた一件とあわせ、コーチの鏡としかいいようがありません。
浅田選手は、とにかくこだわってこだわってやりぬいた。おそらくコーチにはもうほとんど頼らず、自分で考えて、自分でやりきったのでしょう。強いなあ、と思います。
これを書いている時点では女子フリーは、結果だけ報道されているので、演技は見ていませんが、浅田選手だけでなく、SPで少し失敗した安藤さんや鈴木さんもフリーではよく頑張ったそうなので、今夜のテレビ放送は安心してみることができます。楽しみです。SPで一位だったアメリカの長洲未来選手にも期待していました。昨年と比べるとすごく成長した。体の線も美しくなったし、動きも技もすばらしい。フリーは少し失敗したらしいけれど、まだ若いし、これからがとても楽しみです。

さて、来週4月3日には、名古屋フィギュアスケートフェスティバルが日本ガイシアリーナで行われ、日本のオリンピック出場選手やジュニアの二人も出場するということなので、ものすごく楽しみです。たぶん、次のジュニア男子のヒーローになるだろう4月から中学生になる宇野君も出てくれると思います。楽しみ。

娘が電話で予約トライ何度もしてくれて、何とか席が取れました。感謝感謝です。

グスタフ・マーラー

田代櫂氏の「グスタフ・マーラー」を読んでいる。マーラーに関する本は、若いころ、2,3冊買って読んだはずだが、改めて新刊のマーラー伝を読んでみることにした。とにかく出来事、事実の記載が事細かく詰め詰めに記載され、合間にときどきマーラーや関係者の手紙の引用が挿入され、激しい彼の生活の変転が淡々と進んでいく。最初読みにくいと思ったが、読み進んでいくと、そのテンポに慣れてきて、知りたいマーラーの感情部分、思想部分をより分けながら読めるようになってきた。もう半分頑張ろうというところである。

さて、マーラーとの出会いは大学時代である。京都で大学時代を過ごした私にとって、クラシック音楽は大きな心の癒しであった。クラシック音楽に目を(いや耳を)啓かれたのは、同級のT君の影響による。最初の何かの講義でたまたま隣に座ったT君が話しかけてきて、つかず離れずの付き合いが始まった。就職後、彼の結婚式に呼ばれた程度には友人であった。彼に誘われて園田高弘氏のピアノリサイタルを聞きに行った。後半はショパンだったのは覚えているが、演奏自体の記憶はほとんど無い。園田氏がどのようなピアニストかもしらず付いて行った。ただ、アンコールで聞いたドビュッシーの「沈める寺」の音色に聞き惚れた。強烈な印象のひとときだった。これ以降、私はクラシック音楽の世界にのめり込んでいく。(カミさんと見合いして「沈める寺」の話題で話ができたのは結婚を決めるひとつの決め手になったとも言える。)
下宿の四畳半にテレビはなく、常にラジカセで音楽を聞いた。クラシック音楽をFMで聞きながらカセットテープに録音し、繰り返し聞いた。4年間の学生生活で、カセットテープ100本程度のクラシック音楽を最低5回は通して聞いたと思う。その中にマーラーの交響曲や歌曲集のほとんどが含まれていたことは確かだ。しかし、最初の出会いははっきりしない。T君がハードロックとバッハとマーラーを大音響のステレオで聴くのが好きだったから、彼の影響だろう。そのために彼は1年目の下宿を追い出されたくらい、音楽を楽しんだ人だ。
たぶん、マーラーの交響曲第5番のアダージェットに心を奪われたのが始まりだろう。1時間を超える交響曲を飽きもせず聞き続けることに全く抵抗はなかった。何がよいのだろう。ブルックナーは飽きてしまうのの、マーラーは心が躍り、あるいは、揺さぶられ、あるいは、どこかへ連れて行かれる。
就職して寮に暮らし始め、当時、売り出されたばかりで10万円以上もするCDプレーヤーを買い、音楽の楽しみがグレードアップした。最初に買ったCDは、ジャン=ジャック・カントロフが演奏するバッハの無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ3枚組だった。これは実に透明なすばらしい録音で、CDだからという以上にすばらしい音だった。その後、少しずつ、CDを買い始めたが、マーラーはしばらく買わなかった。ある年、名古屋にシカゴ交響楽団が来て、サー・ゲオルグ・ショルティの指揮でマーラーの交響曲第5番を演奏した。最前列に近い席で(当時はそれでもA席だった。今はあまりにもS席が多すぎる。音響のよくない前の方の列はA席にすべきだといつも思う)、汗が飛んでくるくらいの距離で老ショルティの自信満々の演奏を聞いた。シカゴ交響楽団は完ぺきな演奏だった。
結局、その後、彼らのマーラー交響曲全集CDを買った。しばらくのちに、マーラーが得意な指揮者は他にもいることを知り、味わいのある他の演奏を聞く機会もあった。
いろんな演奏会を聞き、たぶん1番から9番までのすべてに加え、大地の歌と未完成の10番も聞いた。
好きなのは、5,6,9番であるが、やはり、演奏機会の多い5番は最も好きな方だ。2005年に大野和士指揮で5番を聞いたのが善かった。彼は現在、小沢征爾に匹敵する最高の国際的日本人指揮者として期待の大きい人だ。彼はアンコールでアダージェットを再演した。これには泣けた。
マーラーという映画もある。少しふざけたシーンもあるが、曲のオンパレードで嬉しい。6番の一部がアルマのテーマだというシーンがあるが、それがきっかけで6番を好きになった。

