直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2011年05月の記事

明日からアメリカ

明日からアメリカ出張です。土曜日の夜に帰ってきますが、あまりに遅いので東京一泊して帰ってきます。
この出張の前後にざわつくいくつかのことがあります。
気になること:
・太陽活動が活発化していてM級のフレアが一昨日と昨日発生していること
・その影響で地磁気の異常度合いが大きいこと
・ただただ、自分が日本にいない間に家族の身に降りかかる震災などが起きない様に祈ること
楽しみなこと:
・村上春樹のねじまき鳥クロニクルの第3部を春日井図書館で借りている人が期限を守る人なら次の日曜日には返されて予約した自分に取り置かれることになること。早く続きが読みたい。
・6月1日に、上橋菜穂子さんの「天と地の守り人」全3巻の文庫本が発売されること。文庫本が出るまでは既刊の大型本や図書館にある本に浮気しないでひたすら待つことを心に決めて、ひたすら待った。とうとうその日がやってくる。何と幸せな日が訪れる事でしょう。一週間続くかどうか・・・。アメリカから帰ったらまず購入すべし。
・6月3日に、スティールボールランのコミック最終刊が発売予定。まず、手っ取り早く読めるこちらからきっとやっつけることになるだろう。その次に天と地の守り人か、それともねじまき鳥か・・・

というようなわけで、自分の周りは他にもいろんなことが波乱万丈なのですけれど、それを隅に追いやって好きな本を読み続け三昧で、これでいいのかしらん。昨日も耐えかねて、図書館で村上春樹の「スプートニクの恋人」文庫本を借りてきてしまった。

にしても、アメリカ行きはとにかく疲れることと眠気に耐えなければならないことと食事の時間が狂うことがとにかくつらいので、仕事をきっちり片付けて少しでもゆとりの中で身体を休めながらやりすごしてきたい。
帰宅したらすぐにカミさんが出るサロンコンサートにも行きたいし。その夜はマンション管理組合の臨時総会に出なけりゃならんし、その間に図書館にいかにゃならんことになりそうだし。

頑張って乗り切るしかない。(ああ、そうは言いながらも往復の飛行機の中で映画がたくさん見れるのも楽しみで・・・これも密かな楽しみで・・・いつ眠ればいいんじゃあ!)
スポンサーサイト

待つ: ねじまき鳥クロニクル

続いて、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいる。
全3巻のうち2巻まで読んで、最終巻を借りている誰かが図書館にそれを返却するのを待っている。

ここにストーリーを書く気はないが、面白くどんどん読めるということは感想として書いておく。
村上作品に常に感じる、自分とは隔絶した人間達。「人間の造り」が根本的に違う。けれども、それを脇に置きつつ、物語の進行に引き込まれる。現実世界に非現実が混ざり込んだちょっとずる賢いパターン(羊をめぐる冒険からかなあ)に魅せられるのだ。

平成6年に書かれたこの小説には、今のところ(2巻までのところ)、携帯電話は出てこない。17年前だから当たり前か。従って、登場人物の連絡手段は、固定電話か手紙である。とにかく、電話が鳴るのを待つか嫌がるかであり、連絡を取りたい人に、当たり前のように、簡単には連絡が取れない。携帯電話が普及していない時代の電話を「待つ」、連絡を「待つ」ということが日常生活という物語を今とは相当異なったものにしている(逆だ。今が相当異なっているのだが)。今、携帯電話というものが突然世界から消えてなくなったら、待つことのできない多くの人が精神の異常をきたすに違いない。だから、そういう人達が今「ねじまき鳥」を読んだらピンとこないかもしれない。物語の時間感覚がわからない可能性がある。
なので、物ごころついたときから携帯電話があった若い人達がこれを読んだらどう感じるだろうか。

もちろん、携帯電話があることの意味は別にもっと大きなものがあり、「待たなくて良い」というよりも、「他人と常に繋がっている」ことの方が意味があるらしい。本論は他に有名無名のいく人もの人が書いているからここで述べても真似っこになるだけなので書かない。

「待つ」間にたっぷりの時間を使って考えることができる。ねじまき鳥は主人公が「考える」ことの多い小説だ。それを読みながら僕もいろいろなことを考え、いろいろなことが少しずつ自分の中に浸みこんでくる。
ここにこんな文章も書くことになる。

