直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2012年01月の記事

思い出のシャープ ダブルカセットデッキ

出張で天理のシャープ(株)を訪問した際、歴史・展示ホールを見学させてもらった。
シャープの社名の由来が最初の製品「シャープペンシル」にあるというのを初めて知った。
それはさておき、数々の電化製品の歴史紹介の中に、昭和54年発売のダブルカセットデッキがあった。

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これを見て嬉しく、また、懐かしくなった。大学生となり下宿を始めたときに親に買ってもらったものだからだ。
この製品は、世界で初めてカセットデッキを2台搭載し、ダビングできるようにしたのだそうだ。そんなことは知らなかったが、とにかく、ずいぶんこの製品の世話になった。

大学時代の僕の音楽との関わりは、このデッキ無しには語れない。
カセットデッキとFMファン(雑誌)が大学4年間の僕の必需品だった。
FMファンでクラシック音楽の放送をチェックし、録音してない曲があれば片端からカセットに録音していった。
100本以上のカセットに録音しまくった。
カセットテープの録音残りの時間を調べて、それにちょうど嵌る小品があれば、録音して埋めていった。

このおかげで僕は大のクラシック音楽好きになり、今日に至っている。
この時に録音した曲は、クラシック音楽辞典に印をつけ、かつ、紙の台帳を作るくらいに凝っていた。そのお蔭もあって、作曲者や演奏家の名前はほとんどフルネームで覚えている。

今日、あのころ使っていたカセットデッキに出会い、懐かしい4年間の音楽体験を思い出して少し嬉しくなった次第である。
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行為の結果を放擲できず、今を生きていないことに気づく

バガヴァッド・ギーターに関する論説を読んでから日々考えている
一切の行為の結果を放擲して、行為を為せ
その難しさ

日々、自分は多くの時間を未来への不安とともに過ごしていることに気づく
この先に予定している誰かとの会話や仕事の打ち合わせの中で
その時に一番気にかかっている相手とのやりとりを何度も繰り返し想像している
気が付くと、そんなことを繰り返している

行為の結果を放擲することとは全くかけ離れた精神状態だ

今していることに意識が行っていない
先の事ばかり考えている
気になることばかり気にしている
それで今を生きているのか?

良く考えてみる

先の事ばかりを今、気にしていて
その先の事が何か変わるのか
その結果が変わるのか

おそらく結果は変わらないだろう
想像の中で、自分が行うであろう言葉にするであろうことのいくつかのパターンを
単に予習しているにすぎない

結果は変わらないのに
今心配して何になるのか

準備はしなくてはならない
今、それを準備するときであるなら
それが行為だ

しかし、単に想像して心配しているだけは準備とは言わない
心の準備だとするなら
そんなものは要らない
なぜなら結果はクリシュナによれば、神に委ねればよいのだから

無駄なことをしていて今を生きていない
ここ数日は、無駄をしては気づき、また、無駄を繰り返し、そして気づきを繰り返している

歩いていても、顔を洗っていても、風呂に入っていても、食事をしていても
そのことにまっすぐに向き合うか、次の何かを計画すればよい(心配するのではなく)

なるほどヨガのレッスンでは、今の自分の呼吸に集中せよ、と言う
丹田に意識を向けよ、という
自分の体のあらゆる箇所に細かく意識を向けて感じるように、と言う
ナノヨガと呼ぶ先生もいる
今の自分に意識を集中することは、それこそ行為の結果を意識せずして行為を為すことである
集中すること、イコール、瞑想である(と初心者には説明される)
2000年の歴史を超えて現代に伝わるヨガは、身体の動きや状態に意識を集中させることを訓練することによって
どのような自分にでも集中して生きられる状態(これが悟り?)に近づこうとしているのではないかと
改めて気づいた

未来を思い煩うことを全くやめられたら幸福である
そのようにできていない現状にようやく気付いた段階である
一切の行為の結果を放擲する、それがいかに難しいかが、
自分を客観的に眺めてみることによって、それがなかなかコントロールできないことを知るにおよび、
実感としてわかったのである