マーラーの交響曲は長いので、ゆっくり聞く時間を最近とれないのが悲しい。

高校入試

娘の高校入試第2段が終わりました。第1段は私立高校入試で2校受けたところはどちらも特進で合格しました。一方は手付金みたいなのを支払って万が一に備えてあります。第2段は公立高校A日程の入試。いつごろから始まったのかしりませんが、二日目にグループ面接があります。結構うまく対応できたらしいです。質問のひとつに「とびら」と聞いて何を思うか、というのがあったとのこと。
「と」と「び」と「ら」の字が思い浮かびました、と自分なら答えるとふざけてみたら、そんなんでは落とされると一蹴されました。それでは、と考えて、「目の前に3つの扉が並んでいるのが浮かびました。左から順番に1,2,3と番号がついています・・・」と答えてみましたが、心理テストを受けてるわけではあるまいし、こんな回答ではだめだそうです。どうも、その扉を人生のいろいろな節目の扉にみたてて話すとか、扉は開けるものであるし、閉めるものである、そして・・・ みたいな意味ありげな回答がよかろうとのことです。
そもそも、扉と聞くと、どうしても洋風の家の玄関の扉を思い浮かべます。自分が生まれ育った家は古い農家風の家で、基本的に扉は無く、引き戸の玄関、引き戸の勝手口という引き戸の家でした。なので、どうしても扉というのは、後から聞く舶来のものというイメージがあります。だから自分の人生の節目は、ゆっくりと引き戸を引いて覗きこむというのがしっくりきます。
こんなことを書いていて思いましたが、やはり、人は、言葉に対するイメージや意味を自分個人の仕方で持っているものであり、他人も同じ解釈をしていると推測するしかなく、詳しく聞いてはじめて、それが違うということを認識するものだということです。扉のイメージひとつとっても、自分のイメージの源泉を辿っていって初めて生家との対比を認識しました。

さて、明後日からB日程の試験が始まります。頑張れよ。

始まっている未来

宇沢弘文・内橋克人「始まってる未来」新しい経済学は可能か

本は好きだけれども、経済関係のものはあまり読まない。珍しくどこかの雑誌か新聞の書評を読んで興味を惹かれて図書館で借りて読んだ。著書らもあまり知らないので彼らが経済学の世界でどのような立ち位置にいるのか全く知らない。それで読んでみたわけだけれども、何とはなしにここ数年の日本の景気後退やそれに伴う様々な社会問題に「何がおかしい」のかわからないもやもやしたものを感じていたのが、何となく理解できた気がする。市場原理主義という、生きた人が生活するということを無視した経済理論を信奉する人達と(それは米国発)、それに追随(盲信?)した日本の経済学者や政治家や官僚や巨大企業経営者らによって進められた政策や経済活動によって今の状況が生まれたと理解した。宇沢氏は名前を挙げて、その先鋒を担いだ経済学者らを糾弾しているが、本当だとすると、彼らがどういう人であるかという認識が一気にできてしまうので恐ろしい。
著者らが長年憂慮していることのひとつに、農業政策の根本的誤りがある。これも本書を読むとなるほどと思わせる。根底に、生身の人間社会に対する愛と理解がある。経済学にそれが無ければ嘘だと思う。よって、細かいことはわからないが基本的に賛同する。
米国のオバマ大統領は、これまでの市場原理主義からの脱却を図ろうとしていると解説している。それが彼のいうChangeなのか、と今更ながら理解した。そして、日本も政権政党が変わったので、同じようにChangeできるいい機会ではないかと思うのだが、期待していいのだろうか。

浅学のためうまく書けないが、読んでみてよかったと思う本のひとつであった。

今日は結婚記念日。19年です。カミさんに感謝です。
ピンクの薔薇を中心にピンク系の花と麦3本を花店さんでアレンジしてもらった花束を贈りました。
ついでにお気に入りのケーキ屋さんのイチゴタルトを食べました。

そして明日は娘の高校入試第一弾。愛知県は2校受験できるのですが
明日の受験校は難関の第一志望なので気合いが入ります。
きっと受かる、と父は100%信じてます。
頑張れ。

