直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年05月の記事

ブルーマンデー

ブルーマンデーという言葉があった気がする
月曜日
会社生活の一週間が始まる
その憂鬱
学校生活かもしれない
その月曜日の朝の憂鬱

ここ数週間 これってブルーマンデーか?
と思うことがある
今日も朝なんとなしに感じた

会社について仕事を始めると忘れる
仕事で時間を埋め始めると
あっという間にお昼の時間
あれもこれもやんなきゃ
今週はあれとこれをするので今日のところはここまでやって
明日はそこまでやってと
何度も確認しながら今の仕事を進める
しばらく席をはずして戻ってみると
新着メールがいくつかきている
午前中に送ったメールの社外からの返信があったりすると
ドキドキする
何か失礼な物言いはしてなかったかと
思いもよらぬ相談メールが大学の先生から来た
顔を思い浮かべながらどんな返事を書こうか考える
仕事、仕事、ドライに流そう
でも先生には誠意を尽くそう
ちょうどいいから明日の朝の打ち合わせ相手に相談しよう
そうしよう
メールをプリントして用意しておこう
やっぱり相談ごとはメール転送じゃなくて
直接頼まなきゃね

そうして一日が暮れる
早や夜の8時をまわる
忙しい会社なら、忙しい部署なら、
これからがかきいれどきってな感じで夜中まで蒼い顔して仕事してる人は
全国に大勢いるだろうけど
僕は夜の8時でも遅いと思って早々に帰り支度する人間だ
いや、8時なんて遅いという人もいるだろう
6時には帰らなきゃ
時間はいくらあってもたりないと昨日かみさんと話したばかり
読みたい本がいくらあっても読み切れない

帰りに電車にのればすぐに本を開く
続き、続き
読む、読む

ところで、本を読みながら他所事を考えると、知らぬ間に4,5行読み進んでしまうが
気がつくと何も頭に入っていなくてもう一度戻って読み返すことがよくある
これの回数の多さがその時の心の余裕のバロメータになることにいつか気が付いていた
今日はまだましな方
そして続き、読む、読む
ああ もう着いた
降りなきゃ
鞄に本をしまって電車を降りて階段をおりて
パンやを覗く
新作パンがあったら買おうかな


おやおやブルーマンデーはどこ行った?
ありゃ、気のせいか、夢か幻か

結局、人と交わってなきゃ生きていけない人間が、月曜日に一週間つきあう仕事の人と交わる最初の瞬間に少し気後れしてるだけのこと

そんなことがこれを書いていて判った気がする
やはり喋るか書くか、何か具体的に表現することで初めて自分の考えがわかり、気がつき、発想が生まれる
そういうことの繰り返しだから、誰が読んでくれなくても、ここに書くことにしたのだ
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腹筋と背筋