赤松明彦「バガヴァッド・ギーター」神に人の苦悩は理解できるのか? を読んで

正月休みのいつか、ハイビジョン特集 菅野美穂 インド・ヨガ 聖地への旅 を見て、バガヴァッド・ギーターを知った。ヒンドゥー教の聖典であり、ヨガとは何かが書かれている、と紹介されていた。番組の中では、さまざまな装丁の本の姿でカラフルに書店に並べられていた。中にはポケットサイズの本もあり、日本の書店の会計近くによく置いてあるポケットサイズのお経に似た感じであった。大きな本には、サンスクリット語と英訳が一緒に載っていたりする。
インターネットで検索してみると、なんと日本語訳の全訳が載っていた。すでに「神の詩」という題で出版された本の中身と同じらしい。長編の詩である。
最初は、ヨガの経典、ヨガとは何かの宗教的解説書、もしくは、お経の類かと思っていたが、そうではなかった。
バガヴァッド・ギーターは、ひとつのまとまった詩編であると同時に、インド古代叙事詩「マハーバーラタ」の一部である。マハーバーラタは、パーンダヴァ族とバーラタ族の争いを軸として語られる大叙事詩であるという。バガヴァッド・ギーターは、登場人物である戦士アルジュナが、親族達との戦闘を前にして、道徳的な葛藤のため、戦意を失い、武器を置いてしまうのに対し、御者であったクリシュナが神としての姿を現し、戦え、行為を為せと説得する対話編からなっている。神クリシュナは戦士アルジュナに「結果への関心を放棄して、ただ行為のみを行え」と繰り返し説得する。これは、敵である親族を殺すことに悩むアルジュナに対し、「戦え」「殺せ」といい、それが義務であると言うわけだ。一読して理解しがたい。神がなぜこのようなことを言うのか。どのような意図で言い、この対話編が意図するものは何か。そういう疑問が湧いてくる。

掲題の赤松氏の書を図書館で借りてきて読んでみた。2008年発刊なので、わりと最近の本である。
ガンディーもバガヴァッド・ギーターを読んだ。彼は、「実際の戦場のイメージを借りて、人間の生において展開する精神の戦いを表すもの」として寓意的に読んだ。そして、「無私の行為」の教説を読み取った。
アルジュナは、何度も繰り返し説得を受けるが、いつまでも納得しない。最後にアルジュナは再び立ち上がるのだが、なぜ、立ち上がったのか、そこまでの長い対話の中で、アルジュナの人としての苦悩の深さは大きなものであり、神クリシュナが人の苦悩を理解するという試練に立たされたみたいだと、赤松さんは言う。そして、神も態度が変わった。最後に神が何と言ってアルジュナを説得したのか。その言葉の意味は何で、なぜアルジュナは説得されたのか。それを探るのが、この赤松さんの本のストーリーだ。
赤松さんは大学教授である。大学の先生の本というと、面白みがないものと想像しがちだが、本書は違った。確かに専門書的な論説で構成されてはいるが、比較的自由に、氏の心の赴くままのストーリーで、アルジュナがなぜ立ち上がったかの謎解きを最後に待たせながら、わきを固めて話を進めていくので、推理物を読むようで面白かった。

最後の説得の言葉はどうであったか。

「一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない」

罪悪とは何か。罪過であり、無限の過去から行ってきた行為の結果、その中には善も悪もあるであろうが、そのすべてを含めて罪過である。彼の身の回りにまとわりついていたすべての罪から解放してやろうという。
一切の義務を放棄して、とは、すべての行為を私(神)のうちに放擲して、と同意である。
一切の義務(ダルマ)とは、善悪を問わずあらゆる種類の行為を意味し、それら行為の結果をも意味している。
行為の結果を放擲して、とは、行為の一切の結果を放棄するということである。
つまり、行為の結果を顧慮することなく行為を行う、一切の行為の結果を神に委ねて行為を行う、ということである。
以上は赤松さんの解説である。

