直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2010年12月の記事

日本の生き物

年末の休日は昼間にテレビを見られるせいか、それとも、各局で特集の再放送なんかを流す機会が増えるせいか、興味深い特集に出会うことがある。

例えば、BSJapanでは、ヨーロッパの祈りの場所に関する建造物を紹介する番組を観た。要するに、教会建築である。フランス、イタリア、スペイン、ギリシャなどにある聖堂、修道院、礼拝堂などだ。キリスト教の本場であるヨーロッパの古い教会建築の何とも言えない雰囲気が映像から伝わってきた。著名な建築家のル・コルビュジエが設計した礼拝堂は、その内部が素晴らしかった。外観も奇妙な作りに見えるが、見ていて飽きない。内部は、採光の美しさに見惚れてしまった。

NHKでは、生き物についての特集を観た。日本と欧米の紅葉は、色の多彩さに違いがある。日本の方が色が多彩だ。もみじの仲間の種類は、日本が約30で欧米はどちらも約15と半分しかないそうだ。なぜそうなのかいろいろ解説されていたが、氷河期まで遡った理由があるらしい。また、哺乳類、爬虫類、鳥類の固有種は日本は130種だそうだ。これは、オーストラリアの1300種に比べれば少ないが、固有種で有名なガラパゴスの110種を上回っている。イギリスには固有種がいないそうだ。日本は、意外に固有種が多いとのこと。さらに、海洋生物(バクテリアから哺乳類まで)は約33000種で、全世界の海洋生物の約15%だそうだ。日本のまわりの海は太平洋、東シナ海、オホーツク海に囲まれ、サンゴ礁の海から、北の流氷が流れて来る海まであり、かつ、4つの海溝があり、深海魚も多い。種類が多い理由も日本という島が大陸から分離してできあがる過程や氷河期の影響もあって詳しい説明があるらしいが、いずれにしろ、海洋生物の種類の多さには驚くべきものがあるそうだ。
もちろん、昆虫や菌類などまで調べたら、日本が特に多いかどうかはわからないけれども、いまだに森林が多く、海に囲まれた日本という国の生物の種類は他国に比べて多いと言ってもいいようだ。自分が作り出したものではないのだけれど、ただ、たまたまこの国に生まれただけなのだけれど、こういう状況に対して嬉しく思うのはなぜだろう。家庭、地域、会社、社会システムという日常生活の視点から、地球の中の日本が生態系としてどういう位置にあるのかという見かたに視点を変えてみると、つまらない三面記事的な出来事がよけいにつまらなく思えてくる。
視座を変えよ、というのはシステム思考の原点である。情報というのはありがたい。知るということは視座を変えるチャンスになるからだ。どのような記事を見るか、テレビ番組をみるか、本を読むか、それは常に選択の連続である。どのように選択するかが、情報の質にかかわる。視座を変える。メンタル・モデルを変える。その連続で自分が変わり成長する。芸術も哲学も文学も遊びも漫画も仕事も食事も全部つながっていて、全部ひっくるめて自分の視座を一段高いところに置いて眺めてみたい。
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フィギュア視聴率

先週の全日本フィギュアスケート選手権のテレビ放送の視聴率は平均で20%を超えていたそうである。
視聴率の時間変化を折れ線グラフにしてみると、3つの山があり、それぞれが30%近い瞬間視聴率を得ていたということで、それがどの場面かをワイドショーで解説していた。次の3つの箇所である。
・浅田選手がフリーの演技を終えて、裏に出てきたところ
・安藤選手がフリーの演技を終えた瞬間のガッツポーズのところ
・浅田選手がフリーの演技を終えて、キス&クライで得点のアナウンスを聞くところ
不思議なのは、いづれも選手が演技している瞬間ではないということだ。
視聴者は、各選手の演技そのものより、結果(順位)、点数、終わった選手の表情に関心が高いようだ。