ピアノ調律師が書いた「美音の架け橋」

ピアノを弾く人にはお薦めの本である。
ピアノを弾かなくても、聴くだけの人にも読んでほしい。

ピアノ調律師であり、ピアノ販売店を経営しているという松永正行さんが、スタインウェイアカデミーの技術認定試験を受けた時の体験記である。約2週間にわたり行われた認定試験の様子が、オフの時間の出来事や、かつて自分を指導してくれた調律の師匠から教わったこと、共に音を追求してくれるピアニストとの活動、などが挿入されながら仔細に語られている。
ピアノの構造や整調、整音、調律のやり方が細かく書かれているので、素人にはわからない部分も多いが、それでも写真もあるので何とかついていける。木とネジとピアノ線とフェルトでできた動力源の無い組み立て機構なのだから、ブラックボックスは何もない。本来そんなに難しいものでは無いはず。
一歩下がって、技術の内容は理解できなくても、いかにピアノの音作りが大変かがよくわかる。とても常人には勤まらない仕事だと思うのだが、それでも正解は無い世界だということも、この方の音を追求する意志や行動からよくわかる。
ミケランジェリがどのくらいすごい演奏技術を持っていたかということや、クリスチャン・ツィメルマンが自ら調律も手掛ける契機や音への拘りを講演でどう話したかも紹介されていて面白い。単にピアノという楽器単体ではなく、ホールの音響も考慮に入れた音の調整をどんな風に考えて、ピアニストと調律師が向っているのか、・・・すごい世界だと思う。
一方で、ホール専属の調律師との関係の難しさやピアノ業界の裏事情も少し書かれていて、一介のサラリーマンには物珍しい世界を垣間見る事が出来た。とは言っても、妻がピアノを弾くし、懇意にしている調律師の方は名古屋のヤマハの第一人者であるので、人ごととは思えない。

ピアノを弾く人が音を徹底的に極めたいならば、ピアノの構造を知り、タッチとペダルと音色の関係をやはり理解すべきだろう。何となくではなく、メカニズムとして理解し、実験しながら音の出し方、出方を自分のものにしていく。そういうつきつめ方をしたいなら、すぐれた調律師と出会い、共に音作りをしていくのがあるべき姿だということをわからせてくれた。


あのころと似ているか 震災復興

前回、あのころはフリードリヒがいた について書いた。読んでいてふと感じたことを暫く忘れていたが思い出した。
それについて書く。
1938年の章。
街のユダヤ人が経営する文具店や医院はすでに街のドイツ人の何人かによって荒らされて廃業していた。それらを横目に主人公の少年は、さらにユダヤ人の集る寮を襲おうとしている一団に出くわした。少年は、彼等についていき、寮の入り口扉をたたき壊すのを見、壊れた入口から中に入り、彼等が各部屋の家具、調度品を破壊し、高価なものを盗みなどするのを目の当たりにし、そして、ついに少年もその昂奮に支配され、自ら金槌を手に、部屋を破壊し始めた。物が壊れる快感を感じながら、破壊を続けた。
この本は、そうした行動についての善し悪しの判断をつけようとはせず、馬鹿正直に冷静にその時の心情と行動を描いて見せる。
少年が暴徒の空気に巻かれていくその姿を見た時、僕はふと震災以後の最近ここ数カ月の日本を覆う人々の一方向性のようなものに似たものを感じた。震災復興を皆で頑張ろうということをいささかも否定するものではないが、特にマスコミや芸能界が「頑張ろう日本」の大合唱になっていて、何事もさぼってはいけない風な雰囲気に浸されている感覚に弱冠の違和感があったことに、このナチスの喧伝に浸されて暴徒と化すドイツ人民衆の異常な行動が結びつく感じがしたのだ。うまく表現できないが。
そんなことを感じて以降、表現が難しかったせいか深く考える事もせず忘れていたが、今日、カミさんが気になる新聞記事を教えてくれた。
それは、昨日5月17日の中日新聞(東京新聞も同じか?)夕刊に寄せられていた哲学者 中島義道氏の寄稿である。そこには、「頑張ろう」の言葉が目立ち、被災から立ち上がる人達の美談が語られ、いわば「多数派」「普通派」による言葉の暴力になっている。実際には津波で家族が無くなり、元気を出しようにも出せず頑張る気力もない人や、もともと勉強が好きでなく教科書が流されてほっとしている子供もいるかもしれない。(そうした少数派?もしくはマスコミで紹介出来ない派は多いかもしれないが、)なんでこんなに不幸なのか、じっくりと自問してみることの重要さを中島さんは訴えている。
この寄稿と自分のフリードリヒの物語を読んで感じたナチスドイツの異常な民衆の行動とは違うことを言っているかもしれないが、一方向性に押しやろうとする大きな流れの暴力という点で一致するのではないかと思われる。