なんだかキリスト教の教えのようだが、どこか違うようにも思う。
いずれにせよ、自分がやるべきと考えるものは、自分が生まれてここに生きる以上必要なことであり、行為すべく生まれてきた以上、怯むことなく、結果を顧慮することなく、為すべきことを為せ、という教えであり、そのために、すべての結果を神に委ねる心を持てということだ。あらゆる人の苦悩を取り除いて前に進ませる力のある教えとして、勇気づけられる想いである。

自分の身近に、本当は気が進まないが自分や家族が困らないための収入になるので我慢して続けている仕事と、本当はやりたい芸術家として本格的に活動することとの挟間で葛藤している人がいる。戦士アルジュナの葛藤に置き換えれば、やるべきことはあきらかだ。結果を顧慮することなく、為すべきことを為せばよいのだ。そうでなければ生まれてきた意味はないではないか。強く一歩を踏み出す精神のあり方が本当のヨガである、とバガヴァッド・ギーターは言う。

2000年以上も前から人々の苦悩は変わらず、解脱する方法も変わらない。これこそが輪廻の結果なのかもしれない。アルジュナはおそらく解脱したが、多くの人は真の行為のヨガ者になれず、生まれ変わり死に変わりながら、苦悩の中で行為の結果に怯えながら、選択を間違ったと後悔しながら、毎度毎度、解脱できずに過去も現在も未来も生き続ける。
しかし、バガヴァッド・ギーターが現在まで伝承されているという事実は何を意味するのか。それは、その教えの重要さ、真実性の故であろう。少数の理解者の中には解脱に成功した人もいよう。しかし、どんどん人は生まれてくる。その中の何割の人がギーターを読み、その中の何割の人が理解し、さらにその何割の人が実践し、最終的にその何割の人が成功するのだろうか。そのような人になれたらいいなと、きちんと読みもしないで単に憧れているのが現在の私です。

浅田真央が阿修羅王にみえる

年末のフィギュアスケート全日本選手権から、年明けの名古屋でのフィギュア対抗戦、そしてStars on Iceでの浅田真央さんの演技をみていて、彼女はホントの仕事師だと感じた。
もちろん、母親の死によって数日練習できなかったハンデがあったにも拘わらず全日本選手権で優勝した心の強さには感服するが、年明けてのアイスショーで新たな大技を成功させてくるところなど、常人ののんびりした観戦気分を吹き飛ばすようなアスリートとしての凄みを感じずにはいられなかった。数年前にやっていた技だというが、トリプルフリップ+トリプルループの連続3回転ジャンプである。セカンドジャンプのトリプルループは、最初のジャンプを降りた足でそのまま踏み切るという難度の高い技である。年末の全日本選手権での戦いとは別に、すでに練習では準備をしていたのだろう。おそらく、次の四大陸選手権の本番のプログラムに入れてくるであろうし、3月の世界選手権では、さらにトリプルアクセルを入れて最強のプログラムに仕上げてくるだろうことが目に浮かぶ。
笑顔の裏に、このような緻密な計画があって、着々と準備していたわけだ。以前から武士気質だと思っていたが、その思いを新たにした。

ところで、今年のショートプログラムの衣装が、曲のシェエラザードにあわせた東洋風のパンツスタイルだが、この衣装とともに演技で見せる顔つきに、どことなく阿修羅王の雰囲気を感じる。若いころ仏像鑑賞が趣味だった自分だから、そう思うのだろう。彼女の写真(FACEBOOKページから拝借)、興福寺阿修羅像、そして萩尾望都の漫画「百億の昼と千億の夜」の主人公アシュラを並べてみる。
阿修羅の本性は内に秘めた闘争心と見れば、夏目雅子に似ていると噂された興福寺阿修羅像の眉根を寄せた童顔の思慮深げな眼差しに感じるものと、浅田真央のアスリートとしての姿勢にどこか似たところがあるのではないか。そして、光瀬龍原作の百億の昼と千億の夜に登場し、遥かなる過去から未来へ孤独に生き抜く少女の姿をしたアシュラの宇宙創造主との戦いが、さらにまた重なって見えるのは想像しすぎなのかも。
しかし、面白いと思うのである。

