直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年04月の記事

肩が軽い

今朝、肩が軽かった
腕を真上に上げてみるといつもより抵抗無くあがったので驚いた
そうカミさんに言うと、私も軽い!という
なんで?
昨日、潮干狩りでひたすら砂を掻いていたから?
それとも貝を食べて、その栄養素が関節や筋肉を柔らかくした?
よくはわからないが、たまたま感じただけじゃなく、夫婦ともにそうだったので意外に驚いた

もともと肩関節が固くて腕を真上に上げるのが得意ではない
肩が入るという表現を使うが、腕を上げた時に、関節が後ろに出ずに、ジョイント部分が中に食い込むような柔らかさを持っている人は、万歳したときに真横から見ると体側と腕が真直ぐに見える。
これが理想なわけで、倒立したり、バク転したりするのが非常に楽だ。
自分は高校時代に器械体操をやっていたが、肩の硬さがハンデだった。倒立しても肩が出てしまうから、余計な力が必要ですぐに疲れた。
今、ヨガをやっているが、ヨガのいろいろなポーズでも腕を上げる。
必ず力が入ってしまうのでよくない。
ダウンドック(下を向いた犬のポーズ)というのがあるが、これも肩関節が出るとつらい。
体側と腕が一直線になるのがいいのだが、どうしても肩がでてしまうので余計な力が必要だ。

でも、潮干狩りが何かのヒントになるのだろうか、貝がよいのか、いずれにしてもからだの変化に気がつくのは心が平静な証拠なんだろう。
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潮干狩り

潮干狩りに行った。南知多の矢梨という海岸。近くに魚太郎という観光魚市場みたいなグルメスポットがある。
矢梨の海岸は砂地ではなく岩場に泥といった感じで多種な生物がいて栄養豊富な海岸である。10年くらい前だろうか、知多にすむ会社の人から紹介されて行ってみたところ、信じられないくらい大きく味の濃いアサリが採れたので、それ以来、潮干狩りと言えば矢梨に行っている。ただ、年によっては不作の時もあった。
漁協で播いているはずだが、難を逃れて自然産卵して自然に育った奴もきっといるだろうし、今シーズンの始めごろに播かれた奴の中には採られずに栄養豊富な泥の中で育ったものもいるのではなかろうか。ときどき大きな奴がいるので、期待して沖のほうなどを掘ってみる。今日のアサリはまあまあだった。ときどき嬉しくなるほど大きなものが採れた。たっぷり2時間採り続けた。腰をかがめた姿勢を続けるのはつらいが、とにかく砂の中で指先で貝殻の丸っこい形を探り当てる快感に溺れて、ひたすらに採り続けた。こうしている間は本当に他のこと一切を忘れて無心になれる。これが潮干狩りの一番の楽しみである。この集中に魅せられて(何もなければ)毎年行ってしまう。
家族3人で網袋3袋満杯採ってきたが、たぶん食べきるのに3日はかかるだろう。
漁協で用意したきれいな海水をもらってきて、その海水で砂出しをさせているが、見ているだけで面白い。
水につけてしばらく置くと、べろんちょと水管がでてきて、ぴゅうぴゅうと水を吐くので新聞をかぶせてあるが、しばらくするとその新聞が水浸しになる。覗いてみると、本当に皆口をひらいて中身を出して水管を伸ばしている。その姿がとにかく嬉しいのだ。元気がいい。これだけ元気がよければきっと美味しいに違いない。
結局、食い気ではある。遠足は家に着くまでが遠足だぞ、という先生がいたが、潮干狩りは、夕食を食べるまでが潮干狩りなんですわ。