単純にそう言えるのかどうか考えてみる。
視聴率の測定方法というのがわからないので、想像してみるしかないのだが、上記の場面の視聴率が高いということは少し不思議である。つまり、その時、その瞬間に例えば浅田選手が得点を待っているということを知っていなければ、その時間にチャンネルを合わせることはできない。こんなことができるのは、すべてのチャンネルが一目でわかるようになっていて、関心のあるチャネルを観ていながらも、横目で他のチャネルの番組の進行をモニターできていることが前提になるように思われる。
仮にそのようなシステムだとすると、こんなことが予想される。
モニター家庭の人の約20%の人がフィギュアスケートをずっと観ている。その他の人も横目でその進行を観てはいるが、メインには違う番組を観ている。しばらくして、浅田選手の演技が終わり、得点がいよいよ出る場面になった。それまで他の番組を観ていたひとのなかでモニター世帯の10%に当たる人が、得点を見たくてチャネルを変えた。その瞬間合計30%になったということなら説明できる。
従って、視聴者のほとんどが得点にしか関心が無いと思うのは早計で、世の中の20%の人はフィギュアスケートに関心があって演技を観るのを楽しんでおり、得点や順位にだけ関心がある人を入れると30%に増えるということだ。
何に価値を置くかは個人の勝手である。得点や順位に価値の重きを置く人が少なくないということも上記の考察から仮定することができる。各選手の演技に見惚れている僕らのようなファンは一部だけで、多くの人は関心がないのである。それはそれでどの世界でも同じで、野球、サッカー、ゴルフといったスポーツを始め、あらゆる分野についてそういうことができる。だから、次のようなことは独り言で終わってしまうのである。

あなたはなぜアメリカンフットボールの知的なゲーム運びに心を奪われないのか?
あなたはなぜ白鳳が相手の上手を切る神業的な動きをすごいと思わないのか?

あなたはなぜ高橋君の華麗で切れ切れのステップに涙を流さないのか?

走ること

沖縄で借りたレンタカーの会社からメルマガが来て、プレゼントを応募した。
今年楽しかったことと、来年の目標を書く欄があったので、ちょっと考えた。
今年楽しかったことには、宮古島でビーチシュノーケルしたことを書いた。
来年の目標には、ジョギングを始めることを書いた。ほんの少しだけ、最近考えていたことだけれども、改めて問われると他に目標というものが何もないので、思いきって書いてしまった。こんなアンケートの回答に「思い切って」書くほどのことは無いのだが、それでも大きな意味があるように自分には思われた。

それで、おととい、思い切って走ってみた。10年以上前に買ったトレーニングパンツと20年以上前に買ったジャージの上着を(色違いだったが)着て、5年くらい前に買って普段はいているスニーカーを履いて出かけた。ジョギングそのものがウォーミングアップだと言うトレーナーも居たので、すぐに走り始めた。
スニーカーは足の先の方がゆるゆるなので実は少し歩いただけで疲れてくる。そしていざ走り始めると、脚全体に負担がかかるのがすぐにわかった。それでもとりあえず走り続けた。たぶん、2~3kmは走っただろう。近くの川沿いにある歩道を往復して戻ってきた。
翌日、腿が筋肉痛だ。

続けるならちゃんとした靴を買わなくては、と考えたので、昨日、ヒマラヤへ買いに行った。
AdidasのRunningシューズから選んだ。値段と色とサイズで2つに絞られたが、履き心地でどちらかに決めるのは難儀だった。本当は実際に走ってみないとわからないのだろうが、どちらも少なくともおとといの靴よりはましだろうということとRunning専用ということで、最後は色で決めた。
ついでに安いトレーニングウェアも買った。冬用の温かいやつは着る時期が短いのでそれらは避けた。

そして本日、新品のAdizero Mana というブランド名のシューズを履いて走りに出た。足へのFit感が全く違う。今日も腿の筋肉痛が続いていたので、はっきりとはわからなかったが、この靴で走ることによる疲労はほとんど無いと思われた。
体幹の傾斜、腕の振り、足裏の着地場所、足先の向き、その他、微妙な足の運び方などなど、身体の使い方をいろいろ試し、変え、しばらく試し、また変えて、呼吸の仕方も意識し、心拍や汗の出方に気を遣い、走ってみた。走りというのはこれほど頭を使うことなのかと思うほど新たな発見があった。
中学生時代、田舎の学校ではあったが、校内トップの持久走者だったが、そのころは無茶な走りをしていただけだったことがわかる。限界ぎりぎりのところでトップスピードで走り続けることだけを追求していた。起伏の多い学区の公道を18km走るマラソン大会でぶっちぎりでトップを走っていたあの3年の冬は、どこまででも走り続けられそうな感覚があった。若いからできたことなのだろう。今はもはやあのころの感覚で走ることはできまい。来年は年男。48歳になる。無理をして途中で心臓が止まってしまっては家族に迷惑をかけるだけだから、ほどほどにしておこう。
けれども、もし、走り続けることができて、何度も何度も走りの感覚が変貌し、長距離を楽に走れそうになったなら、市のマラソン大会に出てみようかとも思う。

