直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年07月の記事

蝉考

近くのマンションの前で、植栽の木で鳴いているセミを虫網で捕まえようとしている母親を見た。脇で虫籠を持った小さい男の子が見ている。ああ、お母さんじゃなくて自分で採った方が面白いのに、と思いながら通り過ぎた。その子がお母さんに頼んだのか、お母さんが取ってあげようと自ら臨んだのかわからない。でも、やっぱり虫取りは自分でやった方が楽しい。失敗したら悔しくて、他の木に行っては何度も試してみればいい。
この辺りのセミはアブラゼミかクマゼミだ。アブラゼミはジリジリと鳴き、クマゼミはシャアシャアと鳴く(ように聞える)。自分が子供の頃住んでいた豊田市松平町辺りでは、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシが主で、時々、ミンミンゼミがいた。アブラゼミは羽根が茶色なのであまり好きではなく、沢山採れるのに嬉しくなかった。ニイニイゼミも小さくて羽根が石のような茶色のようなで美しくなくチビなのでそれほど嬉しくなかった。ツクツクボウシは透明の羽根で鳴き声も独特だったので好きだった。また、目の高さくらいの小さな木にも止まっていたのでよく見つけては網で採っていた。ヒグラシは夏も終わりくらいになると夕方から鳴き始め、一日もお終いかあ、という気だるい気分とともに聴いていたのを思い出す。クマゼミはいなかった!クマゼミは憧れのセミだった。隣りの岡崎市のとある神社の境内にいると聞いて一度だけ行く機会があって探した記憶がある。とても背の高い太い木が何本も立っている場所で、木の上の方でシャアシャアと鳴いているクマゼミの声を聞いた。木が高すぎてセミの姿を捕える事はできなかった。図鑑で見るクマゼミは、黒くて大きくて、透明な羽根を持ち、まさにセミの王様だと思った。これがこの木にいるのかという嬉しさと捕まえられない、見られない残念な気持で帰って来た。
それが今、春日井に住むようになってクマゼミは身近だ。低い木に何匹も掴まっている。素手で捕まえられるし、場合に依っては、向うから家のベランダに落ちて来て下さる。もう王様ではない。憧れだったクマゼミは普通のセミで羽根が透明だからちょっといいかなというランクに下がってしまった。欲しいものは手に入るとつまらなくなる。
それにしても最近のセミは馬鹿なのだろうか。昔はニイニイゼミ以外は素手で捕まえる事なんてできなかったが、今やニイニイゼミ並みの鈍さになってしまったのだろうか。それとも自分の身体の切れが良くなったからなのだろうか。子供たちよ、近くの木を良く見てごらん。セミがたくさんいるじゃないか。そっと近寄って、そっと手を出して、パッと背中の羽根の附け根のあたりを二本の指で挟むように捕まえてごらん。そしてお母さんのところに持っていて自慢すればいい。
10年ほど前に福島県に旅行に行き、朝の散歩の途中で羽化する途中のアブラゼミを見つけた。白くて美しかったので写真に収めた。よく見ると、すこしすでに茶色がかってきているが、背中は何とも言い難い虹色のような金色のような白色に淡く輝いている。アブラゼミは、面白くなかった子供時代にも家の裏庭に立てかけてあったシイタケ栽培のほだ木にとまって羽化しているのを見たことがあるが、あまり近寄っては見なかった。大人になって写真に撮ってじっくりみると、アブラゼミはなんとも美しかった。
あぶらぜみ
スポンサーサイト

芝居の楽しさ

娘が中学校時代に演劇部に所属し、卒業後、後輩達の発表会を見に行くというので一緒に行った。春日井市に演劇部がある中学校はたった4校とさみしい。
中学生の演劇なので、プロの演技とはほど遠いと思われるかもしれないが、それなりに素晴らしい演技をする子もいて、演出も工夫を凝らし、手作りながらも涙をそそる舞台もある。
娘の後輩達の芝居は感動ものであった。主な登場人物が個性を持って際立っており、しかも適役で生き生きとしていて、完全に見入ってしまった。中学生だからと侮るべからず。アマチュアでも入魂の演技には心打たれるものがある。何よりも、演じた中学生達が終わった後とても満足げに楽しそうにしていたのが一番うれしい。娘も一週間前に練習を見に行って、演出に手を加えたと言っていたが、その場面はなかなか良かった。
小さいころから、いくつかの芝居を見に連れて行っていたおかげか、芝居が好きである。演出にも興味があり、なかなか感性がよい。趣味で少しやればいいのにと思うのだが・・・

太極拳の大会を見た

たまたまNHK-BSにチャンネルを変えたら、武術太極拳の大会をやっていた。長拳、南拳、そして太極拳。中国の公園では朝早くから太極拳をやってる人が多いことは聞いていて、中高年の健康体操のようなものとしか考えてなかったので、この武術太極拳という競技に正直驚いた。長拳、南拳はいわゆる中国拳法そのもの、ジャッキーチェンに楽しませてもらった猿拳や酔拳に近い動きだった。太極拳はゆっくりとした動きと速い動きが組み合わさった実に美しい演武だった。本当に美しい動きで、優勝した男女それぞれ、見惚れた。優雅な流れるようで高貴な上体の動きとそれを支えて柔らかく移動する下半身。バランス。涼しい表情。こんな動きができたら羨ましい。機会があればやってみたいと思った。

