直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2011年02月の記事

続 宇宙

宇宙を客体として観る時に想う不思議

ハッブル宇宙望遠鏡で撮られた銀河や光るガス雲は物質宇宙の中の一部分であるが
これが実に美しい ⇒ 例えばそれらを紹介するサイトがある
http://www.spacetelescope.org/images/archive/top100/

しかし、一部とは言え、この宇宙の姿が美しいのは何故であろうか
すくなくとも美しいと思うからサイトで紹介しているという面はあるだろう
では、醜いと感じる宇宙の姿の写真が撮られたことがあるだろうか
おそらく無いと思う
根拠は無いが、あろう筈がない

銀河の姿や光るガス雲の写真は、それがそれであると知らなくて宇宙に関する予備知識のない人が見たらどのように感じるのだろうか
きれいな色の複雑な模様? それとも抽象画? いづれにしても美しい思うことには変わりないだろう

銀河とはとんでもないスケールの構造である
遠くから見たらそれが美しい模様に見えるのである

では太陽はどうか

例えば、このサイトに特殊なフィルターで観た太陽の写真が掲載されている
美しいと思う

では地球上の自然風景はどうか
美しい風景はいくらでもある
というより自然風景はどれも美しい

小さいものはどうか
昆虫をクローズアップした写真を見る事がある
顕微鏡や電子顕微鏡でμm、ナノメートルの世界を見る事もできる
そこに観るのは複雑であったり規則的であったり様々だが、ある種の構造であり、
やはりどれも美しい

こうしてみると、人には直接見えないスケールの構造までも、美を備えているということが言える
あるいは、すべての構造は人間には美しく見えるということなのかもしれない
この世の中のすべてのものは美しいということになる
美が充満したこの世界が「宇宙」であり
「宇宙」を美しいと感じる自分に立ち戻る

「自分」は果して美しいのだろうか
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宇宙

宇宙

宇宙という言葉に何を想うか
娘に聞いた
お父さんと答えた
次に思うのはプラネタリウム
なぜ宇宙がお父さんかというと、僕が大学で宇宙物理学を学んでいたことを母親から何度も聞いていたからに違いない
僕は何を想うか
銀河系を銀河系の外から見る風景が浮かぶ
そして次に超高速で真っ暗な空間を貫いていき、まわりの星たちが後方に飛び去っていく風景
それは宇宙の果てを追いかける超高速で果てしない旅
他の人はどうか
宇宙と聞いて何を思い浮かべるか

銀河系を思い浮かべたとき、銀河系の中には、その端のあたりに我々の太陽があり、その周りを地球が回っていて、その地表面の一点に自分が立っている、ということまで果して意識したか
宇宙は客体か、それとも自分を含む銀河系のことか、それとも、自分を含む「すべて」か

言葉の定義の問題ではない
自分を含む「すべて」というところの「宇宙」を観ずる、その感じを実は先日一瞬味わった気がした
その感じといっても、おそらく、その感じの縁に立ったか足をかけたかくらいの儚さであったろう

「すべて」という言葉では軽すぎるほどの、何もかも充満した「すべて」である
例えば、自分が認識し得るものすべて、知る所のものも知らざる所のものも、認識が可能なものも、認識できないものも、星も、星間塵も、届くも届かざるも、過去も未来も無い、今、ここにあるすべて、全部
想いも、眠気も、快楽も、苦しみも、ありとあらゆる想定内も想定外も、経験も未経験も、あなたのも
「すべて」

これを概念でなく、迫って来る充満として、そこにどっぷりと浸かって嵌っている自分を中心に「感じる」その感じをあの時確かに味わった気がするのだ

このような「すべて」を「宇宙」と呼ぶことにする
英語ではSPACE? それとも UNIVERSE? 専門家ではないのでわからないが、SPACEであれば、それは、無限の入れ物として「宇宙」を捉えているのだろうか
入れ物という考えも悪くない
しかし、それを入れている空間としての捉えではなく、詰まっている、充満している「すべて」がやはり「宇宙」らしくてよい

