直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2011年07月の記事

3D映画

娘がハリーポッター大好きで、小さいころから本を読み映画を見て来た。映画にはよくつきあったが、ここ数年は見ていない。今上映中の作品がシリーズ最後ということで、娘から誘われて見に行った。結局おごらされるはめになったわけだが。
2Dと3D、字幕と吹替え。これらの組み合わせで見られるのだが、時間帯によりけり。たまたま近くの映画館で都合のよい時間にやってたのが3D字幕版だった。
初めての3D体験である。なんと、3D版は別に300円追加料金が必要だった。3Dメガネが無い僕等のような素人は100円で専用メガネを買わなければならない。あわせて一人400円の余分は料金がかかった。
肝心の映画は、シリーズを続けて見ていない僕にとってはストーリーの前提が理解できないため面白さは半減してたみたいだ。なんともないところで泣いている客がいるのに違和感を感じた。娘もぐすぐす鼻水垂らして泣いていた、その場面が泣けてくる理由はどうも前編を見るか原著を読んでないとわからない箇所だという。
さて、3D映像はどうだったか。確かに3Dで臨場感があった。しかし、例えば大阪USJのターミネーターのアトラクションで見た3D映像のような、心理的に目をそむけたくなるような恐ろしげなものや尖ったものや爆発物が眼の前に高速でせまってくる映像は無かった。2時間の映画でそうした映像をやられたらたぶん気分が悪くなるだろうから、適度に抑えてあったと思う。それはそれで優しくてよい。一方で、ならば2Dでも充分という気もした。たぶん、2Dで見てもストーリーの面白さや戦いのシーンの迫力などは充分感じられたと想像される。

もともと3Dには興味があった。ただし、昨今はやりの映画や3Dテレビの映像ではない。いわゆる、ステレオグラムというやつで、例えば、一見無秩序に見える点の模様に見える絵から特定の形状が浮き出て見えるやつである。両目の焦点を紙面より遠くかもしくは近くにずらすと見えてくる。あるいは、2枚の写真を同じように見てもよい。その2つの写真は、同じシーンを右目の位置から撮ったものと左目の位置から撮ったものの2枚である。
僕はこういうステレオグラムで3Dを見るのは得意である。一時期、視力回復によいという謳い文句だったので、数冊の本を買って見ていたことがある。どうせなら、この方式でテレビ放映すればよいのに、と思う事があったが、先日、BSのどこかのチャンネルでワイド画面を真ん中で二つに割って、右目用と左目用のふたつの動画を映していた。動画でステレオグラムはなかなか慣れないが、これはこれで面白かった。本来は特殊メガネをかけて見るための画像らしいが、裸眼で3Dになるので面白かった。

で、映画は2Dでよいので質の良いものを作る事に精を出してほしいと今さらながら思った次第である。
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災害がほんとうに襲った時

神戸大学病院精神科医の中井久夫氏が書いた「災害がほんとうに襲った時」を読んだ。
これは阪神淡路大震災50日間の記録を再録し、東日本大震災をテレビでみて考えた事をつづった最近の書である。
糸井重里さんがほぼ日で紹介しており、自分もそうだが、同じように知って読んだ人も多いようである。
阪神淡路大震災の記録は、被災後からしばらく興奮状態にあったと思われる氏が精神科医として、また、部長という上長の立場として、被災者や医師達のこころのケアに携わった活動が綴られており、冷静さを貫こうとする文体の中に、それでも興奮状態(躁状態)にあることが漂う勢いのある筆致である。短文で簡潔な文章が続き多少の現場言葉によるわかりにくさもあるが臨場感に充ちている。

いくつかの示唆に富んだ記載で、僕の関心を引いた言葉を以下に抜粋する。

(東日本大震災の様子をテレビでみて)今の私たちは、何事も無く世の中が回転している側にいる。災害の内部からはきっと不思議な世界の一部分と思われるだろう。

(災害にあたり、何をすればいいですか?という記者の質問にたいし)
まず、被災者の傍にいることである。誰か余裕のある人がいてくれるのがありがたい。それが恐怖と不安と喪失の悲哀とを安心な空気で包むのである。茫然たる状態からは、まず自分が生き残ったことの発見から始めて、家族、友人、職場の同僚や隣人、居住区、地域、地方自治体、県と同心円的に関心が広まって行くのがだいたいの傾向である。

