直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2011年01月の記事

やっぱり 浅田真央

録画しておいた名古屋フィギュアスケートフェスティバルを観た。
アイスショーで滑る曲はたいていエキシビジョンの曲と同じだから、早回しで飛ばしながら観ていたら、
浅田真央さんがいつもと違う黒ベースの衣装を着てでてきた。襟元だけ白く、スカートはチュチュみたいなやつで、なんとも言い難いデザイン。前のコーチのタラソワさんがデザインを送ってきたのだそうだ。
ま、それはそれで面白いとして、演技はいつもと同じショパンのバラードだった。
これを観ていて惹きつけられた。今まで何度も観た演技だが、明らかに質が上がっている。
スケートを滑っているというよりも、空中を自在に低空で滑らかに飛び回っていると表現したらいいだろうか。それほどスケーティングが滑らかで、上体、腕、手、指先、足、首、それぞれが滑らかに連動して優美に踊る。トリプルジャンプもダブルアクセルも非常に安定して、演技の一部、振付の一部のように一体化している。
なによりも顔の表情に余裕と楽しさが感じられる。
これほどのスケートを滑ることができる現役選手は他にいないと思う。いや、高橋大輔君とふたりだけか。
他の選手もよいのだが、癖がある。必ず、余計な身体の動きがある。しかし、彼、彼女は、身体の動きに隙が無い。全く自在にコントロールしている。自分の身体の動きが外から見えているかのように、全身の動きや姿勢をコントロールしているかのようだ。

何度も観たい演技というのは少ないが、去年の高橋君の「道」と今年の浅田真央さんの演技はまさにそれである。
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人生は短いぞ

思うたより時がたつのは速い。人生は短いぞ。

NHKドラマ「江」で織田信長を演じる豊川悦司の台詞です。
とよえつの「人生は短いぞ」と眼光鋭くちょっと早口な言葉は先週の予告編から記憶していました。
まさに、人生は短いぞ、です。

だから、やりたいことはやらなければ。
理由の無い心理上の規制、制限を取り払わなければ。
予想だけで相手の考えを決めつけてしまうのはやめなければ。

たいそうなことを言ってますけれども、例えばこんなことです。
ずっと気になってた本。鶴舞図書館にあることはわかっていて、借りてくればいいと思っていたのだけれど。ついつい本屋に入ると探してしまう。そして今日それがあったので、我慢するのはやめて買ってしまいました。本を買えば本棚が一杯になり、収拾がつかなくなる。買っても一回しか読まないならもったいない。趣味のコレクションみたいにどんどん増えて行くのはいかがなものか。

ああ、しかし、手元に置いていつでも読みたいんだよ。
それで買った本はというと
泉谷閑示先生の「私を生きるための言葉」
最近店頭にたくさんおいている「フェイスブック」
です。

また、シャワーヘッドもマッサージ流が出るタイプに買い換えました。ずっと、すこーし欲しかったものです。風呂桶も無かったので、カミさんに断って買いました。

こんなことです。

でもそんなことから始めましょう。
何を誰に対して遠慮してたんですか?

人生は短いぞ。

池田哲学に癒されて

心がくさくさしているときに池田晶子さんの本を読むと
さっと晴れる感じになる

精神性にしか興味が無い、存在の不思議だけを考え続ける、その精神性に触れると
何やかやの身の回りの出来事に振り回されている状況がどうでもよくなる

投げやりではない。振り回されている状態であることが、自分の存在にとってそれほど重要ではないことを認識するのである

そのことに気付くのである。そして、振り回されているその瞬間になぜそのことに気付かないのかと、思うのである

池田さんの文章には、読者を慰めようとか、自分の考え方を勧めようとか、人生こうあるべしとか、そんな言説は全くない。彼女の考えること、そのものを我々に伝えようとしているだけだ。
自分はどう考えていて、どう考えていないかを何度もネタを外に求めながら、いつも一点に戻ってくる。
論理が一徹である
その強さに心意気を感じる
そのように生きればよいのだ
なぜあなたはそのように考えないのか?
と読むたびに問われているようで
ああ、そうですね、そう考えるのが正しいですよね!
そう思う瞬間が心地よいのである。

キリストは、生身の人間の内に神性が宿ることを、自らの生身の身体から血を流して十字架に果てることによって人々に示したのだ
というようなことを確か書いていた気がする
いやどうでもよい
そういうことだ
神は自分の内にある
その神は自分が自分であることをそうたらしめている唯一の主語としての神である
その神によって生きている、存在している自分が、たかが他人や他事からの余計なシグナルに右往左往するのは全く低次なことなのだ
疎かにするということではない
他人を愛し大切にすることも自分の存在にとって重要なことである
それに自分の精神性が左右されないことが肝要なのだ