週一回のヨガに今日も行った。
今日は声に不思議な力がありそうに感じるL先生。
オームで始まるその歌?マントラ?のバイブレーションに身体の力が抜ける感じがする。
約一時間半のレッスンの最後の方で、シャバーアーサナ(死者のポーズ)を行う。
要するに、大の字に寝転んで、すべての力を抜くというポーズだ。
簡単そうで簡単でない。
身体中の力を抜くなんてそう簡単にはできない。
死者は力が抜けているのは当たり前だが、それと同じ状態にできるのだろうか。
究極的にはできないと思う。きたない話だが、肛門筋も緩んでウ○チがでてしまう。
そこまでは極端としても、首筋、顔、額、肩、腕、手首、・・・からだのあらゆる箇所に意識を向けて、力が抜けているかどうか入念にチェックを入れていく。意識を向けると力が入ってしまうような気がしてうまくいかない。
力が抜けていれば背中全体がマットにつくはずだが、どうしても腰の上のあたりが反ってしまってマットにつかない。
そのあたりの背筋が収縮しているようだ。意識しているわけではないのに緊張している。おそらく、その前のポーズで何らかの背筋の緊張状態があって、それが弛んでないのだと思う。
かように力を抜くということは容易ではない。
少し心地悪かったので、膝を立ててみた。先生が「腰がいたいのではないか」と心配して、膝の下にブロックをあてがってくれた。レッスンが終わってから、あらためて腰の痛みがないか心配してくれた。痛いというよりは、どうしても反ってしまって、反ったままの姿勢が楽じゃないのでひざを曲げてみたというと、いろいろと考えてくれた。結局、腹筋が弱いのではないかということになり、寝転んで腹筋を鍛える方法を教えてくれた。寝転んで片膝を曲げて両手で抱え、息を吐きながら上体を起こしていく。この時腹筋を使う。両腕は伸ばし、足を遠くへ延ばそうとする。腹筋が強ければ、足に引っ張られかつ腹筋によって上体を起こすことができるという。やってみると、上体は起き上がらなかった。やっぱり腹筋が弱いのか。ほとんど運動らしい運動をせず、普段から猫背で腹が緩みっぱなしの生活をしていれば弱くなっても仕方が無い。中学時代はバスケットボール、高校時代は機械体操を部活でやってたので、筋肉隆々だったのだが、今や面影もない。腹筋は力を入れると仮面ライダーのように筋が入って割れていたのだが・・・
理由はわからないが、どうも背筋は強い気がする。腹筋も背筋もどちらも弱ければ日常生活にも支障があるに違いない。整体師に背筋がこわばっていると言われたことがある。つまり、普段から背中に力が入っているということだろう。姿勢が悪いときっとそうせざるを得なくて背筋だけはフル回転に違いない。
腹筋も背筋と同じようにバランス良く使い、バランス良い強さであるのが良いのだろう。
高校時代の身体が如何に軽く自在だったことか、その感覚だけは覚えている。今更ながら羨ましい。他人を羨むのとは違い、かつての自分の感覚をもう一度取り戻せたら、というほのかな希望である。
器械体操をやって自分でもほれぼれする身体になって鏡を見ていたのを思い出す。自分はたぶんナルシストである。
気の弱い、人の目を人一倍気にするナルシストが満足できる人生というのは、いったいどのような人生であろうか。

細かなでこぼこ時間

今日は午後からひとりで出かけた。
大きな書店で気になる本を探してみたいと思って名古屋駅の高島屋の中の書店を目指した。
名古屋駅につくと、ふと思い立って、港に近いところに新しくできたブックオフの大型店舗に行くことにした。
大型店なので欲しい古書もあるに違いないと考えた。名古屋駅からあおなみ線で往復520円かかる。電車に乗ってからふと考えた。目指す本は、どう見積もっても定価の半額で買っても500円くらいしか得にならない。わざわざ520円の交通費をかけていく意味はない。馬鹿じゃなかろうかとも思ったが、こういう時間を過ごすのも何らかの意味があろうし、思いもかけぬ発見もあるだろうから、まあ良いか、と思い直した。
結局欲しい本は無く、何も買わずに名古屋駅に戻った。この時さらに気持ちを萎えさせることが・・・。あおなみ線に乗るときに往復切符を買って乗ったのだが、復路の切符をどうも落としてしまったらしく、結局、余計なお金をつかうことになった。ホントにへこむ。他人が落し物をする場面によく遭遇し自分が拾うことが最近多く、妙に気になっていたのだが、それは、ほかならぬ自分自身がものを落とすことへの警告だったのかもしれない。260円の帰りの切符だけで済んだのならよかったと思わねばならぬ。これからもっと大事なものを落とすことが無いとも限らない。気をつけよう。

気を取り直して高島屋の本屋に行った。が、一番確認したかった本を検索システムで探すと、品切れだった。今日はついてない。次に目指す本はたくさん並んでいたが、期待したものとは違う感じがした。自分の感覚が鈍感なのかもしれないとおもいつつもとりあえずぱらぱらとめくって眺めては見た。何か特別な感覚を得たら買おうかとも思って来たのだが、買わないことにした。