(医療の仕事について)私の医師観察では、災害後一日は水だけで行ける。三日まではカップラーメンでなんとか行ける。以降はおいしいものを食べないと、仕事は続くのだが惰性的になり、二週間後あたりから風邪がはやって、一人がかかると数人以上にひろがり、点滴瓶を並べて横たわっていた。この前に仕事を交代できる救助隊が到着している必要がある。

これは第一次世界大戦でわかったことだが、・・・戦争のプロが4,50日たつと突然武器をなげすててわざと弾にあたろうとする行動にでるという。これを戦闘消耗という。私は神戸の時、このことを念頭において40日以内でするべきことをすべてなしおえるようにデザインし、・・・

日本人は無名のひとがえらいからもっているのだ。神戸の震災でも、震災直後からとっさの知恵を働かせ、今この状況のなかで自分がなにをできるかを考えて、臨機応変に対応した無名の人々を挙げる事が出来る。

ほんとうに信頼できる人間には会う必要が無いのである。いや、細かく情報を交換したり、現状を伝えたりする必要さえなかったのである。「彼はきっとこうしているはずだ」と思ってたとえ当らずとも遠からずであった。

あらためて思う。日本人の集団志向はことの反面である。いきなり状況の中に一人投げ込まれて真価を発揮する人間が存在しているのである。ドイツの精神医学書・・・に、ソ連軍が日本軍捕虜の指揮官を拘引するとただちに次のリーダーがあらわれた。彼を拘引すると次が。将校全員を拘引すると下士官、兵がリーダーとなった。こうして日本軍においてはついに組織が崩壊することがなかったが、ドイツ軍は指揮官を失うと組織が崩壊したと。・・・たとえば、私の医局でも私がいない時は誰、その次が誰と代行の順序がわざわざいわなくとも決っている。これは日本の組織の有機性という大きなすぐれた特徴であると思う。

一般にボランティアの申し出に対し「存在してくれること」「その場にいてくれること」が第一の意義であると伝える。
われわれの頭は動員可能な人数をベースにした発想しかできないようになっている。三人しかいなければ三人でできることが頭に浮かぶし、七人なら七人でできること、というふうに。人が増えれば、あたかも高地に移ったかのように見えてくる問題の水平線が広大となる。新しい問題が見えてくる。・・・そして、日々、問題は新しくなる。これは事態の変化によるものであると同時に、我々が発生する問題をとにもかくにも解決して行っている場合には特にそうなるのである。

神戸のホームレスは市民との間に暗黙の交感がある。働かないものを排除する気風はない。かつてある盛り場の「ホームレスを取り締まれ」という投書に対し、「そういう人はすこしはおられるのが街といものではないでしょうか」と市側の返事。

ひょっとすると、全国いや海外からも殺到する見舞いの電話、手紙、小包の中には、この不条理な無事に対する「すまない」という感情がこめられているのかもしれない。

私達は涙もろくなっていた。いつもより早口で甲高い声になっていた。第三者からみれば躁状態にみえたかもしれないが、実際には、自己激励によるエキサイトメントであったと思う。

やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知され、評価される必要があるのだ。

私がみるところ、人々がメルトダウンしなかったわけではない。ただ、「液状化現象」は起らなかった。起ったとしたら温かいメルトダウン、逆方向の液状化現象であった。多くの人は軽く退行していた。私もまた。「自我に奉仕する退行」であって「エスに奉仕する退行」ではなかった。(エス:精神の奥底にある本能的なエネルギーの源泉のこと。エスは放っておけば本能のままにやりたいことを何でもやろうとする。エスは快楽原則に従う。)

この三週間、私は確かに「共同体感情」というものが手に触れうる具体物であることを味わった。・・・このような「共同体感情」が永続しないことはひそかに誰もが感じている。



現場での活動記録がほとんどであったが、ところどころ、上記のような感想?に近いものが挟まっている。これらが無ければ本当にただの記録であるが、流石に還暦を過ぎた大御所の先生である。物事の観察が鋭い。当事者である自分をも客観的に観察しようとしているし、同僚の医師達、神戸人、マスコミ、国、世界という拡大視野と、歴史的事例にまで及ぶ時間軸の拡大視野を合わせもった優れたエッセイになっている。
これから身近で起こるかもしれない震災を考えると、本書を読んでおくことである種の心の備えと勇気を刻んでおくことができる。
良書である。