ただ、ただ、現在の日本は決定的に違うのは、その大きな流れを起して、また浸っているのは実はマスコミに触れている一部の人達だけのような気がするのだ。振り返って周りを見れば、ここ、愛知県では、やはり自分達の生活を今迄通り楽しもうとする普通の人達が圧倒的に多い。会社の様子も変わらなければ、飲み会に行ってもいつもどおりの馬鹿話。そうは言っても心のどこかで震災被害の人達を想ってはいるだろう。それくらいの良心はあるはずだ。そして機会があり、その時がくれば、自分にできることを行動するに違いない。
決して、「頑張ろう日本」に簡単に同調することなく、ひたすらに自分を生きていく。

話しが収まらなくなってきた。空疎な「頑張ろう」ではなく、一人ひとりの事情に立ち返り、弱い人はしばらくは弱さをさらけだしてもよい、それも認めて、出来る人は頑張って、出来ない人は助けてもらって、何とか有機的に復興の流れに乗っかって行ってもいいじゃないか。文句を言いながら喧嘩をしながらでも。そういう自由がほんとは大事なんだろうな。

あのころはフリードリヒがいた

あのころはフリードリヒがいた
今はいない(死んでしまった)
同じアパートで同じ年に生れた仲良しのユダヤ人の少年フリードリヒ
彼はいない
第二次世界大戦中に彼は亡くなり、1961年にドイツ人作家ハンス・ペーター・リヒターによって書かれた
彼の少年時代の実話なのだろうか
フリードリヒが若くして死を得るまでの「ぼく」とフリードリヒと、両家の家族と街の人々との間でおきた出来事が年を追ってエピソード風に語られる
迫害されるユダヤ人親子とのつきあいの記録を通して当時のドイツ国内の空気が漂ってくるようだ
感情的な表現は一切無い
事実を客観的に淡々と記述していて却って彼等の凄まじい体験のリアリティーを感じる

フリードリヒが死んだ場面で突然にこの話は終る
物語としてはあまりにも物足りない終り方だが
世界との断絶、のような作者の心はこうした終らせ方でしか表現できなかったのかもしれない

訳者は上田真而子さん、エンドのはてしない物語などの児童文学の翻訳者
出版は岩波少年文庫である

この季節 赤い花と白い花

連休明け一週間の仕事が終わった。
なんとなく風邪気味で、腰の調子も90%くらいで怖々。
明けの月曜日は会社に辿りつくまでで相当体力を使った感じがした。

しかし、会社の前を流れる新堀川に沿って建つ一軒の緑に囲まれた家の横に、雨天の暗さの中で素晴らしく赤く映えるバラの花に出会った。

DSC00575_convert_20110514154303.jpg

新堀川は濁っていて悪臭がする。けれども、時々鴨が泳いでいたりするし、橋から見る川面に映る街の灯りや夕景もそれなりに景色にアクセントを与えてくれる。散策道などない運河のような川だが、それでも川端に花を植えて愛でているお宅がある。そして、この写真のように見事な薔薇を咲かせてくれた。
雨に濡れて却って瑞々しさを感じる。


今日は久しぶりにヨガのレッスンに行った。いつも歩く布池界隈は街路樹が多く、今日は白い花をつけた木が街に明るさを添えていた。白い雪のように細かな花が咲いた「ヒトツバタゴ」(一葉たご)、またの名を「なんじゃもんじゃ」である。

DSC00583_convert_20110514155322.jpg

3メートルくらいの木いっぱいに白い花がついて、遠くから見るとまるで雪が被ったよう。
なぜこれが、「なんじゃもんじゃ」なのか。何という名前の木かわからず「何でふ物ぢゃ」と言ったから??