ひとりで走っている間にいろいろなことを考える。黙ってじっとしている間は何か集中できないけれど、歩いたり走ったりしていると考えに没頭できる。これが一番の効用である。

全日本フィギュアスケート選手権 女子フリー

いろんな予感がだいたい当たりました。

優勝は安藤さん

浅田さんはちょっとミスする。けれども感動的な演技をする。

村上さんはノーミス滑り切る

安藤さんはぼちぼち王者の貫録を身につけつつあります。常にハイレベルな演技を決め続け、安定して高得点を出せる選手になってきた感じがあります。

浅田さんは観ていてワクワクする。身のこなしが美しい。技のひとつひとつに隙が無く、次の動きへの期待が湧く。だから、終わってもまだ観ていたい。昨日のフリーの演技もSPと同様、終わった後に涙がでてきそうになった。これは、演技している本人の気持ちとか想いとかが演技に表れていて、終盤への観客と一体になった盛り上がりに自分も感動していたということでしょう。

村上さんは新世代の代表だから、大舞台でも萎縮しない気持ちの強さがあります。終わった後のことをああだこうだ考えない。僕らの世代にはそういう人は極めて少ないきがします。何かに押さえつけられて育ったので、晴れの舞台ではじけることができない。でも村上さんら、今、フィギュア界で頭角を現しはじめた16歳以下の人達には天界まで障害もなく見通せているかのようです。他の世界にも、身近にもそういう人達が増えている気がします。
 庄司さんも最初は緊張していたが、2/3くらいはもう自分の世界を表現しつくしていた。大庭さんも今の実力の範囲内で完璧だったと思う。

実際の点数はさておき、何度見ても感動するのは、高橋君と浅田さんの演技です。なぜでしょうか。

全日本フィギュア 女子SP 男子フリー

昨日の全日本フィギュア女子ショートプログラムは、待ちに待った、僕の望んだ結果となった。
浅田さんが新しい滑りを滑り切ったということだ。
トリプルアクセルに拘って飛んだことが騒がれているが、もちろんそれ自体本人にとっても重要なことだが、スケーティング、スピン、ステップの段違いの上手さを我々に見せつけた。そのどれをとっても、他の選手の中で彼女に勝る者はいないだろう。安藤さんも確かに上手だ。鈴木さんもステップが上手いと言われている。でも、僕は浅田さんの右に出るものはいない、いるとしたら、Pチャンか高橋君かシズニーしかいないと僕は思う。
トリプルアクセルは完ぺきではなかったものの、本番でとにかく回って降りられた、ということが本人にとって非常に大きなブレークスルーになったようだ。その後の演技が圧巻だったことがその理由だ。
演技が短く感じた。終わってしばらく声が喉に詰まってしまった。こういう人、演技に出会える機会はあまりない。男子フリーで執念の滑りを見せた高橋君の演技でもまた涙してしまった。昨日は、この2つの演技を観ることができたことによって最高の一日になった。

女子SPでのその他の感想。
安藤さんは新しいSPをグランプリファイナルでの失敗を克服してよく仕上げてきた。立派な余裕のある滑りだった。庄司さんは14歳とは思えない優雅な身体の動きを持っていて、ジャンプも飛べる素晴らしい逸材ぶりを示した。日本人としては今までにないタイプで、これからすごく楽しみだ。名古屋っ子の大庭雅さんも頑張った。ジャンプはよいのでその他の演技に磨きをかければさらに得点を狙えるだろう。村主さんは29歳の落ち着きで失敗なくまとめた。村上さんは、いつも通りだったように見えたが、ダブるアクセルがすっぽ抜けた。魔がさしたとはこういうことだろうか。滑りには庄司さんにはない切れとスピード感がある。優雅さでは負けるが、自分の良さを伸ばしていけばよいと思う。