落とす人、拾う人

今日は東京へ日帰りの出張
新幹線の中で、通路を挟んだ隣の席にかなりご高齢の紳士が座っていた
あえて紳士と表現するのは、きちんとした背広にピカピカの革靴、そして、高級そうな生地の帽子といういでたちだったからである
しかし相当歩行や上体の動きに苦労されており、両手に杖を持っておられた
気がつくと、足元に落ちた新聞を懸命に拾おうとしている
2本の杖の先でなんとか挿んで持ち上げて、
とやっているのがあまりにもつらそうで
実は最初は何をしようとしているのかわからなかったので(杖の先で新聞の位置をかえて足をおこうとでもしているのか、向こうにのけようとしているのか)
しばらく様子を窺っていたが、どうしても手に取りたいのだと確信したので、席を立って新聞を取って差し上げた
こういう時、いつも自分は言葉がでない
「お取りしましょう」と言えばいいのに「取って・・・」と日本語にならない言葉を小さく発しながら取ってあげると、「どうもすみません」と苦笑いしながらお礼を言われた。
結局、氏は新聞を拾って読みたかったわけでなく、前の物入れにしまいたかっただけだった。
不自由な体で、たったそんなことだけれども懸命に「普通に」気になることをしておきたかっただけのようである。
しばらくして、二本の杖でゆっくり立ち上がり、すこーしずつ移動しながら通路の真中に立ち、走行中の新幹線の揺れにひとまず慣れるのを待つかのように間をおいて、ゆっくりとトイレに向かわれた。そんな光景を見ながら、年老いて本当にからだが動かなくなっても、今の10倍の時間をかけてでも自分のことは自分で処理するという気概を持って生きなきゃなあ、と思った。

ところで、ここ2カ月くらい、気になることがある
それは、よく人のものを拾うということだ。
なぜか人は私の目の前でものを落とす
ある時には、サラリーマン風の人が駅の下りのエスカレータに乗る直前に、皮の長財布を落とした。私は階段を上ってきたところで、前にいた婦人がまずそれを拾い、駅員に届けようかというそぶりだったので、(や、あの人だよ)と思って、「あの人!」と言って婦人から財布を受け取って、エスカレータを追いかけながら階段を下り、落とした本人に「これ、財布!」とまた日本語にならない言葉で呼びかけて渡した。
他にも、スカーフを落としたり、ハンカチを落としたり、なぜか私の目の前で落とすので、(そして、本人はそれを気がつかない)拾ってあげるのだ。
そんなに珍しいことではないのかもしれないが、気になるほど続くので、「俺は他人が落としていく何か大事なものを気がついてあげて拾って助けてあげるように生きなさい、と神様が言ってるのかなあ」と思ったりもする。
他人が何かを落とすのを待つのではなく、むしろ、落としてきた大事なものを回復させるか、今にも落としそうな状況を見つけてあげて予防保全するか、自分のこともままならないのに、何かそうした使命に気付けといわれてるような気がするのは思い上がりかもなあ。

姿勢と脳の活性化

昨夜のテレビ番組で、姿勢と脳の関係を解説していた。
猫背の姿勢で長時間仕事などしていると、首の後ろの血流が阻害され、脳に血液が行かなくなり、ぼおっとして考えることができなくなるのだそうだ。
それを思い出して、朝食をいただくときは背筋を伸ばして食べるように注意した。
自分はもともと猫背で、気をつけているがなかなか治らない。すぐに腰を丸めてしまい、したがって胸が狭くなり、首が前に出て来る。
今朝は通勤で歩く時にも注意した。真直ぐに胸を張って歩くようにした。
ヨガをやっているせいか、背筋を伸ばすということは、みぞおちに力を入れて骨盤を安定させることが不可欠だということを体で覚えていて、こうすると、自然と胸が開き、頭がストンと頸椎に乗っかる感じがする。
ウエスト周りが締まっていることに今更ながら気がついた。ヨガのおかげもあろうし、朝できるだけ30分歩くというのも効いているきがする。
体重が2年前までずっと66キロをキープしていたのが、今は63キロ台で落ち着いている。右半身の痛みと痺れがあって、上部頸椎カイロプラクティックの施術を受けて3日で完治して以来、からだの歪みが取れたみたいで、以後、ヨガのレッスンとあいまって、ベスト体重が3キロ減ったのだと思っている。

姿勢がよくて胸が開くと心も開く感じがする。反対に軽うつだった時期は、できるだけ潜りたくて背を丸めてかがんでいた。胸を開くことによって気分も変わる。人のこころは自分にとっての絶対の支配者ではない。こころを体で制御できる部分もある。体が覚えていることもある。気がつかないだけで、心の支配範囲はもしかしたら50%も無いのかもしれない。そう思って、ヨガなどやると長い時間の間にこころが遷移してくるのではなかろうか。