四大陸選手権

フィギュアスケート四大陸選手権が終りました
何度見ても高橋君の演技は感動的です
そして浅田さんの演技も素晴らしいものでした
あっという間に終わったと思うのはこのふたりです
長洲さんも今回のフリーは素敵でしたし
安藤さんの落着いた安定した演技に格の違いを感じましたし、素人にはわからない深い部分で自分と戦っていることがインタビューでわかりました
安藤さんは以前と随分変わったように思います

一番印象に残ったのは浅田さんのインタビューの言葉です
(世界選手権に向けて)一日も無駄にせず
という言葉です
まさに修行僧のような心の持ちよう
マスコミや芸能界は彼女を可愛いアスリートとしてもてはやしているようですが
そうした協会を通してのPR活動と自宅生活と学校生活意外はスケートの練習しかやってないのではないでしょうか
一日八時間も練習していると聞きます
それでもなお目標に向けて一日も無駄にしたくないというその本音には凡人はかないません

世界一をすごいと誉めるのはたやすいけれども世界一になるための努力はそうそう誰にもできるものではないでしょう
結局、華やかで精緻な演技の裏にあるその超人的な努力と根性に魅入られているのかもしれませんね

誕生日だからと言って

誕生日だからといって必ずいいことが起きるとは限らない
誕生日でも良くないことがおきることはある
しかし出来事は誕生日とは関係が無いはずなのだ
でも今日の出来事は誕生日だったからなのかもしれない

良い事
時々散歩する地蔵川沿いを歩いていて久しぶりにカワセミを見つけたこと
娘が誕生日プレゼントと言って珈琲カップをくれたこと
DSC00103_convert_20110220144455.jpg

良くない事
車で外出しようとしたらエンジンがかからなかったこと
予定が台無しだと思って思案した
ライトはつくしカーナビも動く
バッテリーあがりではない予感がしてディーラーに電話して助けを求めた
状況を説明したところバッテリーが弱っていると言う
近くにチャージさせてもらえる知人もいないので整備士に来てもらうことにした
結果はやはりバッテリーの消耗だったのでとりあえずチャージしてエンジンをかけてもらったものの
交換した方がよいというのでディーラーに行って交換してもらった

ここからが良い事
いつもの営業さんが待っていてくれた
今日は販促日だったので来店者への粗品が店内にいろいろ置いてあった
真っ先に彼はミスタードーナツ5個入りを「どうぞ」と持ってきてくれた
あっ、これか、こういうことか、こういう意味があったのか・・・
バッテリーの交換を待ちながらドーナツをもらったことだけの意味かどうか考えていた
もしこの不具合が夜遅くにおきたらどうだったろう
月曜日の夜遅くに娘の塾帰りを迎えにいく
別に車でなくてもよいし動かなければ歩いて迎えに行けばよいが
動かないことをほっておくしかなくて次の休日まで気になってもんもんとしていたことだろう
あるいは次の休日にカミさんがどこかに連れてってくれと言ったとしよう
途中で動かなくなったらえらいことだ
だから今日のように時間に余裕のある時を選んで動かなくなってくれたのだと思うのだ
先週の月曜日の夜の冷え切って雪の降る夜には動いたのだから

今朝は久しぶりに車をきれいにしようと思い立って簡易的ながら洗車したところだ
少しはこの子も気をきかせてくれたのだろうか

無機物ではあっても長年付き合っている機械や道具に特別な想いを持つのはなぜだろう
何の欲望も表明できない彼等こそ神のような存在であって
迷いの中に居る僕の心を見透かしているように想像してしまう

存在について考える
自分が存在している(と考える)ことの不思議と池田晶子さんは言うが
私が見て触っている無機物達の存在も
認識としては私の存在の一部なのである
私が居なければ、あるいは私が考えなければ、彼等は存在しないのだから(私にとって)
だから彼等に意志のようなものを認める心の働きが生ずるのも当たり前なのかもしれない

さあ今日は誕生日だから好きな食べ物を作ってくれるというので
いろいろ考えた末にお願いしたのはカレーライス

おととい仙台に出張に行ってお土産に買ってきた牛タン厚切りをこのカレーの上に乗せて見ようかと娘が提案した
いいね!
そういう会話もいいね!