男子フリーでのその他の感想。
小塚君は悔いの残る演技だったが、スケーティング、スピンで高橋君に勝った。こういう基礎のしっかりできている人は強い。Pチャンと同じタイプだ。素人的には、異常に点数が出すぎに見える。けれども、ジャッジ的には根拠のあることだ。ジャッジが点を出しやすいように演技をしているのかもしれないが、それでは一般の観客は面白くないことが多い。Pチャンは上手いかもしれないが、プログラムはつまらない。高橋君のプログラムのように、もっとずっと観ていたいと思わせる人は本当に少ない。
織田君はまたもフリーで4回転を失敗してしまった。彼は残念ながら音楽性や芸術性で他の選手に勝てないことを自覚しているのでジャンプで勝つしかないのに、決め切れなかった。練習量なのだろうか。「あきらめない」というのが浅田魂ということで、小塚君も宇野君も他の名古屋のメンバーも彼女のその精神に見習って頑張っている。麻雀の鬼と言われる桜井さんと言う方が本を書いているが、そこに、練習も本番も無いということを書いている。いつも本番のつもりで練習しないと本番だけうまく行くはずが無いということだ。そのとおりだ。フィギュアの選手たちがどういう練習をしているのか僕は全く知らない。練習を練習としてやるのか、いつも本番と思ってやるのか、意識がどちらにより近いかで練習の質が変わってくるはずだ。皆どうしているのだろう。織田君はどうしているのだろう。

さて、もうすぐTVで女子フリーの放送が始まる。浅田さんは完全にふっきれただろうか。ジャンプは失敗しても、世界一のスケーティングを見せてほしい。

フィギュアスケート全日本選手権 男子ショート

あああ、高橋君が調子を落としている。
今朝の新聞に書いてあったが、長光コーチがとうとう吐露してしまった。
「一つだけ願いがかなうなら、GPファイナルの公式練習の前に戻してほしい」

やはり、小塚君に激突された後遺症があるのか。
高橋君は本当に気を遣って、小塚君が気にしないように、大丈夫、大丈夫と言っていた。
今でも、本人は事故のせいにする発言をしていないみたいだ。

済んでしまったことは仕方が無い。
高橋君はすでに昨年度世界選手権チャンピョンになっている。まだまだ自分として納得のできる極みに達していないだろうこともわかるが、ここは、少し休んでもいいのではないか。今は無理しなくてもいいのではないか。ここで休むと小塚君が大きく動揺するかもしれない。しかし、それは仕方が無いことだ。
仲間で友達であったとしても、大事なのは自分だ。小塚君は動揺してもなおそれに打ち勝つ力を持たなければならない。
もしかすると、高橋君は別のことを考えているのかもしれない。どんなにけがをしていても体調が悪くても、常に一所懸命やるべきことをやる、という考えなのかもしれない。マイナスな状況でも如何に力を出し切るかの鍛錬と思っているのかもしれない。ならばやればよい。

小塚君は、高橋君の不調が自分との激突のせいだと思っているに違いない。ならば、その事実に臆することなく、高橋君の分まで自分が最高の演技をしなきゃいけない、そう考えて試合に臨んでいるように見える。だから、今日のフリーでもおそらくトップレベルの演技をしてくるだろう。そして、世界選手権の切符を手にし、世界王者に挑むだろう。彼は今年に賭けなければならない運命にある。今の採点方式でも高得点が取れるのは、Pチャンと小塚君しかいないだろう。(織田君もフリーでのびのびできるようになれば別だが)。今年頑張らないと、羽生君、ハビエル君、レイノルズ君が一皮むけてきたら危ないですぞ!