自己意識にはたと気付く

橋元淳一郎「時空と生命」を読んだ。
本書の結論は著者によれば、

「私」の根源たる生命の主体的意思は、ミンコフスキー時空の中に時間の流れを創造し、それと同時に自らの宇宙を創造する

のだそうだ。
主体的意思は、バクテリアのような一見意識をもたないように見える生命にもそれは存在する。
生命はエントロピー増大という法則に真っ向から逆らって非平衡系における秩序を作りだしている。それが生命の主体的意思の根拠だと理解した。
ミンコフスキー時空とは、時間軸と空間軸とからなる空間で、物理的には、この空間において時間の非対称性は無い。つまり、時間が過去から未来に流れるという一方向の流れは無い。
主体的意思こそが時間の流れを生み出すという説である。

本書のポイントとなりそうなところを再度読みながら上のように書いてみたが、自分で理解できているわけではない。どうもそういうことらしいという程度だ。何となく面白く思われるのは、生命現象が確かにエントロピーを減少させるように動いているわけであり、そのような存在があるということが大変不思議といえば不思議である。なぜ、生命は物理の法則に逆らって存在するようになったのか、もしくは、そういうものを生命と呼ぶのかもしれない。このような不思議な存在だからこそ、細胞ひとつひとつにも、あるいは単細胞生物にも、主体的意思とでも呼ぶべきものがあるという著者の考えはわかる気がする。
次にそれがなぜミンコフスキー時空の中に時間の流れを創造するのかは今一つ理解できていない。
私は以前に、時間があるから生命があると当たり前のようなことに「気付いて」書いたことがある。しかし、どうも本書は生命の存在自体が時間をあらしめているといっているようなのだ。どちらが先なのか。

さて、本書には、哲学者や科学者のさまざまな説の引用が多い。とりわけ興味をひいたのは、ニコラス・ハンフリーの自己意識に関する説である。自己意識というものを霊長類が持つに至った経緯が説明される。本書での説明はだいたい以下のような内容だ。

単独で生きる生命個体には自己意識が無い。ただひとり食べるものを手に入れて食い、排泄し、寝るときは寝ての繰り返しであり、自分が存在しているという意識などなくともただ生きていくことができる。一方、集団生活をする動物は、集団で生活することにより外的から身を守り食べ物も得ることができるので、大事なのは他の個体とのコミュニケーションをうまくすることである。とすると、必要なのは他の個体がどう考えているかを察知する能力である。自分の目の前の自分とよく似た個体の心をすばやく読めれば優位に立てる。どうしたら相手の心が読めるか。これはなかなかできない。しかし、自分の心ならわかる可能性がある。自分のことはわかるだろう。すると、自分と似ている相手の心も似ているに違いない。というわけで始めて自己意識を持った個体は、自分の存在というものに「はたと」気付いたわけである。

他人とコミュニケーションをとらなければ生きていけない動物が、それを賢く行うために、自分というものに気付いたというわけだ。そして、相手も自分と似ているはずと直観した。
そういえば、人の赤ん坊も最初は自他の区別が無いということを聞いたことがある。我々も生まれた時は、自分の存在に気付いていなかった。きっとある瞬間、はたと自分に気付くのだろう。その時のことは覚えていないが、例えば、自分の手と母の手は違うということに気付き、自分の手に気付き、自分の意思で自分の手を動かすことができることに気付いた瞬間があったはずだ。娘が赤ん坊の時、仰向けになりながら、自分のグーに握った手をじっと長い間眺めていたことがある。その手をひねりながら「これはひねろうと思えばひねれるんだ」と気付いた瞬間だったのかもしれない(馬鹿想像)。

他人とのコミュニケーション。他人の考えを予想する。その手段として言葉、言語という便利なものがある。だが、いくら、言葉を厳密に定義しようとも、それを認識するのは「私」であり自己意識である。自己意識は他者意識とは別物である。自分の理解を他人も同じに理解している保障はなく、他人の理解の仕方は私の理解の仕方に近いものに違いないと想定しているだけである。普段意識していないがこの事実は重い。言葉を通じて同じ認識を共有していると信じてこの社会を生きているのだ。表面的なこと、普段の行動、仕事、おしゃべり、家庭生活、これらの営みの繰り返しの中で多くの場合は誤解らしい誤解もなく、だいたい困らずに生きているのが実情だ。何か困ったときに、まさに困るのだ。ややこしいことについては困るのだ。困ったときに一番忘れているのが、他者の考えはどこまでいっても自己の考えからの類推でしか理解できないという当たり前である。冷静にならなきゃ。この事実は他者の側にも当てはまるということも忘れてはならない。他者も私を理解する時は、その他者の理解の仕方から私の理解の仕方を類推しているのだから。

この本の本当に言いたいことは理解できなかったが、別の気付きがあってよかった。
引用の中に、先日読んで挫折したダニエル・デネット「心はどこにあるか」があったので、妙なつながりを覚えた。
同時に借りた鶴見俊輔「言い残しておくこと」には、さらに同時に借りた埴谷雄高「死霊」の読み方に関する一文が載っていて、これらの符合を面白く感じた。
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