今日もヨガ

今日はヨガのレッスンに行った。
やさしいハタヨガ。
体の中心に呼吸の通り道をつくる
背骨に沿って太い土管のような道ができたらいい
お尻から吸い上げて頭頂から抜く
プラーナを感じる
(なんてことができたらいいのだが)

ちっともやさしくないが、頑張って自分の体の中に注意を向ける
いろんなところに注意を向ける
骨、筋肉と区別はつかないが、体の各部の「なか」を感じることは難しい

ヨガはポーズを決めたりダイエットのためのストレッチをしたり、
が目的ではない。いろんなことを同時に意識しなければならない。集中しながら意識を回すので、頭がこんがらがる。
いつか、これらを素早く制御できるようになるだろうか。

今日は、スタジオの一番の先生だったからなのか、ちょっと高度なレッスンだった。


レッスンが終わってカミさんとランチ
韓国料理やでビビンバ丼をいただいた
カミさんはサムゲタン
鳥のダシがよくでたスープを分けてもらったらものすごく美味しかった

そういえば、昨日の夜、コンサートのあとに娘と母と妹を連れて行ったイタリア料理やがよかったのを思い出した。
伏見の日土地ビル2階のピザバーみたいな感じのお店。
ピザやチーズ系の料理がおいしかった。チーズケーキも美味しかった。今まで食べたことがないような味で、びっくりした。

いろんな美味しいものを家族みんなでまた食べたいと思った
どうも今、そうした時間が一番じゃないかと思うのである
美味しいものを一緒に食べて「おいしいね」と語り合う

これから大事にしたいことである

スペイン狂詩曲

モーリス・ラヴェルのスペイン狂詩曲
オーケストラ版がおそらく有名だが、4手ピアノ版もある。
昨日、カミさんがピアノコンサートでそれを知り合いの方とデュオで弾いた。
ラヴェルは、代表作ボレロを聞いてもわかるように、多彩な楽器の音色の組み合わせを聴かせてくれる。
ピアノ版は、その幾種類もの楽器の音色をピアノ一台、4手で表現し分けなければ、どうしても見劣りならぬ聴き劣りしてしまう。難しい。必ずオーケストラと同じ表現をする必要はないが(4手版の方が先にできて、あとからオーケストレーションされたので)、聴く方はオケ版に慣れていると、どうしても音色の多彩な表現に期待してしまう。
さらに、スペイン狂詩曲は独特の舞曲風のリズムがあって、聴く者を調子よく小気味よく乗せてほしい。
そんな曲にチャレンジして、身びいきかもしれないが、いい仕上がりだったと思う。
なによりも楽しそうだった。

コンサートは、聴きに行くものであると同時に見に行くものである。
演奏者の中には、曲の価値と自分の解釈とを押し付けて来る人がいる。しかし、聴く人は様々である。コンサートに足を運ぶそれぞれの人の期待は千差万別で、そのすべてに応えるべきだとは言わない。しかし、楽しみたいという点では大方共通しているだろう。だから、見た目にも心地よいものを望むし、演奏者の意図や気持ちを共有できたら素晴らしいはずだ。
なので、演奏者は綺麗な衣装を纏い、美しくメイクし、髪を整え飾り付け、曲の雰囲気に合わせて演出をし、そして、何よりも、愛するその曲を楽しく弾き切ってほしいわけだ。
そういう聴衆の期待にたぶんうまく応えられたんではないかと思い、ご苦労さんといいたい。

さて、今年はショパンイヤーである。冬に英雄ポロネーズをコンサートで弾くというので、楽しみだ。
素人なりに、カミさんにお願いしたのは、「気品ある演奏をしてくれ」ということ。
英雄ポロネーズを最近聴いたのは、中国人ピアニストのランランの演奏だ。北京オリンピックの開会式に出演したので知っている人もいるとは思うが、超元気な迫力のある弾き手だ。彼の英雄ポロネーズは、超絶技巧を楽に駆使しながら、音を足して自由奔放に「これでもか、どうだ」というように聴かせてくれた。それはそれでイベント的には面白かった。でも、なんだか、ショパンの繊細な人となりとは別世界の音楽だった。僕は、ポロネーズというのがポーランド人にしかわからない何かポーランド人の誇りを表現している箇所かもしくはフレーズかもしくはリズムがあるのではないかと思う。そうでなければポロネーズではない。国民の誇りには気品がなくてはならない。だから、カミさんには、気品のある英雄ポロネーズをお願いした。彼女も同意だ。まさに、そこが肝心であり難しさだということをわかっている。
さて、人に課題を与えておいて自分は何かしないのか?
とりあえず、仕事を一所懸命やりますよ。はい。

毎日1分でノッチになる?