インターネット上にはフィギュアファンのブログやサイトがたくさんあるらしいし、いろんな情報が飛び交っているだろう。自分はあまりそうしたものを見ないので、見当違いのことを書いているかもしれない。わずかな情報と、TVで観た自分の感じ方だけを頼りに想像で意見を述べているにすぎないことをここに付記しておく。

Christmas Meditation

名古屋新栄近くにある布池教会で23日、Christmas Mediationなる催しが開かれた。
カミさんに誘われて行ってみた。
合唱やパイプオルガンを聞きながらクリスマスの日を想ってみましょう、ということでMeditationのタイトルをつけたそうだ。一時間の中で、専属のオルガン奏者によるパイプオルガン演奏、神父さんによる聖書の朗読、プロ級のママさんコーラスによる合唱などが催された。

布池教会には以前、会社の部下の結婚式で訪れたことがあるが、あまり記憶に残っていなかった。外観は白を基調とした少し近代的な雰囲気で、内部も白い壁と、近代的デザインのステンドグラス。装飾はゴテゴテしておらず落ち着いてすっきりした内装であった。

最初と最後に讃美歌を皆で歌ったが、久しぶりに歌うということもあって喉から声を出すのがつらかった。腹から出したくてもなかなか上手くいかず、歌は普段から歌ってないとだめだなあ、と思った次第。
カミさんは教会内に響く自分の声に気を良くして大きな声で気持ちよさそうに歌っていた。周りにもそういう人の声が響いた。

神父さんの聖書の朗読は、イエスキリストの誕生の話が短く語られた。朗読を聞いた直後は、素直にそのまま、物語を淡々と理解したように思っていた。しかし、神父さんの解説を聞き、物語の背景や意味についての無知に恥ずかしくなった。というより、時代背景や当時の人々の常識みたいなものを良く知ってないと、ちゃんとした理解はできないということがよくわかった。
例えば、羊飼いとはどういう人たちだったのか、現代風にいえば、路上生活者が日銭を稼ぐために請け負っている、誰もやりたがらない仕事、ということのようだ。「羊飼い」というれっきとした職業をもった普通の生活者だと思って聴くのと、一般世間からは見放された人達と思って聴くのとでは大違いである。キリストが羊飼いと絡む場面の意味が違ってくる。

自分はキリスト教徒ではないし、教徒になりたいと思っているわけではない。どこかの宗教に入りたいという気も無い。しかし、それぞれの宗教がどう成り立っているのか、そこで言われている教義にはどんな意味があるのか、そういうことを単に客観的に知りたいということである。なぜなら、それらには人間存在を考える上でのヒントがあるように思うからである。

一方、キリスト教の教会という建物、装飾、讃美歌、音楽、そうしたものには「神聖な」雰囲気というものがある。これらに接することによって、何かを感じるということも事実である。それらに惹かれる人が多いというのも頷ける。いったいこれは何なんだ、と思う。どこかの偉い学者さんが解説してくれてるだろうから、ここでは考えないことにする。

神父さんのお話の中でどうしても気になる箇所があったことを覚えている。正確には覚えていないが、人は家族や親族に祝福されて生まれて来るが、時には、そうじゃない場合もある。子供をつくるつもりじゃなかった、生まれてきても誰も祝福してくれない、厄介者扱いされる、そういう子供もいる。「けれども、そういう子供も神様に祝福されているのだよ」という解説である。「神様」で説明してしまうのか。なぜ、「なぜ、祝福されない環境でも生まれてきたのか。そういう環境で生まれた子供がどう生きればよいのか?」いろいろ考えることはあるだろうに。(それが哲学的思考だと思う)
何か苦しいときに神に頼ったら、考えなくなってしまうじゃないか。自分で苦しみを理解し、理由を考え、消化していくことが本当はできるはずなのに。