葬送 読了

平野啓一郎さんの「葬送」をようやく読み終えた。もともと、平野さんの「本の読み方」を読んだのがきっかけで、その中で紹介されている「葬送」の一節を読み、この小説がショパンとドラクロワの話であることを知り、古書店で買い求めてしばらく本棚の肥やしになっていたものを少しずつ読み始め、この半年ほど、通勤電車の中で毎日15分ずつ読み継いできた。
登場人物の心理描写がうまいものだから、モノの考え方をこれほどまでに多様に(人によって変えて)書き分けられることに感心する。
最後の場面は特に心ひかれた。ドラクロワの真っ白な心情が想像され、まるで、卒業式を終えて少し落ち着いてこれから全方位に開かれた新しい人生への期待と少しの不安をまったりと感じている状態に似た感覚を覚え、とても気持ち良く、また、その雰囲気を名残惜しく感じながら読み終えることができた。
小説の終わりはなかなかしっくりいかないことが多い。あっけない終わりが多く、物足りなさが残ることがなぜか自分が選ぶ小説には多いが、今回はそれが無かった。クライマックスはとうに過ぎているにも拘わらず、いつまでも読んでいたかった。そして、その終わりはちょうど腑に落ちてくれたという感じ。

途中、平野さんの見解と思われる日常についての考察をドラクロワに語らせた部分があるので、紹介したい。

日常というものは、考えてみれば実に人工的なものだ。それは千変万化する自然の脅威の中に確乎たる秩序を打ち立てようとして拵え上げた人間の苦心の産物だ。その揺るぎなさこそが、一方では人を苛み、かくも衰弱させてしまうこととなっているに違いない。芸術を創作すること―或いはショパンの言い方に倣うならば、とにかくも何かに没頭すること―は、そうした秩序と一旦完全に関係を断ち切ることである。仕事場へと赴く際のあの苛立ちと不安とは、つまりはそういうことなのではあるまいか?そして出来上がった作品こそは、今度は人々をその堅固な秩序の囹圄(れいぎょ)から束の間救いだして、絶対の自由を体験させることとなる。しかしそれは、まさしく生きる者の問題だ。この日常のただなかにこの先もずっと留まり続けなければならない者達の問題に他ならない。

最後の部分は、ショパンが病のために余命いくばくもないことを踏まえて書いている。
いずれにしても、日常というものをこのように捉えることの透徹さに参った。

むすめのショパン

高校一年生の娘がピアノ発表会で、バッハの平均律とショパンのノクターン遺作を弾いた。
いつも発表会ではビデオを撮る役目なので、モニターに見入っていると肝心の演奏に100%集中できず、もどかしい思いをしていた。今日もまともに聴けないかもしれないと思いながらも、ビデオカメラを片手に、しかし、娘が弾く姿にできるだけ直接視線を向けるようにした。
ショパンを弾き始めると、まるでカミさんと同じように一人前の音楽家然とした顔の表情、身体のうごきで非常に美しくノクターンを奏でるではないか。カメラを持つ手に気を取られながらも、演奏に集中せざるを得ないほどにノクターンの憂愁の調べに引き込まれた。涙がこみ上げそうになった。親ばかかもしれないけれど、めったにこのような感慨を得たことはない。
普段練習をほとんど聴いていないからかもしれないが、想像以上に弾けていることに真剣に尊敬の念を覚えた。女は強い、という変な感慨もあった。
音楽に感動する場合、おもな要因は曲そのものであり、それがショパンのノクターンであったことも大きい。ちょうど、平野啓一郎さんの「葬送」の下巻の最後のところを読み進めており、ショパンが息を引き取る場面を昨日読んだところである。この名作に描かれるショパンの心中、病気からのがれることができず死にいたった彼の無念と残された美しい曲の数々への愛、そういったものが僕の頭の中に渦巻いているタイミングにちょうど合ったということもあろう。だが、感動というものはたいていの場合、このようにいくつかの要因が重なった、特別な状況で起こることではなかろうか。まさに一期一会である。
そして感動とは常に実に個人的なものである。ゆえに感動があるということは如何に幸せなことであろうか。
今日のところはとにかく、娘に礼を言いたい。

トラットリア JUJU

家族の誕生日には必ず行く店がある。JUJUというイタリア料理の小さなお店である。
その腕前からシェフは本場イタリアで修業をしたと言われても違和感は無いが、どうもそうじゃないらしい。しかし、食材の選び方や味付けにはいつも感心する。小さな店で二人だけでやっているにも拘わらず、メニューの種類の多いこと。いづれを食べても一級品だと思う。料理に時間がかかり、人も少ないので、注文品が出て来るまで時間がかかり、ネットの口コミでは遅いことに苦言をコメントする人もいる。否定はしないが、それをある程度我慢しても納得できる美味しさなのだから、僕は批判しない。お酒でも飲みながらゆっくりと次の料理を待てばよい。
先日食べたものの中に新しい逸品を見つけた。牛タンのワイン煮込みのリゾットだ。厚切りの牛タンの深い味がたまらなかった。リゾットも当たり前に芯のあるいかにもリゾットという歯ごたえであったし、チーズの風味が良かった。家族みんなが好きな料理はゴルゴンゾーラのニョッキである。このカビのチーズの美味さに惹かれて必ず注文する。他の料理もチーズが美味い。
このお店に始めて入ったのは開店間も無いころのランチだった。パスタランチでスカンピのパスタを食べたら、スカンピのダシの美味しさに「こんな美味いのか、手長エビって」と驚嘆したのを今でも忘れない。スカンピは高かろうに、パスタランチは1000円でお釣りがきた。この店はすごい、と思ったのが最初で、それからファンになった。
今はランチをやってないが、ディナーはいつも満席なので必ず予約していく。
こういうお店が家の近くにあるのはなんとも嬉しい限りである。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。