本屋でこんなタイトルの本を見かけた。「毎日1分でノッチになる」?
最近、視線がゆらいでいるといろんな文字が間違って見えてしまう。
いやあ、毎日ノッチになったら、面白いかな。
(ノッチはオバマ大統領に似てることでブレイク?した芸人である)
案外いいかもしれない。
オバマの真似をして人を笑わすノッチのように生きてもいいかもしれない。
その気になってその素振りをするうちに、本気になることだってある。
もしかしたらノッチも将来国会議員に立候補するかも。

で、実際には見間違いで、正しくは、リッチになる、だ。

アマゾンで要約を見ると、次のように書いてあった。要は、お金持ちになりたければ、お金持ちがやっていることをよく見て同じ行動をとることだ、ということらしい。そして、【リアル・リッチの「種まき」習慣の例】が載っていたので転載する。
ぞれぞれに僕の感想をつけよう。

●朝一番に、その日1日の感謝を「先取り」する
→確かに、これはいいことかもしれない。人生何事も感謝が大事だ。自分が生きていることそのものに感謝することから始めれば、何事にも謙虚にふるまうことができるし、他人に優しくできるはずだ。それは、いつか自分への褒美として帰ってくることもある。
●毎朝、鏡を磨いて笑顔をつくる
→面白くなくても、あえて笑顔を作ると、本当に気分が明るくなると聞いたことがある。顔の筋肉は、気分で動くだけでなく、筋肉が動くと気分に反映される。人の心はそれほど確固としたものではない。体と心は双方向なのである。
●1万円札を財布の手前に入れる
→自分はいつも手前から小額紙幣を入れていて逆だ。なるほど、みみっちいな。大事なものを後に取っておいて、いつも細かいことに拘る志向が表れている気がする。生活全般にみみっちさがあふれていたら気分も小さくなろう。
●靴下はブランドショップで買う
→靴下は消耗品だからと、4足1000円に手を出してしまう。しかし、穴が開くのが早い気がする。ゴムも緩むし、結局足元から気分が上がってこない。足元に晴れ着を着ているような感覚でいると、すっと背筋が伸びるのではなかろうか。背筋が伸びると胸が開き、呼吸が大きくなり、心が開く。ヨガの基本だ。うん、足元は大切だ。裸足が一番いいとも言えるが、時と場合による。
●よく使う時計は4分進めておく
→家の時計は3分進めている。目覚まし時計も。しかし、腕時計と携帯電話は、時報通りでないと気が済まない。むしろ、それで正しい時刻だといつも信じているので、仕事で時間を気にする際には、狂っていないことを前提に早めの行動を心がけている。時計を進めようが進めまいが、時間意識のことを言っているに違いない。
これはしかし、仕事だけのこと。それ以外の自由時間は時を忘れるのが最高のぜいたくであることも知っていなければならない。
●エスカレーターでは立ち止まらない
→危険だ。よゆうを持って行動し、階段を歩くべし。
●落ち込んだときには「これでいいのだ!」と声に出してみる
→バカボンのパパみたいだで、それもよいが、「ダメだこりゃ、次行ってみよう」のいかりや長介のほうがいいんじゃないかな。変に、これでいいのだとなんでもかんでも無理に納得して自分をごまかすよりも、さっさとあきらめて次に行ったほうがより健康的ではあるまいか。
●よく行くお店の店員さんの名前を覚える
→できたらいいな。
●水を使うたびに感謝する
→生きていることへの感謝に通じるが、水だけに感謝するのでなく、食べ物にも、人の言葉にも、すべて感謝じゃなかろうか。

結局、お金持ちになるための種まきというよりも、善き人となるための習慣作りそのものではないか。
変な金儲けのノウハウ本じゃないので読んでみても損は無いだろうが、リッチという言葉にはいささか抵抗を感じる。