The ICE

フィギュアスケートのショー「The ICE」を愛・地球博記念公園にあるモリコロアイスアリーナに見に行った。名古屋で2日間4公演、大阪でも行われる。また、青森で被災者を招いてチャリティーで行われるそうだ。今日は、The ICEの初回公演だった。珍しくチケット先行予約日の電話で良い席が取れた。前から2列目で選手を間近に見る事が出来た。世界クラスの選手が眼の前で演技をするのを見られたのは本当に嬉しかった。
感激したのは、アイスダンスの世界選手権金メダリストのメリル・デービス=チャーリー・ホワイトのペアが披露した、インド音楽のプログラムだ。これは、彼等が前回のオリンピックのオリジナルダンスで使ったナンバーで、エキシビジョンでもたびたび披露する人気のプログラムである。これは僕も大好きで、今日はフルに見れたのが感涙ものだった。アイスダンスはテレビでもあまり放映しないので知る人は少ないかもしれないが、実は非常に見ていて楽しい。何と言っても選手は色気のある美男美女だ。肩より高い位置でのリフトは禁止されており、ジャンプも無いが、技術を極めたスケーティングは素晴らしい。低い位置でのリフトも工夫を凝らし、難度の高い動きに美しさもプラスされ、スポーツというより芸術である。何組ものペアを見ていると、素人なりにスキルの上下はわかるものである。デービス=ホワイト組みは超一流の滑りだ。彼等の人気のプログラムを眼の前で見られたことは思い出になった。「本物だ」という言葉が二つの意味で口をついて出た。「テレビ画面でなく、実物が眼の前で滑っている」という「本物」と、アイスダンスの名手としての「本物」である。
ほかに、シングルの選手であるアメリカのアリッサ・シズニーや長洲未来も素晴らしかったし、日本の羽生結弦は一人四回転ジャンプを跳んでやる気満々で迫力があった。浅田真央も安定して丁寧に滑った。平原綾香のジュピターに乗せて美しかった。どの選手もテレビで見てもわからない下半身の筋肉の付き具合が目立って見えた。やはりアスリートだ。引き締まった素晴らしい身体だからこそ困難な技をいとも簡単に美しく演技できるということがよくわかった。
同じ人間か?と思わないでもなかった。

本、漫画、本、漫画、本、本

昨日は図書館に行って本を返し、新しく3冊を借りた。村上春樹の「海辺のカフカ 上」と中井久夫の「災害がほんとうに襲った時」、上橋菜穂子の「流れ行く者」である。
「災害がほんとうに襲った時」は、阪神淡路大震災が起きたときに神戸にいた精神科医、中井久夫先生の震災直後からの記録が綴られている。そして、2011年4月に出版されたこの本は、すでに公にされていたその記録とともに、東北関東大震災後に氏が考えたことも添えられていて興味深い。氏の著書には一冊だけ触れた事があるが、とても難解で精神科の専門家にしか理解できないかと思われた。しかし、この震災の記録は、理論でなくあくまで実態の記録であり、言葉そのものは容易に理解できる。それほどページ数のない本だが、じっくりと読まなくては、と気が引き締まる。
上橋菜穂子の「流れ行く者」は、守り人シリーズの長編が終ったあとに作られた、いわば、外伝である。趣味、コレクションのように上橋さんの本を買ってきた者としては、この作品も買えばよいのだが、なんとなく、そこまで拘る気が薄れたので、図書館で借りた。児童書の棚にあり、すぐに読めてしまいそうだ。主人公のバルサが13歳くらいのときの話らしい。

最近、「読書メーター」というサイトを見つけた。ここでは、自分が読んだ本を登録していくと、横軸に月日、縦軸に読んだ本の冊数やページ数の累積値が表示される。読みかけの本も登録できるし、読んだら「読んだ」に変更して、感想を書き込むことが出来る。本は普通に出版されているものであれば検索で選ぶことができて手間なしだ。それで、3月以降読んでいる本を、自分のブログを読み返して思い出し、記録してみた。なかなか気持がいい。ちょうど今日で100日あまり、20冊、5500ページという記録になっている。