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みなとみらいでパオラ(1月22日)

カミさんの14日のジョイントリサイタルが無事終わり、次は22日の日本演奏家コンクール受賞者演奏会
いろんな部門の受賞者が演奏するので、朝10時から夕方まで盛りだくさんだ。カミさんはちょうど12時ごろの出番で、コンクールで弾いたリストのメフィストワルツではなく、同じくリストの「波を渡るパオラの聖フランシスコ」を弾く。14日のリサイタルの最後に弾いて、なかなか感じよく仕上がっているので、今度もきっとうまくいくでしょう。
この曲は、リストが僧籍に入ってから書かれた曲で、題目のとおり宗教的な主題である。聖フランシスコが、マントを浮かべて海を渡る奇跡のシーンを描いた曲だ。最初からドラマチックな旋律が太く響き、それが形を変えて繰り返される。僕は音楽の専門家ではないので正しく解説はできないのが悔しいが、交響的な響きが楽しめる名曲だと思う。ただ、弾く側にとっては大変な難曲らしい。

当日は、どの部門も優れた演奏家達の演奏を聴けるので10時には会場入りして聴こうと思う。一流の演奏家のちゃんとしたリサイタルも良いが、こういう受賞者演奏会も曲のバラエティに富んでいて面白かろう。楽しみである。

平清盛 吉松隆

NHK大河ドラマ「平清盛」の音楽が良い。
吉松隆さんの作曲で、ピアノは舘野泉さん。
http://www.youtube.com/watch?v=ZysKS_8fDmg

冒頭の主題のメロディーは劇中で歌われたり、舞いの楽曲に編集されていたり、何度も、そこここで聞くうちに耳に馴染み、飽かず聴いてしまう。曲の最後には主題のメロディーが子供の歌声によって再現される。

吉松隆さんの曲には美しいものが多く、カミさんも大好きで、昨日のリサイタルでも「水のパヴァーヌ」という曲を弾いた。この曲は、右半身不随となって左手だけでピアノを弾いている舘野泉さんの委嘱で作曲されたもので、左手だけで弾く曲である。美しい旋律で水の清らかな流れが心に沁みてくるような曲である。

今回の大河ドラマは、吉松さんと舘野さんによる格調高く美しい音楽と、それに劣らず切れの良い映像とで非常に出来の良い作品になる予感がする。今後が楽しみだ。

空色勾玉

日本のファンタジー作家の一人である荻原規子さんの「空色勾玉」を読んだ。
荻原さんという作家を知ったのは、何年か前に古本屋で彼女の「西の善き魔女」が安く売られていたので、中味もしらず買って読んだのが縁である。この物語は、全体的に少女マンガ染みているし小気味よいのだが、深みのある物語を好む人には好まれないだろう。ネタバレをすれば、最後は萩尾望都さんのSFによくある「惑星管理委員会」みたいなオチが設定されていて、若干だまされたような気分になった。そうしたこともあってか、しばらくは彼女のファンタジーを読もうとはしなかった。
その後、NHKでのアニメ「精霊の守り人」の放送をきっかけとして、上橋菜穂子さんの作品に惚れ込んで、彼女のほとんどの作品を読むこととなった。そして、最新の文庫本の付録に、上橋さんと荻原さんと佐藤多佳子さんの鼎談が載っていたので、そこで改めて荻原さんの日本のファンタジー作家としての地位を確認することとなった。ただ、まずは佐藤さんの作品を読んでみようという気になって、いくつかを図書館で借りて読んだ。そのあとで偶然にも書店で荻原さんのRDG(レッドデータガール)の文庫本の発刊に出会い、彼女の作品に再開することとなった。RDGも少女マンガチックであったが、やはり小気味よい展開に、物語好きの自分としては、寝る間を惜しんで読むこととなった。つい先ごろ、RDGの2作目も文庫で発刊されたので買って読んだ。そして、この続編も読みたくなり、単行本で既刊の1冊を図書館で借りることにした。これは貸し出し中だったので予約してあるが、なんだか気分が晴れないので、荻原さんのほかの本でもないかと探して、かの「空色勾玉」を見つけた、というわけだ。
以上のように日本の女流ファンタジー作家3人をそれぞれ遍歴して、今、荻原さんの出世作に手をかけることになった。
空色勾玉も幾分少女マンガ染みているが、設定が古代日本であり、オオキミとかヒメとかオロチとかにちなんだ登場人物からなる時代ものということもあって、幾分、おとなしめな基調のもとで話が展開する。登場人物の死ということも物語を引き締める効果を持っていて、なかなかの作品だとは思う。
ま、でも、対象は中学生女子か高校生女子くらいだろうな。これくらいの軽いものが読みやすくて面白くて、つまり、物語として映画を見るように楽しめるということだ。