せっかくきたのだから、と携帯電話のメモに記録してある気になる本のリストを見直してみて、さらに2冊ほどチェックしてみることにした。ひとつは買うほどではないなと思った。「エネルギー問題」という本で、内容には興味あるものの、図書館にあれば借りて読めばよいと思わせる内容であった。数年前に仕事で一年間エネルギー分野の新商品ねたを調査する仕事をして「国家エネルギー戦略」だの、「再生可能エネルギー」だのの勉強をしたので、最新の世界のエネルギー事情と将来予測はどうなのだろうかと興味はある。
次に、ダニエル・デネットの「スウィート・ドリームス」。哲学者のデネットが一応素人向け?に書いた本らしいが、面白そうなので買うことにした。デネットの本は前に1冊読んだが難しかった。この本の方が少しはわかりやすいかも、と思った。最近少し流行りの「クオリア」に対する科学的批判が書かれている。実は自分も「クオリア」なるものに何んとなく脳科学者が議論するに相応しくない何か大事な証明をオミットしているような感じをもっていたので、クオリア批判の部分はしっかり解読してみたい。平野さんの「葬送」を読み終えたら、これにトライすることにしよう。

落ち込むこともあれば、ちょっと嬉しいこともあった(ちょっと冴えていたとでも言おうか。でも書かないでおく)。それで、タイトルにでこぼこ、と書いた。
人間、動けば、良いこともあるし悪いこともある。気分次第ということもあろうが、他愛のないことに心を砕きながら生きていることをよく実感できた今日半日であった。帰ってカミさんから勧められて食べた和菓子が何とも美味しかったこと。
ごちそうさまでした。感謝。

テルマエ・ロマエ

聖☆おにいさん 5巻が出ていたので買った。
ブッダとイエスが立川のアパートで暮らす物語で、ギャグ漫画ではあるけれども、釈迦とキリストの生涯や弟子達、教義のことを知っていないと笑えないので、多少の教養は必要だ。
聖は(せいんと)と読む。せいんとおにいさん。
他に面白そうな漫画はないかと物色していたら、意味不明だが何となく気を引くタイトルの漫画が目に入った。
テルマエ・ロマエ 第1巻
表紙の絵は、ダビデ像が風呂桶を右手に、赤いタオルを左手に持った姿で、よく見るとなんだか可笑しい。
大笑いする面白さではないが、たいしたことではない(ように現代の我々には思える)ことに大真面目に悩む主人公の姿が面白い。古代ローマの風呂の設計技師が、斬新な風呂を設計して評判になる話だが、そのアイデアは彼が現代の日本の風呂に一時的にタイムトリップして、そこで見て体験したことがネタになっているというわけ。
風呂の形態だけでなく、ガラスやプラスチックやシャワーやいろいろなものが古代ローマ人から見れば驚異の文明水準に映り、そのことに驚愕し真面目に国家の危機を心配する表情が面白い。
たまにはナンセンスな可笑しさに触れて頭を休めても叱られはしないよね。

なぜ・・・してはいけないのか?

なぜ人を殺してはいけないのか?

先日、裁判員裁判で殺人犯の審理が行われ、死刑でなく無期懲役の判決が出された事例を挙げ、実際に裁判員を務めた人の意見を聴くニュース特集を見た。一般人が死刑か無期懲役かを判断するというのはいかがなものか。
裁判員の女性は、公判で犯人が涙を流して反省している姿を見て、更生する可能性がある人を自分の判断で死刑にしてしまってよいものか、と疑問を生じたという。短絡的な批判をしてみるならば、そこまで人間味を持ち心を持つ人こそ、自分の欲望のために他人を殺してしまった罪はなお大きいと言えないだろうか?ということができそうだ。おそらくもっといろいろな意見、見解はあろう。百人百様であり、誰かが意見を言えば、必ず反対意見、修正意見、発展的意見、補足意見等々収拾つかなくなり、結論などでないだろう。

それもこれも皆頭で考えているからだ。死刑とか無期懲役とかは、人間が頭で考えだした決めごとであるし、法律に基づくものである。どのような行動をそのルール(法律)にどのくらい当てはめて考えるのが妥当かということを決めるわけだから、一律に決まりようが無い。人はそれぞれ別の頭を持っていて、決して全く同じ判断、理路回路を持ってはいないからだ。素人に判断させる意味がどこにあるのか?冷静に判断しろと言ったって無理だ。ならば、心で判断すればよいか?本来はそうあるべきかもしれない。人間の善の精神に基づいて心の感ずるままに意見を述べてみればよい。