今日は、カミさんと買い物デート。名駅の高島屋の上にある三省堂に行き、本を物色した。彼女は好きな高橋大輔君の本ともう一冊を買った。僕は、探している本は今はなかったので、和物雑貨をのぞいたり、漫画の新刊をチェックしたりした。と、「星を継ぐ者」という漫画が目にとまった。SF作家ホーガンの作品を漫画にしたらしい。この作品は読んだことが無いが、「創世記機械」というSFを大学時代に読んでいたく感銘を受けたことを記憶している。その作者の作品であれば面白いに違いない。漫画を買うかどうか非常に迷ったが、原作を読んでみる事にした。文庫本で出版されているはずだが、書棚には無かった。まだ、どこかで探して読んでみようと思う。
もうひとつ、「乙嫁語り」という漫画が先日から気になっている。別の書店で、試し読み用に第1巻が置いてあり、ざざっと目を通したがなかなか面白そうだった。これがまた三省堂にどかどかと3巻まで置いてあったので、買ってしまおうかと思ったが思いとどまった。
たぶん、一週間以内に買ってしまうに違いない。

本、漫画、本、漫画、本、本

という生活がこれからも延々と続く。

ひとりの日曜日

3連休の中日の今日は家族それぞれの用事があって久しぶりにひとりの休日だ。
娘は午後から合唱部の練習と買い物。カミさんは午後から大阪でピアノコンクールに挑戦。
僕は午前中はYOGAに行き午後には帰って来たが、入れ替わりというわけだ。

YOGAに行く途中の名古屋の街の中で黄花コスモスを見かけた。一匹のクマバチが花の蜜を吸っていたので、写真をとった。鮮やかな山吹色の花と黒に黄色の産毛をまとったクマバチの両方が夏の強い日射しの下で輝いている。
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YOGAで適度に汗をかき、筋肉を伸ばし、ほぐし、休めて呼吸を入れる。週にもう一日やることができたら、たぶん身体そのものが変わって来ると思う。筋トレに近い動きもあるが、週一回では目立った効果はでてこない。
昼ごはんは、高岳から千種に歩く途中の適当な場所で済ませようと思って歩いたが何となく店に入る気にならず、千種駅まできてしまった。仕方が無いので駅前の定食屋、まさに「千種駅前食堂」というお店に入った。好きなオカズの皿をとり、ごはんとみそ汁をもらう。会社の食堂のイメージで適当にとったら、850円と意外に高かった。茄子の煮びたしとサバの塩焼きとマカロニサラダ。美味しかったが、丼ものにしておけば500円でお釣りがくることがあとでわかった。
暑い日差しの夏は帽子が必需品である。長年、帽子は似合わないと思いこみ、仕方なくキャップをかぶっていた時期が続いていたが、一昨年からいろいろと挑戦し始めた。今夏はストローハットを買ってみた。栄のラシックの帽子店はいつもいいものを置いてて少々値が張るが、気にいるものが必ず見つかるので、今度も行ってみた。期待通り、こげ茶のストローハットが気にいったので買う事にした。他の帽子よりもかなり安値で、この店にしては珍しかった。これが先週の水曜日。今日は、濃い茶色の沖縄柄のTシャツに明るい茶色の綿パンを合わせ、買いたてのストローハットを被った。YOGA教室には若い生徒が多いので、あまりチンケな格好では行かれない。こういうことも手伝って、考えて見るとYOGAに行き出してから洒落っ気がでてきたようだ。

で、夕食用の食材を少し買って帰宅した。
洗濯をして、茶渋のついたコップをキッチンハイターを薄めた水に漬けこみ、夕食の準備にとりかかった。
たいした料理じゃない。カレーを作る。今日は、水の代りにイタリアントマトを四個入れてみる。とろとろに溶ける迄煮込んでからルーを入れる。豚肉の残りがあるので、薄く切ってフライパンで焼いておく。残りの油で茄子を焼く。茄子には最後に醤油を少し垂らして味をつけておく。カレーのスープができてから、豚肉と茄子を放り込んでしばらく漬けこんでおく。
たまには時間をゆっくりかけてカレーを作るのもいい。
あとは、帰って来た娘が美味しく食べてくれればいいのだけれど。

そうそう。鍋帽子というものがある。鍋の帽子だ。暖かい鍋をすっぽりと包みこむ綿入りの帽子で、こうしておくと、長時間熱が逃げず、弱火で煮込むのと同じ効果が出る。省エネだ。カレーも適当に火をとめたら、あとは食べる迄の数時間、鍋帽子をかぶせておけばきっと味が熟していくに違いない。