折角なら高級食材の夕食にすればよいのにと普通は考えるだろう
しかし僕はなんでも美味しいと思うのだ
美味しいと言われるものはなんでも食べて来た
言う程徹底的にグルメというわけではないがそこそこ興味を持ってお金を使って食べて来たつもりだ
それで思うのは味にはいろいろあってバランスの善し悪しもあるけれども
やはり食べ物はありがたく美味しく
そして食べる側の構え次第であるということがわかってきたのだ
白状しよう
僕は1970年代に公立の小学校、中学校で給食を食べて来たが不味いと思ったことは一度もない
多くの人は給食は不味いと言った
どうして不味いと思うのかわからなかったが問う事も無かった
不味いのではなくて嫌いなだけなのだろう
食事のせいにするなんてずるいよ君達(と今なら言うかも)

今日はカレーライスをとびきり美味しくいただきたいと思う

白い猫

通勤経路に鶴舞公園を取りこんでから久しいが
最近コンパクトデジカメを買って持ち歩き
気に入ったものを撮ることにしている

鶴舞公園には野良猫が数匹いて
だいたい毎日見かける
このところ全身真白の猫を見るので是非写真に収めたいという想いがつのっていた

想いが先行して彼女(白い猫:雄か雌かしらないが)がとても可愛らしい対象物として
暫くの間自分の中に位置づけられていた

それでとうとう先日写真を撮ることができたのだが
其の写真を見てみると意外にそれほど美人ではないように思われて妙な気分である
DSC00083_convert_20110219184542.jpg

何を期待していたのか
後から考えるとよくわからない
宝探しのようなものだったのかもしれない

ま、それでもカミさんは「カワイイじゃない」と言ってくれている
その昔カミさんの実家では「ジャック」と名付けた猫を飼っていた
雑種だったがシャム猫系でそれなりに美人だったと思う
僕は動物に触れるのは苦手で抱いて可愛がるというようなことはしない質だが
ジャックのほうから寄って来て胡坐をかいている僕の膝の上に乗って来ることが多かった
可愛がりたいカミさんや娘を尻目にこちらに来るものだからうらやましがられた
そんなことで僕には動物に好かれる何かがあるのかしらんなどと思っていたものだが
最近はそういう機会がないのでわからない
野良猫はたいていこちらを一瞥して逃げてしまう

そういえば思い出した
沖縄の離島で座間味島というのがあるが
村内に猫がたむろしていた
こんな感じである
DSC01224_convert_20110219185320.jpg

朝の虹?

2月14日朝 空に虹のようなものが出ているのに気がついた
DSC00075_convert_20110219181641.jpg
太陽がちょうど雲に隠れていて、その雲はそれほど厚くはないので少しまぶしいくらいの明るさであり
その両サイドの雲に写真のように縦に虹色のスジがあらわれていた

会社を行き帰りしている毎日の中で
空を見上げることのある日と
景色を観る事もなく過ぎる日とがある

このような現象に気がついてしかも写真に収めるようなことができる日を
これからどんどん増やしていけたらと思う

折角生れてきたのだから
折角この地に住んでいるのだから
折角今ここにいるのだから
折角目というものがあるのだから
折角耳というものがあるのだから
捉えて嬉しい美なるもの善なるものを
その瞬間瞬間に確かに捉えて感じて生きたいではないか