そこで、そもそも、人を殺すことは善いことなのか、悪いことなのか。悪いに決まっている。
なぜ? なぜ人を殺してはいけないのか?
私もいろいろ哲学書もどきの本を読んだり、スピリチュアル世界の本を読んだり、人生論を読んだりしていて、この問いに答えを述べていた書物に最低二つは出会った記憶があるが、その答えそのものを覚えていない。あほか。何をやってる。ひとつは養老先生だったと思う。そして、もうひとつは池田晶子さんだ。
どうしても、再び紐解いてみたくなり探した。「14歳からの哲学」にあった。
こうして他人に頼らなければ、こんな大事なことまでも自分で考えることができないことに呆れてはいるものの、池田氏の言うことは本当だろうかと、何度も何度も反芻してみる。

なぜ、人を殺してはいけないのか? と問うのはなぜか? 理由がなければ、納得する理屈が無ければ人を殺してしまうの?あなたは。 こういう問いを発すること自体、「頭」偏重な証しだ。泉谷先生のモデルで説明できる。「心」は、そんな問いを発するはずがない。池田氏はいう。人は自分にとって善いことしかしない、悪いことはしないものだ。もし、世間的に見て悪いことをしているとしたら、当の本人は、その悪いことをするときに、そのことが自分にとって悪いことであるとは知らないのであると。自分にとって悪いことだと本当に知っていたなら、するはずがない。してしまったなら、「悪いと知りつつも」とたとえ本人が言おうとも、本当に本当のところは、ちょっとぐらい「よい」と思っていたからやってしまったはずだ。「悪い」100%でやるはずがない。死ぬということはよいことかわるいことかというと、それは、その理屈からいくと、悪いことだ。なぜなら、善い事ならそうするからだ。つまり、死ぬことが善い事なら、皆、死ぬはずだ。しかし、死なないのは、死ぬことが悪いことだと思っているからだ。善いことだと思っているなら、人を殺すより先に自分が死んでいるだろう。でも誰もふつうは死なない。つまり、自分であろうが他人であろうが、死ぬことは悪いことだと知っているからだ。であるなら、他人を殺してはいけない理由などあきらかだ。それは殺すことは悪いことだからだ。そして、そのことは誰に問われるまでもなく、誰もが知っていることだ。
そんな風な内容だった。いくら「頭」で理屈をこねようが、「心」はすでに知っている。「頭」でっかちで、他人から考え方を強制されすぎて育った子供は、「心」に蓋をするようになり、理屈で理解できることしか理解しなくなり、そういう「善いこと」と「悪いこと」を直観的に判る状態でなくなっている。泉谷先生の精神分析の基本と池田氏の問答を合わせると以上のようなことになる。少なくとも私はそう理解した。頭で?いや、心で。そして体で(胸で)。

さて、殺人犯に必要な刑は何か、ということに話を戻す。裁判員は大変だ。
殺された人にとっては、死ぬということは悪いことであり、自分では絶対にしないはずのことだ。それを赤の他人が壊した。自分にとって善くないことをを自分にはせずに他人にした。それは、やってはいけないことだ。当たり前だ。では、そのやってはいけないことをした人を、さらに周りの人はどう扱ったらよいのか。いけないことをしたのだけれど、その本人に、本来はいけないことを罰としてさせることもまた人としてその意に反するわけだ。だから、人は罪を裁いてはいけない。無理がある。ならばどうするか。そこで初めて社会、法律やその専門家に頼らざるを得ない。人の心をもたないものにしか判決できないんじゃないか。民衆は愚かだ。すぐに扇動される。いかようにでも言いくるめられる。流行に流され、他人の目を気にして自分の意見など言わない。皆の意見が自分の意見だと勘違いする。そんな比安定な人間(もちろん自分も含めて)に裁判員など務まろうか。

自分が裁判員になって、殺人事件を扱うことになったら、いったいどういう意見を出すのだろうか、といろいろ想像するうちに、上のようなことを何日も考え続けていた。結局無理だ。ソクラテスならどういうか。

フランツ・リストが書いたショパン

絶版の古本、フランツ・リスト著 亀山健吉、速水冽訳 「ショパン」
このブログを立ち上げた頃に始めた全文タイピングが、漸くほぼ完成した。
ほぼと書いたのは、20ページほどある「註」を残しているからだ。
本文はすべてタイプできた。
なぜこんなことを始めたのか、はっきりした理由は自分でもわからない。
ただ、貴重な本であろうことと、読み返すにはあまりにも本の傷みが激しく、頻繁にページをめくるのはよくないと考えたことと、音楽好きの人に差し上げたら喜ばれるかもしれないという期待があったこと、等々。
タイプしながら考えていたのは、タイピングの正確さと速度の練習になっているかもしれないこと。ブラインドタッチが少し前よりうまくなったかもしれない。右手の薬指と小指の使い方が慣れなかったが少しは慣れたかも。