音楽は個人的なもの

何年か前に鶴舞の古本屋で買った武満徹の本「音楽を呼びさますもの」を棚の隅から引っ張り出してぱらぱらと読んでみた。
無音の音のことが気になって、誰かが書いていた筈だと思って、なんとなくその本に書いてあるような気がして手に取ってみたのだが、目的の記述は無かった。
無音の音というのは、つまり、外界の音が無いような環境では人は何も聞こえない無音の状態にあると思いがちだが、実は普段は気がつかない高い連続的な音がツーンと頭の中で鳴り続けていて、外界が静かであればあるほど、その高音が大きく聞えてくる、その音のことである。この音は、慣れてくれば、外の音がかなり大きくても意識的に認識することができる。先日、会社の同僚にそのことを何とか説明しようと試みたが、全く通じなかった。この文を読んでくれている人にもわからないかもしれない。もしかすると自分だけがそのような音を感じているのか?と疑いたくもなるが、ただ、しかし、何年か前にある本の冒頭で、この感覚のことを記述しているのを読んだ記憶があるのだ。この自分の感覚(無音の音)が自分だけのものではないことを確認したいので、もう一度、その本を読みたくなったわけだが、見つからない。

それはさておき、武満徹の本に、これはまた自分の音楽というものの理解に灯りをともす一言が書いてあって嬉しかった。
「あくまで音楽は個人的な感情から出発するものですが、それがある方向性をもって他者にはたらきかけるということです。」
個人的な感情から出発する以上、同じ音楽を聴いても、全く同じ感覚にはなり得ない。作曲家や演奏者は、方向性をもって働きかけるので、その方向性に共感した受け手が多いほど、その音楽や演奏は「善い」音楽であり演奏であると評されるのであろう。しかし、あくまで方向性への共感であって、受け手の感覚は、やはり、受け手によって変性された個人的な感情に還元されたものとなる。
武満徹の邦楽を取り入れた現代音楽を聴く西洋人と日本人の個人的感情は全く異なるに違いない。多少とも生活のどこかで邦楽を耳にしたことのある日本人と、全く聴いたことのない西洋人には、邦楽的な音に対する感情を伴う経験値が全く違う筈だからだ。にも拘らず世界で受け入れられているというのは、その音楽のもつ方向性は、生まれ育った国が違う人々に共通に共感できる普遍的な何かを有するからなのだろう。それが何かは武満のこのエッセイ集を読めばもしかしたらわかるかもしれない。音楽に込められたその方向性は、音楽そのものから感じ取るだけでなく、作曲者の作曲の出発点となった個人的感情を想像させる彼の思考様式や哲学を知ることによって、理解が深まるのだと思う。

他に読みたい本がたくさんあるなかで、この少し難解な課題に挑戦するのはいつになることやら。

ピアノ発表会

昨日は、娘や知合いのお嬢さん方が出るピアノ発表会に行った。
出演するのは、習い始めて3カ月の子や幼稚園児、小学生、中学生、高校生(は娘だけ)、音大生、社会人、主婦、ピアノ講師と年齢層は幅広く、それこそ、ちょうちょうとか、かえるのうたなどの単純な曲から、最後はプロコフィエフのピアノソナタまで、多彩な曲が40曲くらいだろうか。
せっかくなので全部最初から最後まで聴いた。だいたい、3時間。
どんな小さな子の簡単な曲でも、その子にとっては一所懸命練習してきて、今、舞台でどきどきしながら、あるいは震えながら緊張のなか一人で大きなコンサートグランドピアノの挑んで弾くことの意味を思うと、ちゃんと聴いてあげたくなる。真剣に聴いていると、ひとりひとり個性があり、挨拶のお辞儀の仕方、座り方、衣裳、指の押さえ方、音の大きさ、リズム感、みな違う。にこにこすればいいのにと勝手に観客として思ったりするが、それどころではないだろう。音大生の彼女は、少し余裕があるのか、軽く笑顔でお辞儀をしたのが印象良かった。なかなかの美人だし、ドレスも素敵だった。ピアノ演奏は、衣裳、メイク、歩き方、お辞儀の仕方、顔の表情、座り方など、演奏そのもの以外にも舞台に出た時から下がる時迄のすべての目に入る、「その人」が演奏を聴く印象に大きな影響を与えるから不思議なものだ。小学生くらいならまだいいけれども、中学生以上になったら、こうした発表会でも、演奏に味をつけることを意識したほうがいい。上手に弾けるならなおさら態度に表わした方がいい。引っ込み思案で地味なワンピースでおどおどと歩くよりも、少しはきらきら光るものをつけてどうどうと歩いて来てさっそうと弾き始める「演技」があってもよい。
どうせこの舞台は自分のための場所で今は自分が主役の時間なのだから、殻を脱ぎ捨てるとよい。
案外そういうことができる子は少ない。
そうは思いながらも、皆の演奏は、ひとつひとつレベルは高かった。
娘はベートーヴェンのソナタ「悲愴」のだい2,3楽章を弾いた。第2楽章は有名なフレーズで、確か、「火の鳥」のアニメの主題曲に編曲されてた記憶がある。平原綾香さんも歌ってたかもしれない。この楽章は抒情たっぷりに弾けていてよかった。
進学校に進み2年生で勉強も大変みたいだし、部活も2つに入って、週1で塾にも行き、週1でスイミングスクールにも行き、まあよく練習したもんだと思う。我が娘ながら。