ショパン生誕200年だけじゃない

今年はショパン生誕200年というので、ピアノリサイタルの演目はショパンが多い。
たまたまプレイガイドのガラスケースを見てみたら、シプリアン・カツァリス リサイタル(10月)のチケットが出ていたので嬉しくなった。さらにその横に、ラファウ・ブレハッチのリサイタルのチケットもある。同じく10月だ。ブレハッチはショパンコンクールで優勝しているので、あえて今年ショパン以外を演奏することはないだろう。
カツァリスもショパンを弾くのだろうか。調べてみると、やはりオールショパンだ。ピアノ協奏曲2番のショパン自身によるピアノ独奏版ほかである。やはり、ひとひねりしてくる。カツァリスはもしかしたら超有名なピアニストではないかもしれない。しかし、有名なコンクールで優勝とかはないようだが、彼の良さはまあ聴いてみるしかあるまい。超絶技巧の持ち主であり、かつ、詩人である。彼のショパンの雨だれを聞いたとき、ホール内の空気が湿っぽくなったように感じて、いまだにその時の音色、空気感を忘れられない。それに彼のリサイタルはS席でも5,000円程度なので、「お得」と言っては失礼だが、やはりお得としか言いようが無い。

今、うちのピアノ防音室から、ショパンの練習曲「革命」が繰り返し繰り返し漏れ聞こえてくる。妻が練習している。
昨日はノクターンの遺作が流れていたが、高校1年になる娘が夏の発表会に向けて練習しだした。僕は数ヶ月前に、辻井伸行君のCDとDVDを買って、何度か彼のベートーヴェンやショパンを聞いている。

このブログの最初のころの記事にも書いたが、ショパン没後100年の年に出版されたフランツ・リスト著「ショパン その生涯と芸術」の翻訳本をタイプしている。古本を探してようやく手に入れた貴重な本で、かなり色あせている。ぼろぼろになる前に、すべてWORDに打ち込んでおこうという、あまり効率の良くない、何のためか自分でもわからない衝動によって少しずつタイプを続けている。一言一句間違えないよう。あとがきまでいれて224ページのうち、150ページまで進んだ。あと半年くらいかかるだろうか。本書の特徴は、とにかく、リストのええかっこしい知識の羅列と言葉の装飾とショパン礼賛の連続である。が、同時代を生きた人のポーランド、フランスの社会の人々の通念やらショパンの性格などについての証言とみれば、全く貴重な資料である。本書をその大げさな表現が鼻につくのを耐えて読み尽くせば、ショパンの見方も変わるかもしれない。実は、タイプしていると、意味を理解するというより、タイピングゲームを楽しんでいるようで、ほとんど内容を覚えていない。だから、タイプし終わったら、最初からちゃんと読まなければならない。気の長い話だ、我ながら。

さて、本題だが、今年はロベルト・シューマンの生誕200周年でもある。だが、シューマンのプログラムでリサイタルをする人の話はあまり知らない。シューマンだって、いい曲があるじゃないか。交響曲や管弦楽曲もあるのだから、名フィルも都市シリーズとかで今年を終わらせないで、ショパンのピアノ協奏曲とシューマンの交響曲とでプログラムを組んではいかがか、と思ったりする。

そして、実は、グスタフ・マーラーの生誕150周年でもある。こちらは少しは話があるようで、オケのプログラムでマーラーの交響曲を少し例年より多くやるようだ。せっかくだから、記念に第8番の千人の交響曲をやったらどうか。名古屋なら芸術劇場大ホールでやればいい。

勝手なことを考えてはいるが、何よりも生演奏を聞きに行かなくては話にならない。音楽の演奏会は一期一会だ。あたりはずれもあり、その日の体調、気分でも感じ方は変わる。だから面白く、緊張するのだ。

さあ、演奏会に行こう!

考えている場所を認識できる理由は

最近不思議に思うことのひとつ

考えるということのその場所はどこか
ちょっとよく考えてみよう
いや探ってみよう
どうも首から上であるのは間違いない
目のあたりか、目の奥か
うーん、右耳と左耳の間のあたり?