意外なものが綺麗!?

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意外なものが綺麗に見えたので写真を撮った。
それは、鉛筆の削りかす。

我が家には赤い小さな鉛筆削りがある。
ぐるぐるぐるとまわしてけずる。

えんぴつをけずろうとしたら、削りかすがいっぱいであふれそうだったので、
要らない新聞広告の紙の上にあけてみた。
したら、なんか綺麗なのでおかしかった。

カミさんがしばらく前にクーピー(色鉛筆)を削ったという。
ああ、なるほど色鉛筆の削りかすね。

赤と青がちょうどよい具合にばらまかれて、ほかの色も添えられて。

こんなことに心を惹かれるんです。

拾い 第1号@2012

なぜか人は僕の目の前で何かを落とす
昨年、何度もあった。数日の間に数件続いたこともあった。財布、ハンカチ、切符、手袋、いろいろ。
言い出すきっかけを失って見過ごしたものがひとつある。今でも思い出すと申し訳なく思う。それは、夏の暑い日。千種駅のホームに「どまつり」の踊り子たちがごった返していた。おそろいの衣装に隈取のお化粧をした普段ならぬ姿の娘たちが目の前を通り過ぎる。と、その一人が手ぬぐいを落とした。踊りに使う小道具のようだ。しかし、その手ぬぐいに気づいていないのか、その上をどんどん仲間が通り過ぎる。そして、別のチームの一団に変わった。もう遅い。誰が落としてどこにいるのかもうわからない。別のチームのひとりがそれを見止めたが、首をひねってそのまま行ってしまった。かわいそうな落とし主。うまく踊れただろうか?

さて本題は、今年最初の拾い物。
1月8日 勝川天神社にて女性が帽子を落とした。

ものを落とした人は、落としたことを知らないので、相当大きな声をかけてあげないと気づかずに行ってしまう。
だから、勇気を振り絞って大声でいうのだ。
「落とされましたよ」
落とされた、なんて敬語で言うのもなんか変な感じだが、
本当はどういえばもっともスマートなのか。

いずれにしても疲れる。
なんでこんなことがいちいち気になるのか。
人に声をかけるのがもっとも不得意な僕に課せられた課題なのだろうか。
どうか僕の前でものを落とさないでくれ、という思いとともに、
どうぞ皆さん落としてください。私が拾って進ぜよう、という気持ちがあるのが、
今日の不思議。