思索もよろしい
自分自身に還る思索ならよろしい

他事に捕われて迷いの中に埋没しないことである

私を生きるための言葉

泉谷閑示先生の「私を生きるための言葉」を読み中である。
難しい箇所もあるが、共感を覚える箇所もある。

本書が言わんとするところは、またの機会に紹介したいと思う。

エピソードとして面白かったトピックスに次の様なものがある。

サッカーの中田英寿さんや野球のイチロー選手がマスコミのインタビューに対して思っていることが紹介されていた。それは自分が普段思っていることに通じていていちいち納得した。
実は、例えば、中田さんが現役のころ、インタビュアーのつまらない質問に対し苛立ちながらつっけんどんに答えていたのを何度か見ていて、彼の態度にもいい印象を持てなかった。しかし、彼には一貫してインタビュアーに対するごく真っ当な要求事項があったことが本書の紹介でわかった。
インタビュアーの質問が不適切、曖昧であることを嫌っているのだ。嫌うというより、しっかりしろよ、と注意しているのだ。本当に何を聴きたいのかわからない質問。プロのインタビュアーであれば、勉強しろということだ。試合の内容を分析し、聴衆が何を聴きたいのかを考えて、適切な言葉で質問するべきである。
「今日の試合は2-2でしたが?」といった質問はよくある。「で?」と聞き返したくなるのは中田さんや私だけではなかろう。何を聴きたいのかわからない。どのような回答を期待しているのかもわからない。
フィギュアスケートをTVでよく見るのだが、インタビューの場面はあまりいい感じがしない。試合前の気持は?試合中に何を考えていたか?得点を観ての気持は?明日はどんな滑りを見せてくれるか?ファンにひとこと! こうしたお決まりの質問には何の意味もないと思う。どきどきした。緊張していた。頑張ろう。そんな答えしか返ってこないのは容易に予想される。

どうしてこのような質問の弱さが日本人に多いのか、その分析が本書に紹介されている。
自分がいつも感じている事が裏打ちされる例が満載の本である。

本当はもっと気になる部分もあるのだが、もう少し考えてから紹介したい。

ストーリーとしての競争戦略

楠木建著「ストーリーとしての競争戦略」東洋経済新報社を読んだ。

製造業の技術系サラリーマンで、普段は材料研究のグループを率い、次の打ち手をどうしたらよいか日々悩ましいマネージャという立場にいるので、掲題のような本を見ると手が伸びてしまう。

普段週刊誌などは床屋で順番待ちしている時ぐらいしか読まない。で、年末に床屋で週刊ポストをぱらぱらめくっていた時に書評が載っていた。どうも面白くてよく売れているらしいので、気になって会社の図書室で買ってもらったのである。

実際、面白かった。優れた戦略というのは、聞いていてストーリーとして面白いというのが著者の主張である。面白いストーリーとは何かを教えてくれた。本としてのストーリーもよかったので、500ページもあったが飽きずに読めた。さて、中味は他のブログやネット書店の口コミを見てください。

ひとつだけここに書いてみたいと思うことは、よい戦略のコンセプトは「本当のところ、誰にどのような価値を提供するのか」がはっきりしていて「誰に嫌われるのか」も明確だということである。例えば、スターバックスは、仕事で疲れた人に「第3の場所」(会社でも家でもない)を提供することだという。だから、30分くらいはゆっくりほっとする場所でなくてはならない。そこからお店の形態が決まる。ドトールコーヒーは違う。忙しい人に、回転よく飲み物と軽食を提供する。だから、ドトールに行くような人はスタバには行かない。忙しい人には嫌われることを良しとしているのだ。

このことはビジネスだけに限らない。芸術もそうだ。万人受けすることをやっても失敗する。誰にどういう価値を提供するかを定めて、それが心地よい人にだけわかってもらえばよい、くらいにしないと成功しないだろう。さらに日常生活全般でもそうだ。自分の行動、言動の目的も同じである。自分がやりたいことがあれば、それが目指す価値が明確ならばやればよい。それが特定の人の関心を得なくても。あるいは嫌われてもである。
他人の目を気にしすぎると何もできないか、つまらないことだけやって一生を終ってしまう。
この本を読んでいて、ビジネスではなく、人の生き方に想いが飛んでいくから面白い。
同時並行に、泉谷閑示氏の「「私」を生きるための言葉」や池田晶子氏の「残酷人生論」を読んでいたせいかもしれない。