それができているように少なくとも池田さんは見える
池田さんはそれができているように少なくとも見える(こちらの語順が正しい)

だから癒されるのである

パワハラに動じない心。

水曜日
とても嫌な想いをしました。
会社で上司にパワハラに近い叱責を受けました。
朝、法令/コンプライアンスに関する勉強会で、パワハラ、社内いじめについてのビデオを観たばかり。
タイミングが良すぎるといいますか、これはパワハラであるという認識がよくできました。
上司といっても毎日顔をあわす直属ではないので、連日続くわけではありません。
パワハラに近い叱責
と書きましたが、叱責を受けたのは仕方が無いことです。
自分達のミス、未熟さが原因ですから。
しかし、その叱責の仕方、物言いがひどいのです。

とてもつらかった。早く終わってほしかった。解放されたかった。

あとで冷静になって考えました。
彼は、可哀そうな人だと。
自分がしていることを理解していないのだと。
こういうことをこれまで幾度も繰り返してきたのだろう。
その都度、ついていこうと思う人を無くしてきている。
今、彼は本当は孤独なはずだ。しかし、その理由をわかっていないだろう。

とてもかわいそうな人だ。他人の心がわからない。
人間というものの性質を彼はよくわかっているふうにおっしゃる。
しかし、そこに愛はない。駄目出しだけだ。駄目な性質をよくわかっていて、そのことだけはよくわかっている。
怒りをそのままぶつけることしかできない。能が無い。
そのことで相手がどういう気持ちになるか想像できない。
哀れだ。幾人の人から陰で嫌われているに違いない。
かわいそうな人だ。

でも、私は同情なんかできない。
それよりも私がこんなことで落ち込んでいてはだめなのだ。
人生は今が大事である。生きて死ぬこの人生をこんなことに煩わされるのはもったいないのだ。
こういうときにこそ、あるいは、だけ、悟りの効用があるのだと思う。
普段、何も無い時に、あえて悟りを開こうと思うのは何か無駄で厭世的な思考のようにも思うことがあった。しかし、今回のような外界の刺激に対する構えが重要になるとき、悟りが必要なのだ。

動じない。関係ない。何言ってやがる。
ということすら思わなくてよい真善美にとことん向かう心があれば。

残酷人生論

自分であること

生きて死ぬこと

これが不思議でどうしようもないのだそうだ。池田晶子さんの「残酷人生論」である。

風呂につかりながら、毎日少しずつ読んでいる。裸になって、考えてみる。
正確には、池田さんの考えを考えてみる。その間に、自分として考えてみる。

池田さんが書くことは、何故か腑に落ちる。わかる気がする。これが心地よい。

「自分であること」の不思議。わかる。うん、確かに「自分が、横に居る他人ではなく、自分であること」はいったいなぜだろう。言葉では全く表現できない、この不思議の感覚は、果たして池田さんと同じであろうか。いや、同じであるかどうかは意味のないことだ。池田さんは、この自分ではないからだ。絶対に永遠に同じかどうかわからない。わかるはずがない。その根拠である「自分であること」は実に当たり前で、だから、そのこのがなぜなのか、ものすごくわからない。

このようなことを考えることによって、とても健全になれる気がする。少なくとも、これを考えている間、他の何事よりも大きな問題だからだ。そして、この問題は苦しくなく、楽しくさえある。

「生きて死ぬこと」これは、今まで何度も考えて来た。池田さんの著作の影響が大きいが、他のスピリチュアリズムの考え方にも触れて、その大きな違い、全く比べようもないほどの立ち位置の違いを両方とも自分に取り込みつつ、行ったり来たりしている。

今思うのは、「自分であること」と「生きて死ぬこと」の謎は根源的には全く同じだということだ。

説明のしようがないが、そう直観されるのだ。

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ところで、「残酷人生論」の表題には惑わされそうである。人生が一般的な意味で残酷なわけではない。
また、この本は人生論なんかではない。それは読んでみればわかる。池田さんが書いていることはすべからく哲学だ。

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「神」の章に入った。
池田哲学で「神」とは。神社の神ではないし、キリストの神でもない。
自分が自分であり、生きて死ぬことが今絶対であり不思議であり、したがって、そうならしめていることを提供しているものがあるとすれば、それが神である、と私は理解した。
ああ、しかし、言葉にしてしまうと思っていることとはだいぶ違う。どれほど、表現というのが難しいか。思い知らされる。絶対に誤解される。
ま、とにかく、続けて読みつつ考えよう。言葉にしてみて自分の考えを確かめ、違和感を覚え、また考えるわけだ。