いずれにせよ、マイクロソフトワードの文書で横書きだから、少しお化粧をするなり、PDF化するなり、何か後で読みやすい形に編集することにしよう。

誤字脱字脱行(行を飛ばすなんてことがあろうかと思っていたが、本当に飛ばしてしまうことがあった。逆に、同じ行を二度タイプしてしまうことも最後に一度だけやってしまって、なかなか自分が愉快であった)が無いように、原書と同じ書式(一行の文字数と一ページの行数)に設定してタイプした。何か間違いがあると、行頭の文字が原書と違ってくるのですぐにわかる。
古い本なので、仮名遣いや送り仮名が今と違う。例えば、思い出なんかは思出になってるし、ながらは乍らだし、そのほかたくさんの違いがあって、これらを間違えると途端に行頭文字がずれてくる。訳者も送り仮名や使用する漢字を統一していなくてタイプを間違えやすかった。さすがに旧仮名づかいは現代仮名遣いに修正したので、改めて読むときは読みやすいはずだ。古い漢字や当て字も多く、全く読めない時にはIMEパッドで漢字を形から探した。

そこそこの苦労がありながら、一応本文をタイプし終えたので何となく満足だ。
さて、あと一仕事「註」を打ってしまうか。あとひと月くらいかな。最後に「あとがき」があったかもしれない。それで終わりだ。

タイプしていると、タイピングの作業としての意識が長じ、実は内容をほとんど理解していない。だから、本当にもう一度読み直してみなければならない。同時に並行して最近は平野啓一郎の「葬送」を読んでいるので、内容が重なる部分もあり、少し混乱しがちだが、種々の記録や手紙などを取材、研究して小説に仕上げてある「葬送」は物語的面白さが勝り実に心躍る読書時間を持つことができた(過去形で無くまだ半分しか読んでないが)。それに比べ、リストの文章は登場人物を直に知っているリストが書いたという点で貴重な情報であり、かつ、芸術家としてのリストのある意味独りよがりの芸術論、人生論に従って書かれたショパンの生涯と芸術解釈は、まどろっこしくて客観性に欠けた文章の読みにくさが却って味を出している。

今年はショパン生誕200年だからちょうどいい。それを意識したわけではないが、昨年、たまたま手に入れたこの本になぜ執着するのかわからない。

お客様は神様です

福岡空港でのことを考えていたら、「お客様は神様です」の勘違い という前から思っていることを書いてみたくなった。
空港での件の横柄な態度のお客様は、自分が神様だと思っていたのかもしれない。お金を出す側は偉いと思っているに違いない。
ビジネスは対等だ。サービスをする側と受ける側は、サービスとお金を交換するわけだから、交換という意味で対等だ。サービスする側は、必要経費を回収し、利益を得て、生きる糧としてのお金を得なければならない。サービスを受ける側は、必要や趣向のために、お金を差し上げて、サービスを戴くわけだ。だから、「●●してくれてありがとう。はい、これは代金です。」と言ってお金を支払う。通学にバスを使っている小学生が降りるときに「ありがとう」と言って降りるの心だ。
でも「お客様は神様です」という言葉の真意を考えずに、お客様側がその言葉に乗せられてなんだか偉そうな気分になってるんじゃないだろうか。この言葉はサービスする側にとっては役に立つ言葉であって客側には関係のないことだ。歌手の三波春夫さんが言ったこの言葉の意味はさらに少し違うということだが、それはおいといて。
近年会社では「顧客満足度」を大切にするよう教育されているし、経営手法の中のひとつの指標にもなっている。こうした言葉にも「お客は偉い」と勘違いさせる要素がある。
客自身は、自分は偉いと思ったら最後だ。お金を持ってるから偉いのか?まるで脅しじゃないか。心が貧相だとは思わないか?
定食を運んでくれる若いアルバイトの店員にも、切符を売ってくれる窓口の係員にも、すべてのサービス提供者に「ありがとう」と言って受け取るのが善き人の心ではなかろうか。