JUJUランチ

家の近くにあるイタリア料理のJuJuが最近ランチを再開したというので行ってみた。
月、木、金しかランチ営業しないので、祝日で会社が休みの時を待っていた。
開店のころにやっていたパスタランチを思い描いていたら、そういう軽いものではなくて、
2000円~3000円のコース2種という趣向。

もう10年以上前になると思う。初めて行った日のパスタランチで、スカンピのパスタをいただいた。
これはもう、今まで食べたパスタの中で最高の部類に入る。スカンピ(手長エビ)のダシに魅了された。こんなパスタをランチで1000円くらいで食べられるとは何という幸せ、と思って、それ以来、幾度となくこのお店に通っている。

さて昨日のランチはしっかりと食べ応えのあるコースで、結局夜ごはんを食べずに済ませた。
前菜、パスタ、メインは4種類ずつからのチョイスだった。
前菜は、レバーペースト
パスタは、野菜たっぷりのトマトソースのスパゲティ
メインは、鹿児島黒豚のグリル
を選んだ。
このほかに、パンとフォカッチャ、デザート、ドリンクがつく。
JuJuのフォカッチャは塩味で、オリーブオイルをつけて食べるのが美味しい。

どの料理も美味しくて、ゆったりと時間をかけていただいた。
お供はカミさんと娘。娘はここのチーズを使った料理が大好きで、スパゲティの代わりにゴルゴンゾーラチーズのリゾットを食べた。少しつまんだが、チーズのソースは最高だった。夜のメニューにゴルゴンゾーラチーズのニョッキがあって、毎度注文するのだが、リゾットも美味しかった。
メインの豚肉も、分厚くて、噛み応えと旨味があって十分満足できた。
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グルメ紹介サイトで口コミを見ると、料理が出て来るのが遅いというコメントもあるが、あえて遅い店だと思うがよろし。ほんとはワインをちびちびやり、気の置けない友人や家族とゆーっくりと食事をするお店なのだと思う。

4-5月に近くに新店舗を構えるとのこと。名前も dal Babboに変わるそう。今よりさらにわかりにくい場所になるけれど、さらに自宅から近くになるので我が家にとっては嬉しい限りだ。

こういうお店がひとつでもあるということは幸せである。

是非に及ばす

織田信長が本能寺で言った言葉「是非に及ばず」の意味が知りたかった。
明智勢に急襲された場面を先日のNHK大河ドラマ「江」で観たが、
「是非に及ばず」
「人生50年」
などの決まり文句を豊川悦司が現代調に決めていた。 かっこいい! おっちょ、将軍!

さて、人生50年のあとに「そろそろ潮時か」みたいな台詞を言ったがこれはちがうだろうな。
「是非に及ばず」の台詞は、小姓たちが、どうも明智光秀の軍勢が攻めてきたみたいだと報告した後の言葉だそうだ。
今まで私は、「仕方が無い」というあきらめの言葉だと思っていた。しかし、どうも違うらしい。
「明智か、そうでないかはどっちでも構わん。とにかく戦うぞ」という意味で言ったのだそうだ。
想像してみるに、夜の闇に紛れて襲ってきた連中が、すぐに明智の軍勢であるかどうかなど、確認できないではないか。それに、とにかく襲われていて生きるか死ぬかの時に、相手が誰かといろいろ考えてたってしょうがない。誰が来たかなんてどうでもいいことだ。とにかく戦って生き残るぞ! というのがもっともらしい。

なんとなく気持ちがよい。すっきりした解釈である。

このネタは、どこかの方のブログで読んだが、どなたか記録しておらず、申し訳なし。
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