午後、図書館に行って、アフターダークと、途中で断念した白洲正子「明恵上人」を返し、4冊あらたに借りて来た。もっと読みたい本があったが、こういう本の虫の騒いでいる時期は不思議と時間と心の余裕がないのである。
ま、仕事が忙しいというだけのことで、休日に迄持ちこまざるを得ない心の小ささ故に落着かないのである。
そして本の世界という逃げ水を用意してしまうのだろう。あれもこれも面白そうだと本当に思えるので不思議だ。これも心理学的に説明できるのだろうか。

アフターダーク

村上春樹のアフターダークを読み終えた。
予想通り、あっという間に読み切った。
面白かった。たった7~8時間程度の夜の間の話だけれども、
事件らしい出来事やら、人と人の出会いやら、打ち明け話やらが満載で
次から次へと登場人物への興味は尽きない。
しかし、澄ました小説だと思った。
でてくる人は皆賢い。頭がいいというか、会話力に長けている。会話がオシャレな名優ばかりなイメージだ。
どの人も会話がスタイリッシュでスマートで個性的である。
だから、村上春樹の世界には僕はお呼びでない感じがする。

心理的な深みというか、心の機微というか、そうしたものまでオシャレに感じるし、流石に簡単には消化できないところもあるが、それを見てることに心地よさを与えて呉れる小説だ。だから、あとから思い出して楽しめる。

にしても、話はさらに単純だけれども心が躍る上橋菜穂子さんのファンタジーの方が好きだ。
小説ははやり心踊らなきゃ、と思うのである。

でも、次も村上春樹を読むだろう。ねじまき鳥クロニクルをね。

味噌を仕込んだ

前の記事に、5月4日にやった大事なことを書き忘れていました。
手作り味噌を仕込んだのです。
静岡の鈴木こうじ店さんから材料を購入しました。http://suzukikoujiya.com/
この時期、味噌作りセットを販売しているサイトは意外と少なく、生の麹を売っていただけるこのお店を見つけて本当に良かったと思っています。味噌の仕込み方も映像で親切に教えてくれてます。
普通、味噌を仕込むのは冬場の寒い時期のイメージがありました。実際、冬には仕込みセットを販売していても、春になると終了する店が多いのですが、少しぐらい暖かくても仕込みはできるのです。

今回購入したのは有機無農薬大豆のセットです。少々値段は高くても折角自宅で作るのだからと奮発しました。
味噌を仕込むのはこれで3回目なので、少しは手順に慣れが出てきました。
大豆を洗って一晩水に漬けるところから始めても仕込み終る迄17時間くらいでしょうか。
大豆を水につけるのが10時間、これは夜一晩ほっておけばよし。
大豆を煮るのが4,5時間、灰汁を取りながらふきこぼれないように見てるのでちょっと手間。
大豆を潰して、麹と塩と混ぜるのが1時間弱、これはどんな道具を使うかで時間は変ります。フードプロセッサーがあればすぐでしょうが、豆の形がなくなってしまうので風情がありません。家にはすりこぎはあってもすり鉢が無いので、金属のボウルにすりこぎという組み合わせで一所懸命つぶしました。
粗熱を取ってから麹と塩を混ぜました。
仕込みの説明に必ず出てくるのが、味噌玉。潰した大豆と塩と麹を混ぜたものを粘土のようにこぶし大の団子にします。これが味噌玉。仕込みの容器にこれを投げつけるわけです。空気を入れない様にと言われていますが、ちょっと不思議。こんなんで空気を追い出せるはずがないと思うのですが、シキタリに従って投げつけます。結局は、全部投げ入れてから手でぐんぐん押しつけて平らにします。この押しつける力で空気が抜けるんじゃないかと思っておもいっきり押しつけます。
表面を平らにしてサランラップをかぶせて重しを載せて蓋をして完了。
重しには1kgの塩を入れたビニール袋を使いました。これは他のサイトで勧めているやり方を参考にしました。重みが均等にかかるというわけです。