正月休み総括

去年の12月28日から1月4日までが会社の年末年始連休だった。
まとめて日記に記す。

12月28日
自宅リビングと寝室の窓に断熱シートを施すことにした。二重窓にリフォームするのは大変だし、安価なDIYでできるならと思って実施。調べてみると、プチプチタイプのシートを水で直接貼り付けるのが一番楽そうだったが、うちのマンションのように格子線が入っている窓ガラスでは、内外温度差で割れる危険性があるから使えないとのこと。確かにガラスのような脆性材料は、中に鉄線などの異物が入っていると欠陥となって破壊しやすいとは言える。鉄線は、割れた時にガラスが飛散しにくいよう、あるいは、大きく割れないように入っているのだと思われる。
ガラスのように熱伝導率が低い材料は温度差がつきやすく、薄いガラスの表裏面に温度差がつけば割れるだろう。
何も処置されていないガラスの場合、外の寒気と室内の暖房による暖気とによって温度差が大きくつきそうなものだが、寒気にさらされた薄いガラス板の温度はさすがに(熱伝導率が低いといっても)下がり、ガラスの室内側の表面温度もある程度下がるはず。それによって、ガラス近傍の空気も冷やされて結果的にガラス表裏面の温度差は小さくなるのだろう。1枚ガラスの部屋は、窓が開いてなくても、あたかも窓から冷気が入ってきているように感じるのがなによりの証拠だ。
そこに空気断熱層をもったプチプチシートを貼るとなぜ割れやすくなるのか。つまり、なぜガラスの内外温度差がつくのか、ということである。プチプチシートの断熱層の両側で温度差がつくのではないのか?つまり、ガラスの内面(=プチプチシートの窓側面)は温度が低く、プチプチシートの室内側面は温度が高い、ということではないのか?この方がガラスの表裏面に温度差がつきにくくなるように思われる。
定常状態になったとき、プチプチシートの素材自体が暖まり、その熱伝導によってガラス内面を温めてしまい、結果的にガラス表裏面の温度差をつけてしまうのだろうか。
今のところ、ちゃんとした回答は自分にはない。釈然としないが、事実そうなのだろうから、プチプチシートタイプはやめて、サッシ枠とガラス面とのわずかな段差を利用し、ガラス面との間に空気断熱層を形成する透明シートをサッシ枠に貼るタイプをトライすることにした。
近くのホームセンター「カーマ」に行ったら売ってなかったので、少し遠いが「ケイヨーデーツー」まで足を伸ばしたら、特別価格で販促していたのでラッキーだった。これを窓枠分だけ買ってきて午後から施工に入った。
やり始めるとなかなか面倒くさい。1枚仕上げるのに40分くらいかかった。結局夕方までにリビングの6面と寝室の1面しかできず、寝室の残りは翌日に仕上げることにした。
効果のほどは、というと、なんとなくありそうという程度だった。少なくとも、結露は無くなった。つまり、断熱シート自体の温度は冷えてないということだ。室内暖房の設定温度を2℃くらい下げてもよい感じがする。

12月29日
足りない断熱シートを買いに行き、昼までに寝室への施工を終了した。やれやれ。考えてみると、断熱シートは室内の暖房の熱を外に逃がしにくくすることに効果を発揮するのだが、寝室は暖房を使っていない。もともと寒い部屋なので、いくら断熱してもあたたかくなるわけではない。極寒の早朝の外からの冷気が入りにくくはなるだろう。それに期待。

12月30日
午後、YOGA特別クラスに行った。先生がインド歌謡の歌手でもあり、パートナーがタブラというインドの太鼓の名手でもあって、それらの音に乗せてのYOGAと、レッスン後の歌のセッションを楽しんだ。新年を迎えるに当たり、シヴァ神のマントラを歌ってくれた。インドには行ったことはないが、インドの人たちの心に思いをはせた。

12月31日
午後、豊田市の実家に家族で帰省した。妹はジルベスターコンサートのチケットを手に入れて東京に行っている。家では、年老いた父母と我ら3人とで大晦日を過ごした。昼過ぎにお墓参りをしたくらいで、あとはごろごろしていて夕方からご馳走をいただいた。夜は、カミさんと二人で別室でNHKのクラシック音楽番組を見た。
ジルベスターコンサートをテレビで11時半過ぎから見た。妹が見に行っているやつだ。毎年、1月1日の0時0分にちょうど曲の演奏が終わってクラッカーを鳴らすのが習わしだが、今回は、ラヴェルのボレロがラスト盛り上がりすぎてスピードが速くなり、5秒も早く終わってしまった。クラッカーが鳴るまでの5秒の間がとても長く感じられた。ボレロが終わっても拍手喝采が起きない、という異常な状態は初めて目にした。ちょっと面白い光景だった。