僕のショパン

桃雪琴梨さんのコミック「僕のショパン」
リストがショパンの想い出を綴るという設定で書かれた、BLっぽいコミックです。
フランツ・リストがフレデリック・ショパンについての本を書いたということをずいぶん前に紹介しました。
実は、そのネタは、桃雪さんによる情報で、それをカミさんがネット上で知り、ネット古書店で翻訳本を見つけたのでした。
桃雪さんのショパンに関する取材調査に基づいたコミックで、一話ごとに簡単な解説がついています。
真面目な音楽ファンの方にはこのコミックに好き嫌いがありそうですが、
リストの「ショパン」を読んでからこのコミックを読むと、「結構、そのままだったりして」と思わせるところがあります。
シューマンやメンデルスゾーンのキャラクターはともかく、ショパンとリストのキャラクターはデフォルメが過ぎるかもしれませんが、デフォルメが成り立つということは逆説的に真のフォルムを突いているとも言えましょう。
今もちょうどカミさんがピアノレッスン室でノクターンを練習しています。
どうしてショパンの曲には心を突いてくるものがあるのでしょう。どの曲にも訴えるものがあります。
ノクターンを聴いていると、このことよりほかに重要なことがあるのか、と迫ってくるようです。
このこと、とはどのことか。それはわからないけれど、他のことの悩みの優先順位はどんどん下がってしまいます。

敬愛なるベートーヴェン

年末に録画しておいた映画「敬愛なるベートーヴェン」を観た。
交響曲第9番の初演4日前からストーリーが始まる。写譜をすることになった音楽学校の女学生アンナ・ホルツとベートーヴェンの音楽を通じた精神の交流が描かれていた。
映像と役者の表情と音楽が一体となった圧巻のシーンは、第9の第4楽章の合唱の中で神的というか天上的な旋律を歌う部分である。ベートーヴェンは難聴でまともに指揮ができない。アンナ・ホルツがベートーヴェンから見える場所で陰で拍子をとり、それを見て指揮をするという、映画でしかあり得ないシーンではあったが、二人が見つめあい、旋律に酔いながら恍惚とした表情で指揮する姿はエロチックでさえあった。
演奏自体も素晴らしかったし、カメラワークも素晴らしかった。このシーンまで見るだけでも一見の価値のある映画だと思う。
しかし、それでは終わらない。その後の二人の会話の中に聞くべきものがあった。

芸術家とは何か? 自分を信じる者だ

音楽は内臓から絞り出される

正確ではないがそういう言葉があった。自分を信じる、つまり、確信によって生きる者。これは池田晶子氏が残酷人生論の中で「わかるということ」についての論考で述べていたことに似ていて興味深い。
そして、内臓という話。カミさんが言うには、音楽を演奏するとき、一度頭を経由して弾くと失敗するのだそうだ。腹で弾く?と聞くと、そのとおりだと。

頭と心と身体、この3つが人間を構成していると考える人がいる。その説に賛成だ。そして
心は身体と密接に結びついている。音楽を奏でるには最初は頭も必要だ。だが、本番で弾く時には身体で心を表現するのであろう。自分は演奏者でないから偉そうなことは言えないが、身体でぶつけてくる(決して乱暴に激しくという意味ではない。こめる、という意味)演奏には心打たれる。一曲一曲に想いが詰まった演奏は素晴らしい。演奏は演奏会で生で観るのが大事だ。観なければ伝わるものも伝わらないと思うのだ。彼、彼女の演奏する身体の動き、顔の表情、息遣い、それらすべてと、奏でられる音、音楽そのものとが観る者の五感を通して統合されて伝わり、その「音場」を体験するのだ。そこに感動がある。
だから、プロになってレパートリーも多くなって、あまたのリサイタルやツアーでいろんな曲を弾きまくっている人達の演奏の中には、伝わってこない演奏もあるかもしれない。アンコールならいい。けれども、一曲一曲にこめて、腹から弾く演奏を毎度こなすのは大変なことだと思う。
聴く側にとっては一期一会である。そこんところをわかっている演奏者に多く出会いたい。