そんなことを想って神父さんの言葉を聴いていた。ちょっと気になるところがあったけれども、ほとんどのお説教は十分に価値のあるものであった。

もうひとつ、「貧しき人々に救いの手をさしのべる勇気をください」という言葉があった。神様に対する祈りの言葉の一節である。この「勇気」という言葉の使い方に感銘を受けた。手をさしのべるという行動に対して、人間は「勇気」が必要であることを教えてくれているからである。そして、「貧しき」の貧しさは一体何が貧しいのかも問いになる。いろんな解釈ができる。いろんなケースがあり、それぞれにこの言葉は重い。
例えば、本当に金銭的に貧しい人に対して、お金を恵んであげるというケースがある。この時、お金を出す行為に勇気が要ることは想像できよう。どういう勇気なのか、これも幾通りもあるだろう。人によって違うだろう。自分も裕福ではないが少しのお金は差し出す余裕はある。しかし、お金は欲しい。そういう「欲」を断ち切る勇気も「勇気」だろう。これはわかりやすい。貧しい人にお金を差し出すその瞬間、相手から自分がどういう人間だと思われるかを何故か気にしてしまい、差し出す方なのに何故か気恥しい感覚を持つ。こういう感覚を断って差し出すための「勇気」というのも考えられる。他にもあるだろう。
一方、「心の貧しさ」を対象にする場合もあるだろう。考え出すときりが無い。そして難しい。
誰が貧しいのか、それは実は自分かもしれない、などと云いだせば、話がこんがらがってくる。そういう議論を秘めている。自分の方が貧しいのに、貧しくない相手に手をさしのべるのは、そりゃ「勇気」が要るだろう。さほど、掲題の言葉は難しい。

テレプシコーラ 完

山岸涼子先生のバレエ漫画「テレプシコーラ」が完結。

第2部最終の5巻を昨日買ってきて、涙しながら2回続けて読んでしまった。

山岸涼子先生の漫画は「日出る処の天子」を始め、「青の時代」や短編集が好きでよく読んでいる。

テレプシコーラはこれらの話とは雰囲気の違う、スポコン的要素もあれば、ガラスの仮面的要素もあるバレエ漫画であるが、部分的に「怪奇」趣味的な場面があって、独特の陰りのある冷たい目線や表情はいかにも山岸先生らしいと思って妙に安心する。

しかし、涙したのはそうした場面ではなく、ちょっと弱弱しげな(才能のある)主人公が頑張って、それでも風邪で体調を崩してコンクールを棄権してどん底の気持ちだったところで思わぬ特別賞をもらってしまう、お定まりのストーリーにである。単純といえば単純だが、そんなストーリーでも泣かせてしまう上手さが山岸先生の手腕だろう。

冬至の柚子湯

今日は冬至
カミさんが柚子を買ってきて風呂に入れてくれた
柚子湯だ

柚子のような香りの強いものは邪気を祓うと言われていて
それで冬至という一年で一番日が短い日(太陽の力が最も弱くなる日)に邪気を祓うのだそうだ

柚子湯につかり
柚子の香りにひたった

柚子を手に取り鼻に近づけた
強い香りがすべての心のほかごとを押しのけて
自分に生きていることを思い起こさせた

行動しても自分
喋っても自分

我思う故に我あり
というのはどうも消極的にすぎる
そんなに我というものは確認しなければ飛んで行ってしまうほど微かなものなのか

すべては思う我ではないのか
思っている自分がこの世のすべてである

反対に死を考えてみる
死んでいる自分
無い自分
無を私は想像できない
全く一歩も近づけない
当たり前だ
考えれば考えるほど自分の存在を強く確認する
無、死には一歩も近づかない
全く近寄れない

これほどの存在は奇跡としか言いようが無い
自分が生きていることは、それでしかなく
死はあり得ない
だから生きるのだ

柚子の香りに包まれながら
生きていることがすべてであることに気がついた

今日一日

朝、8時に起きて仮面ライダーオーズを観た。
軽くご飯を食べて、洗濯、身支度。
10時15分にカミさんと一緒に家を出た。黒のぴちぴちのパンツに黒のTシャツに黒の革ジャン、黒のブーツとグレイのハンチング帽。そして青系のマフラー。ちょっと寒いけど、行き先はデパートだから大丈夫。
11時に名古屋栄の三越6階から連絡通路でラシックへ。そこで娘と待ち合わせ、一緒にラシック7階の矢場とんに入った。もう少し遅ければ待たされるところだった。
三越6階の連絡通路の手前に、カントリー調の家具があった。好みの色目。一番手前に小さなワインテーブルがセールで10500円。8角形の縁取りが印象的で、リビングのソファの脇に置くのにちょうどよさそう。買い物の最後に来てまだ残ってたら買うということにして、矢場とんへ。
矢場とんで連れの二人は鉄板味噌カツを食べた。自分は味噌串カツ定食。矢場とんと言えば串カツ。昔、まだ、本店改装前に行った時、カツの定食を食べた。しかし、周りの人は、当たり前のように串カツ(味噌)を頼んでいた。それ以外を頼むのは罪のような目線を感じた。そんな(勘違いかもしれない)思い出があったものだから、それ以来初めて入った矢場とんではとにかく串カツを食べなくては、と思った次第。
さすがに美味しかった。5本で腹いっぱい。娘が残したロースかつも豚の脂が美味しかった。