1月1日
普通のお正月
遅い朝ごはん
近くの神社に初もうで。おみくじは小吉。
カミさんは一足先に家に戻り、ピアノの練習
昼ごはんを抜いて3時におやつ
夜は妹が帰ってきて遅めの食事

1月2日
朝、娘とふたり、家に戻る。
年賀状を確認して、一人だけ出してない人から来ていて返事を書いた
夜はカミさんの実家にお呼ばれ、腹いっぱいになって帰宅

1月3日
年末に通販で買っておいた大豆と米麹を使って味噌を仕込む。
初めて味噌を仕込んだのは何年前か。あいち生協が味噌セットを売っていたので買ったのがきっかけ。最初はカミさん主導で仕込んだ。あいち生協で2回目を購入したときは、自分が仕込んだ。
3回目は、静岡市の鈴木こうじ店から取り寄せたセットで仕込んだ。このときは、生麹を使った。この味噌を今、毎日使っている。自分でもなかなか気に入っている。そして、これらがあと2か月くらいで無くなることに気づいて、今からでは遅いのだが、次の味噌を仕込むことにした。早くても5か月は寝かせたい。
今回は、豊橋市の糀屋三左衛門から取り寄せた。麹は乾燥麹。水で戻して使うのと、味噌酵母を足すのが特徴だ。
前日に水をはった大鍋に乾燥大豆を入れて一晩、水で戻したものを6時間煮た。最初は丁寧に灰汁をすくい、あとは弱火でゆっくり煮た。煮ている間に麹の準備をした。午後3時ごろ、柔らかくなった大豆を潰す。以前まではすりこ木で大変な思いをしてつぶしたが、今回は、バーミックスを使った。楽ちんだ。あとは、粗熱をとって、麹と塩を混ぜ、味噌玉にし、保存容器に投げ入れて空気を抜きながら詰めた。塩とラップをし、袋に入れた塩を重石がわりにのせ蓋をして冷暗所に収めた。
さて、6月か7月には食べられるだろう。なんだか、今度の味噌は今までのなかで一番おいしい気がする。仕込んでいる最中の麹の匂いがとても良かったので。(実際の味噌の味と麹のにおいに関係があるかどうかはわからないが)

1月4日
連休も最後なので、少し外に出てみることにした。
まずは名古屋駅に行き、高島屋にある本屋で「デザインの教科書」(講談社現代新書)を買った。欲しかった「バガヴァッド・ギーター」はなかったのであきらめた。東急ハンズも物色したが何も買わず、ミッドランドスクエアに行く。地下1Fにある箸の専門店で、家族3人の新しい箸を求めた。江戸箸職人の手による先が細くて使いやすい箸を買った。一膳2000円前後のものだ。このお店には一膳1万円を超えるものがざらに陳列されている。あまりに多いので何を買っていいのか最初は迷ったが、お店の人に使いやすい家族の箸を、と言ったら手ごろなものを勧めてくれた。ありがたい。
今使っているが、使いやすさは確かだ。
名古屋駅から大須に移動して、電機屋やまんだらけを物色。目当ての漫画(高階良子の「グリーンエンゼル」絶版)もなく、何も買わずに帰ろうかというところで昼ごはんの時間。たまたま沖縄物産店があって、沖縄そばとジューシーのセットを注文して食べた。
その日は夕方から頭痛がして、早めに寝た。

結局この連休中、まともに行なったことといえば、窓の断熱シート貼りと味噌の仕込みというところか。
あとは、会社で借りた「いまこそ出番 日本型技術経営―現場の知恵は企業の宝」を読んでレビューを書いたくらいか。これはちょっとつらい仕事だった。

そして実は、ずっと心の中では、自分には目標というものが無いということ、最近言葉が少なくなってきたことについて、考えたり、考えたり、考えたりしていた、というのが正直なところである。
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