伊達直人

小学校時代、テレビでタイガーマスクを見ていた。
大好きな番組のひとつだった。特に、最終回は忘れられない。

まず、虎の穴の一番強いタイガー・ザ・グレイト(全身白のタイガー)の圧倒的な強さに負けそうになる。
恐ろしい反則により、マスクを取ってしまうはめになる。ああ、とうとうタイガーは伊達直人だったと子供達に知れてしまう。そして、そこから伊達直人は、敵を圧倒する反則技を繰り出し、息の根をとめてしまう。(死んでないと思うが、子供のころはタイガー・ザ・グレイトは死んだと思っていた)。
正体がばれてからの爆発するかのような反則技を見て、子供心に快感があった。本当はいけないことなのに、タイガー・ザ・グレイトがやられていくところに快感を覚えた。

そんな小学校時代、僕は、友達の「おおばくん」から、「なおとにいちゃん」と呼ばれていた。同級生なのに、そう呼ばれていた。
だから、今、施設の子供たちに伊達直人の名前でランドセルを贈ったことが話題になって昔のことを思い出した。この伊達直人さんは、絶対に善い人だ。それだけはわかる。寄付すること自体で善い人だと思われるかもしれないが、善くない人だって寄付はすることもあろう。しかし、伊達直人の名を使ったところに、この方の善さがわかる。うまく説明できないが、漫画のキャラクターの名前を使ったところに、この方の心の清々しさを感じる。

さて、ここにいる「なおとにいちゃん」は寄付をしないのですか???

まぐろ場

近くに新しいお店が2軒オープンした。
1軒はスリランカカレーのお店。こちらはそのうち行ってみようと思っている。ランチはナン食べ放題。

もう1軒に行ってみた。

まぐろ場

一本釣りまぐろの料理を出すという。夜はまぐろしゃぶしゃぶがある。
昼に行った。丼物がメインで、吸い物と茶碗蒸しと漬物がつく。

一番高そうな海鮮丼を食べた。1340円なり。ご飯の上に乗っていたのは、
・寿司ネタにしたら2カン分くらいありそうなマグロ赤身2きれ
・タイ2きれ
・いくら
・サーモン2きれ
・中トロ2きれ
・びんとろ1きれ
・中落ち?のちいさいのが4きれくらい
どれもいい味だった。脂の乗った新鮮なお刺身が十分すぎるほど乗った丼で、満足した。

商店街沿いでなく、少し横道に入った場所にあって、普通には見つけられない。もったいない。
オープンして1カ月も経ってないせいか、勘定も慣れてないふうであったが、初々しくて好感を持った。
板前さん本人が勘定してくれた。味はどうでしたか?と聞かれた。少し恥ずかしげな笑顔で聞かれて、もちろん「美味しかったですよ」と答えた。白い脂の乗った刺身は何かと尋ねるとビントロ(びんちょうまぐろのとろ)と教えてくれ、それと中トロが美味しかったと答えると、板さんは喜びの表情だった。
さて、こういう店はずっと残ってほしい。

自分は今どこにいるのか

九州大学に行って、帰ってきた。福岡空港から飛行機に乗り、中部国際空港に降りた。
昼間で天気もよく、珍しく前方の窓際に座れたので、窓の外の景色を楽しむことができた。
ほとんど全行程中、地上が見えた。山、川、農地、家、グラウンド、池、道路、その他すべて見えた。
今自分は地上何千メートルかの空にいて、時速400kmで飛んでいる。下には本当にさまざまな景色が見える。それはゆっくり動いていく。自分は今どこにいるのか、とふと思った。地上ではなし、飛行機の中だが、上空に浮いて動いている。自分は今どこにいるのか。何県の何市にいるのか。上空なので関係ないか。いのちをひこうきに預けている。他のことは何もできない。座っているだけ。そんなんでは、どこにいるということは全く意味が無い。どこにもいないのと同じである。
しかし、今、下の景色、雪がところどころ積もっている山並み、しわしわの山並みと谷を流れ、くねくねとうねる川。これを見て、ある意味、その景色の美しさを感じている自分は何者か。どこにいるということは関係なく、見ている自分があることは確実だ。これは何か。目と脳だけの存在か。それとも心か。心で見ているのだと思う。なぜか、それは集中してワクワクしているからだ。その心はどこにあるのか。身体がどこにあるのかは意味が無い。確かに飛行機の中に身体はある。そのこと自体は「どこにいるのか」ということを地球の所番地で考える上では意味が無いが、そこである景色を見ている心としての存在は意味がありそうだ。世界を認識している自分がある。自分が世界なのか。たまたま身体が空の上にあるが、今、地上に居て景色を思い出しながら世界を同じように認識している。ということは、自分が居る所番地は世界の認識においてあまり意味が無いことと言える。
自分は今どこにいるのか。それは結局考えても意味が無い。けれども、どこにでもいられる。従って、行けるところにはどこでも行けばよいのである。
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