店を出て、娘のコートを買いに松坂屋へ。イースト・ボーイという店だったが、はじめカミさんは三越にあると思っていたが、正解は松坂屋だった。本当は名古屋駅の高島屋に入ってる店舗で知ったらしいので二重の勘違い。イースト・ボーイは女子服しか置いてない。高校生くらいの女子のための洋服店だ。今年はダッフルが流行りだと言われて、ダッフルを買った。

次にPARCOへ。帽子やですっぽりかぶるタイプの黒の毛糸系の帽子を買った。
次にカミさんと娘はALGONQUINSというフリフリ女子服の店で娘の服を選んだ。その間、時間がかかるというので、自分はMENSのフロアで、シュッとした形のダウンジャケットがあれば買おうと思って物色していると、まさにそのものがあった。ネイビー色を勧められて来てみるとぴったりで、しかも、逆三角形っぽいスリムなスタイルだった。ジッパーをかけなくても形は整っていたので、これしかないと思って買った。ついでにそれに合うTシャツを1枚あわせて2万円ちょっと。女性店員に、黒のリュックサックの形が可愛いとお世辞で褒められて気分よくなった。昨年、サティで2000円ちょっとのものを、ほころびがあるので同じものの在庫は無いかと聞いたら在庫はないので半額にすると言われて買ったものだ。ほんとに大したほころびではないので店に悪い気がしたのを思い出す。
隣の店は去年、今着ている革ジャンを買った店だ。皮っぽい肩掛けバッグが無いかと思って店に入ると、去年高すぎて見送ったバッグはまだあった。4万円超のそのバッグは、しかし、今日はあまり欲しいとは思わなかった。いろいろ観ていたら店員に薦められて21000円の黒のバッグを気にいったので買った。
帽子に、ジャケットにバックにTシャツ。ちょっと買いすぎだ。年に一度の年末ボーナス、自分への出血大サービス。
ALGO・・・に行くと、ちょうど娘の服を購入したところだったので、一緒にPARCOを出た。大須に行くというので、歩いて行った。とにかく人が多くて歩きづらい中をただ歩いた。娘は行きつけの店で買い物をして別れた。我々は何も買わず、また栄に戻った。三越でワインテーブルを買うためだ。
かついで帰らなければならないと思っていたら、ばらばらになって小さな箱に入った形で売ってくれたので助かった。リビングには、昔、どこかの家具店で、やはり10000円くらいで買った金貼りのアールデコ調というのか、小さなテーブルがあるが、これの代わりに使うことにした。リモコン置き場として。
カミさんは用事があるといって別れ、自分ひとり買い物袋を両手に帰途に就いた。
帰ったのは4時過ぎ。洗濯物はまだ十分に乾いておらず、暖房の効いた室内で乾かすことにした。

桜井章一さんの文庫本を読みながら少しうたた寝をし、6時くらいからHDDに録画をためてあったフィギュアスケートグランプリシリーズをDVDにダビングした。来週の全日本選手権の録画のために空き容量を増やすためだ。ダビングしながら、NHKの「白熱の授業」の再放送を観た。マイケル・ザンデル教授が東大で講演したやつだ。本も買って持っているのだが、途中でストップしている。この番組の面白いのは、次々に質問されて自分の考えを述べる聴講者らの意見だ。教授は結論を言わない。結論は無いのだと言ってもいるが、論点の整理の仕方、議論の展開が上手い。まるで筋書きがあるかのように聴講者に意見を言わせている。
一時間、ダビングしながら、これを聴いた。
7時だ。ご飯を食べよう。カミさんが作っておいてくれたチキンカレーを温めて食べた。
美味しかった。

以上