妻に感謝

ちょこれいとが好きだってことを書いたら
一拍手もらった
うれしかった
共感してくれる人がいるんだ
とカミさんに話したら

私が入れた

・・・・・・

でも、ここ数日、冷蔵庫にチョコレートが入ってて美味しくいただいている

カミさんに感謝
ほんとにありがとう

気になる他者の残念なこと

今日は九州への出張。
福岡空港で土産を買って手荷物検査に並んでいる時。
結構人も多く時間に余裕のない人はあせっているだろうなという感じの列ができていた。
自分は余裕を持っていたのでそれほど気を揉まず並んでいたが、
それでもだらだらと並んでゆっくり進んでいく列全体が待つことのいらつきの空気を発しているようで、
その空気に侵されつつあるのを少しは感じながらではあった。

検査員まであと数人というところで、つと、後ろから航空会社の女性係員が一人の壮年の客を伴って、
「お急ぎのお客様ですので、申し訳ございません」と言いながら、要するに列に割り込む形で入ってきた。
ま、普通にあることであるし、いろいろ事情もあろうから、私の前に入りたければ入ればいいと思っていたが、
私の後ろにはいるようであった。そこまでは何のことは無かったが、その客がいろいろと何か係員に文句を言っている。どんな内容かははっきりわからないが、JALの特別シートのことに質問して、係員が「席の広さが違います」と応えると、叱りつけるような口調で「だから、何が違うんだ」と苛立たしく詰め寄る。「席の広さだけです」と繰り返していたが、えらく高飛車な様子が気になった。話がすすんで、ついには「もうこんな●●(聞き取れなかった)は使わない」と吐き捨てるような発言。係員はかしこまった口調で「申し訳ございません」と、私からは見えない位置であったが、明らかに頭を深々と下げて謝る姿が見えるようであった。何が問題であったかわからないが、基本的に、サービスする側に不備があったとしても、サービスを受ける側の方がいつも一段も二段も人間として上ということはないはずで、偉そうな態度でその(おそらく直接失態をしたのではなかろう)係員に文句を言うのは品が無いと思う。悲しい気持ちで一杯になった。
すると、突然、後ろの男性が文句をいいだした。列に割り込むのだから「すみませんの一言があってもいいのだろう」といったような発言。件の客は「この人(係員)がそうしたんだから、自分はついてきただけだ」みたいな物言いだ。これでは男性も腹が立った。いくら、会社の失敗かなにかで係員が連れてきて自分には列に割り込むことの罪は無いとは理屈では思ったとしても、列を割り込まれた側にとってはその事情は関係ないことであり、割り込んだ本人は(たとえ自分のせいではないとしても)一言「すみませんね」と言うのは当たり前な礼儀である。文句を言った男性は、その後何度か同じ注意を繰り返したが埒が明かないようであった。

この一部始終を背中で聞いていて、当事者たちの顔の表情が想像された。あとで文句を言った男性は、やはり、件の客の横柄な態度が気に食わなかったのだろう。横柄な態度がなければ文句も言わなかったかもしれない。
ただ、この人として尊敬できない件の客に心を砕いてしまったことは懸命ではなかったと私は思う。正当な行為だが、無駄な、得ることのない発言に結局終わってしまったし、そうなることがわかる相手であることは予想できたはずだ。つまらない残念な時間に彼は付き合ってしまった。

ああ、このような想念のただよう空間から早く離れたいと私はただ思って先に進んだのであった。

空港は多様な人々が集まってくる。いろんな空気を醸している。近寄りたくない空気が日常空間よりも多いと感じるのは気のせいだろうか。

ちょこれいと

僕はちょこれいとが大好きだ

ちょこれいとほど美味いものが他にあるだろうか

ちょこれいとさえあれば僕は幸せだ

この平仮名で書く感じの美味しさだ

ちょこれいとは美味しいので食べない

ただ口の中で溶けて行くのを待つ

舌先で口の中を滑らせて擦りつけて

味を行きわたらせて

いっぱいに広がって そして無くなるまでゆっくりと

ああ これほどのものは 思考を溶かして わだかまりも溶かして

ちょこれいとがある限り生きてゆく