他に、3歳と5歳の子供を持つ30過ぎの彼女は、ショパンの「別れのエチュード」を弾いた。この曲には思い入れがある。中学校の時、帰宅時間になるといつも放送していたからだ。夕暮れの校庭にショパンの別れの曲が鳴る。少し悲し気なこの曲を聴くと、山間にある夕暮れの中学校の校庭から、校舎の後ろの山の端に太陽が沈む光景が目に浮かぶ。ほろ苦い中学校時代のいろいろな思い出とともに。

ヤマハのピアノ講師をされているお嬢さんのプロコのソナタ第3番は初めて聴いた曲だが、迫力があってよかった。彼女が上手に、ガチャガチャにならずにプロコフィエフの激しい音形を速くても丁寧に綺麗に表現してくれたからだと思う。よい演奏だった。お金を払って聴きに来た演奏会だったとしても拍手を惜しまなかっただろう。

午後の時間を音楽に包まれて、少々、ホールの冷房がききすぎて寒い思いをしたが、よい一日だった。
夕ご飯は、実家の親たちも一緒に、娘の健闘を祝って、しゃぶしゃぶのお店に行った。(と言っても、最近、安いチェーン店があるのですよ)

さて、一日明けて、今日は午前中、YOGAに行って汗を流した。夜まで暑い日になりそうだ。どうも、このごろ、暑いというだけでビールを飲みたくなる。ようやく、オヤジになったかな。

神様がくれたゆび

佐藤多佳子の「神様がくれたゆび」を読んだ。
僕の好きな上橋菜穂子さんが「天と地の守り人」文庫本の巻末で鼎談した相手が荻原規子さんと佐藤多佳子さんだった。
本屋で偶然、荻原規子さんの「レッドデータガール」の文庫本を見つけて衝動買いして一気読みしてしまった。彼女の作品を読むのは2作目である。1作目は「西の善き魔女」。古本屋で見つけた全3巻か4巻の長編だった。少女マンガのような物語が最後には萩尾望都風の「惑星管理委員会」みたいなオチで終わる、何とも微妙な作品だった。「レッド・・・」もやはり少女漫画を読んでる気分だったが、少し冒険活劇的で面白かった。続きがあるようなので文庫本発売を待つ。
さて、佐藤多佳子さんだが、何も読んだことが無かったので図書館にある本を借りて来た。彼女も児童文学の分類に入るということなので、どんな話かとおもって読み始めた。「神様がくれたゆび」のタイトルから連想されにくいストーリーだった。ゆびは、プロのスリの指のことだった。プロのスリの青年とタロット占いをする女装した若者を中心に展開する話で、危険な悪ガキと警察が絡む事件に向って話が進む。事件のところに来るとテンポアップし、これも映画を見ている様で楽しかった。主人公のスリの青年は、誰からも好かれる。その設定が物語全体を暖かな雰囲気にしているように思う。寒々しい悪い奴らも描きながら、彼等に翻弄されるスリの青年は結局幸せな境遇にいる。彼を囲む人々の暖かさが気持よい。
文章は気風の良い江戸っ子が書いたようで、佐藤さんの他の作品も読みたくなった。
単純に物語の面白さという点で先月、先先月に読んでいた村上春樹作品に勝っていると思う。
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