さて、これからやく5か月様子を見て食べようかと思います。長ければ長いほど色が濃くなるらしく、どのあたりまで熟成させるかはお好み次第というところです。だいたい5kg分くらいの仕込みです。半年くらいはもつでしょうね。
早くも秋がたのしみです。
ちなみに今回の味噌は「米みそ」米麹を使った味噌です。麹には他に麦や大豆を使うものもあるそうです。

昨年つくった味噌は毎日美味しくいただきましたが、ほんとに美味しいです。うま味が違うというか、とにかく市販の味噌とは比べ物になりません。今年はさらに美味しくできる予感がします・・・

GWを振り返って

4月29日から連休に入って何したか?
4月29日
 思い出せない・・・
4月30日
 日間賀島に「究極の癒しの時間」コースを楽しむために行く
 日間賀観光ホテルに一泊
 ヨガと音楽とガイドリラクゼーションを楽しむ
5月1日
 ホテルで朝6時からの朝ヨガ
 和食バイキングを美味しく頂く。小鰯と太刀魚の干物とタコボール揚げがものすごく美味しかった
 昼は金山のアスナルにあるチャーハンの店で緑色のチャーハンを食べる
5月2日
 出勤日だが予定休暇
5月3日
 カミさんが企画するピアノのチャリティーコンサートの会場下見に行く
 戻って出演者のWさんとお茶を飲みながら話しをする
 それ以外の時間はパソコンか読書
5月4日
 教養としての資源問題 を読み終えて、ブックレビューをまとめた
 前に読み終えていた デフレの正体 の要約をノートにまとめ、さらに要約した内容でブックレビューをかいた
5月5日
 カミさんの風邪がうつったみたいで、くしゃみがでる
 午前中、パソコンをみながらくしゃみをしたら、ぎっくり腰になった。ほんとのこと。
 症状は軽いと思って散歩にでかけたが、だんだん歩きづらくなった
 娘は朝から科学館へ行って一日中遊ぶ
 腰の様子を見ながらただただ本を読んでいるだけの時間をすごす 図書館で借りた河合隼雄先生の「心の扉を開く」
5月6日
 出勤日だったが、腰痛のため休暇にした
 結果的に4月29日から5月8日まで長期連休となった
 前日、いつもの堅い敷布団では腰が痛くて眠れなかったので、昔買った低反発マットを出してきて寝てみたら
 それなりに腰への負担が軽減したので、そのまま一日寝ていた
 寝ながら、図書館で借りていたもうひとつの本「宇宙はなぜこんなに美しいか」みたいなタイトルの翻訳本を我慢して読んだ。あまり面白くなかったが、情報と知識と知恵の三段階について最初に書いてあったことだけは腑に落ちた。情報はいくらでも溢れている。それを選択して自分に獲り込んだのが知識。知識だけあってもしょうがなく、これを使って何か行動や判断できるのが知恵。そういえば、最近買ってまだ読んでない外山滋比古「思考の生理学」の最初のところに、グライダーと飛行機の違いの説明がこれに近いと思った。単に先生に導かれて教えられたものを覚え込むだけなのがグライダー、自分のエンジンで飛ぶ飛行機は、自分で問いを立ててそれを解く力を持つ者というような意味である。ともあれ「宇宙は・・・」の本は我慢できず訳者あとがきを読んでみると、思いがけず訳者による著者批判めいた文章になっていた。なんだこりゃという感じで、最初に読んでいればこんな本借りなかったのに、と残念な気持になった。
5月7日
 7月に行われるフィギュアスケートのショー The ICE の特別先行予約が10時からというので、パソコンと電話でトライした。パソコンは「申込」ボタンをクリックひとつで予約できるはずだったが、すぐに応答しないのであわてて何度もクリックした結果、跳ねられてしまった。痛恨。リンク内に設けられた特別席を狙ったが・・・。電話の方ではアリーナ席が予約できたので何とか一安心。
 午後は名古屋グランパスと清水エスパルスの試合をTVで見ていて、そこそこ面白かったが引き分けに終わって残念だった。楢崎のキックミスさえなければ、とか、永井をもっと活かせていれば、など思うが、いつものこと。結果は結果。
 腰の状態は少し改善したので予定どおり夕方図書館に本を返しに行った。新たに村上春樹の「アフターダーク」と白洲正子の「明恵上人」を借りた。河合隼雄「心の扉を開く」で推薦されていた本である。
「心の扉を開く」は、そもそも河合先生が人に読んでほしい本を進める本で、結構沢山の本が紹介されている。そのうちの何冊かを選んで携帯にメモしておいて図書館で探したら上の2冊が借りられた。「心の扉を開く」は単に本の紹介本というよりも、心理学エッセイのようなもので面白く読めた。ドッペルゲンガーの話しやユングの考え方、西洋と東洋の心理学的な素養の違いなど面白かった。つまらないことかもしれないが、ロッシーニのオペラで有名な「セビリアの理髪師」の話しはモーツァルトで有名な「フィガロの結婚」と関連があり、理髪師はフィガロであり、其の他の登場人物も重なっていて、続きものの話しだということを初めて知った。県芸を出ているカミさんも知らなかったので、案外、音楽関係者でオペラに詳しくない人は知らないのかもしれない。僕はもともとオペラに興味があまりないのでどっちでもよかったが、こういう豆知識だけは興味ある。
河合先生が「自我」(無意識)という心理学用語を「それ」と言っているのは面白い。自我はドイツ語でesだから、そのままだ。無意識のことを「それ」と言う。なんか解る気がする。「自分は陽には知らないが、「それ」がやりたがってるんや」なんて自分の知らず知らずの行動を説明してみることができる。
この本を読むと心理学に興味が湧く。
5月8日
 休みの最後だからといって、腰が万全ではないのでぐずぐずしている一日
 寝ながらアフターダークを読み始めたら面白い。
 面白いというよりは、読み止まらないといった方が正確だ
 ここ20年くらいは村上春樹を読んでいない
 風の歌を聴けからダンスダンスダンスまではたぶん全部読んできたが、それ以後やめてしまった
 世間で村上春樹人気が喧伝され、何かと話題になると離れたくなるものだ
 しかし、読んだ作品はどれも飽かず読み続けさせられる文章の魅力を感じていたのも事実で
 アフターダークも、それら作品とは別の文体のようにも思えるが、同じ魅力もあって一気に読んでしまいそうな予感がある。
 長期休みがあると次に会社に行くのに少なからず葛藤がある。
 またあの状態に戻れるのだろうか。会社の人との接触が別世界の出来事になっていた連休から復帰できるのか。
 こういうのを5月病というのだろうか。