なんかその辺っぽい

はっきり特定はできないが
なんかその辺っぽいことはわかる

なんでわかるのか
考える、ということがわかるのは
五感のどれか
視覚じゃないよね
嗅覚じゃないよね
触角じゃないよね
味覚じゃないよね
聴覚?
聴覚か

聴覚は確かに耳から音が入ってきて
耳の奥というか頭の中で聴いている感じがする
聴覚は耳じゃなくて頭の中にあることに
あらためて気がつく

考えるとは、聴覚か
正確には、考えるとは言語を使う
言語を使わない「考える」は無い?
無いよな
考える は 頭の中で喋ることだな
喋るので音声みたいなもんだ
だから聴くことになる
考えるってことは
自分が頭の中で喋る言葉を聞くってことだ
考えるのはどこだということを探っていくと
右耳と左耳の中間のあたり、つまり頭の中のあたり
と思われるのは
自分が頭の中で喋る言葉を聞いているからだ

これは本当だろうか

では聴覚障害の人は考えることが無いことになってしまう
言葉を音声でとらえる以外の方法があれば、考えることは可能だ

今、自分が考えることは自分が頭の中で喋る言葉をきくことだと
気がついたのは、たまたま、自分が考えるときには音声認識を
主体に考えているからだ

そうでない人もいるのではないだろうか

視覚で考えている人はいないだろうか
いるのではないか

もしかすると
この文をパソコンに打ち込んでいるこの指が
考えているかもしれない
正確には、聴覚と指とで考えている
というのが正しいかも

ある瞬間には視覚で考えているかもしれない
それを今後見つけてやろう

暗黒物質

ところで、伊勢白山道のブログにもハッブル宇宙望遠鏡の撮影画像をネタにリーマンさん世界を論じていた。
同じものを見ても考えることは人それぞれ。それは当たり前のことだけれども、何を気にするかという点で同類の人を見つけるのは嬉しい。

さて、暗黒物質=ダークマターというものが宇宙には満ちているそうだ。
宇宙の物質はほとんどが水素で10%がヘリウムで・・・と前に書いた。
ところが、現在、宇宙には、暗黒エネルギーが73%、暗黒物質が23%、残り4%が水素などの物質なんですと。
暗黒エネルギーとはなんぞや。最先端の物理の学者達のつける名前はいつもユニークだと思う。俗っぽさはあるが、はっきりしている。そういえば、ビッグバンという言葉も、その仮説が出された当時、その仮説を批判した学者が批判文の中で使った言葉だそうだ。コケにしたくて使った言葉が世界中の人に認知されて用語として定着してしまったという。ひも理論なんてのも聞いたことがある。物理学の人達は、非常に頭がクリアなんでしょう。言葉の選び方が真直ぐだ。
暗黒物質とは何か。その言葉を聞いた刹那には、ひょっとして霊の世界の物質、意識をつかさどる物質なのでは?と思った。だったら面白いと思った。人の体を分解し、分析していくことによってわかるのは、脳の働き、脳細胞の機能であって、ある程度、意識というもの、記憶というものを説明できているみたいだが、それでも「考える」という不思議を物質の電気化学反応からだけで説明しきれるのか、と疑問を持つ。そこに暗黒物質やら暗黒エネルギーである。
名前が善くないが、通常の方法では観測できない何か、というだけでぞくぞくする。
しかし、ちょっと検索して調べてみると、東大の先生なんかが、実にクールに解説してくださる。なんらかの粒子を考えている。ニュートラリーノとかいうわずかなとてもわずかな質量の粒子を仮定している。それを何とか検出しようと大規模な、しかし、とてもまったりとした実験装置を設置して、待っている。
うらやましいとは思わないが、そういう人達のいることが人類の幸せそのものだと思う。
暗黒物質は、今この目の前を横切って飛んでいるのかもしれない。素粒子らしいから、暗黒物質からなる原子核や分子や物質があると考えることは無理があろう。あったとしたら、暗黒人間も存在してもよかろうが、それこそSFの世界である。
しかし、銀河の回転速度を物理法則から説明するために、暗黒物質の仮定が必要だったとのこと。こういう時、とにかく、説明できないで困り果てるだけの人なら何も生まれないが、そこで「何だかわからないけど」暗黒物質とでも呼ぶべきものを仮定せざるを得ないと、始めて大真面目に学会で提案した人の、その真直ぐな心に敬服したい。
しかしまあ、こういうことを四六時中考えて人は、毎日が楽しいだろうなあ。
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