ドッペルゲンガー

河合隼雄先生の本のなかに、ドッペルゲンガーは多重身のことだと書いてあった。
ドッペルゲンガーというのは、自分がもうひとりいて、そのもうひとりの自分を目撃するということらしい。
そのもうひとりの自分と目が合うと死ぬということをオカルト話で聞いたことがある。

多重人格というのは一人の人の中にたくさんの人格が同居して、そのうちの誰かの人格が出てきては、別の人格に変わるというもので、多重身とは区別される。

多重身=ドッペルゲンガーの心理学的な定義や原因や難しいことは理解していない。
今迄は、本当にオカルト的に、自分と同じ姿かたちの人間がどういうわけか本当に見えてしまう、幻覚のようなもの、もしくは本当に超常現象の一種と思っていた。
しかし、ふと次の様な解釈が浮かんだ。つまり、もうひとりの自分の姿、というのは本当の自分の身体であって、それを観ている主体としての自分は、実は意識だけの存在であり、幽体離脱のような状態ではないか、ということである。例えば、臨死体験の話しにでてくる、自分がベッドの上に横たわっているのを天井から眺めていた、という証言がある。こういう状態が普通に生活している時に起きるのではないか。街角を歩いているときに、ふっと意識が飛んで、まるで離れた所から自分が歩いている姿を外から客観的に観ているかのような心理状態。これがドッペルゲンガーではないのか。主体としての自分は意識だけであって、身体がないのであれば多重「身」とは違うことになるが。

ま、とにかく多重身とは何かについては正しい解釈があるのであろうが、自分がここに書きたいのは、勝手な思い込みにせよ、世に言われている現象の理解に今迄と違った理解の仕方があることに気がついたということだ。
こういう気づきというか発想に出会ったことそのものが嬉しくて書いてみたまでである。

以上