直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2012年03月の記事

名曲あれこれ

NHK教育テレビのN響アワーが放送終了するにあたり、2週連続で過去の名演をダイジェストで放送する。
先週の第1回目をビデオに撮っておいて観た。

ホスルト・シュタイン指揮のニュルンベルクのマイスタージンガー、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮のブルックナー第8番、ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮のブラームス4番などが流れた。

マタチッチと言えばブルックナー、ブルックナーと言えばマタチッチであるが、今回放送された8番の終楽章には感動した。亡くなる10か月前の演奏という情報や司会者らの前ふりも影響したとは思うが、マタチッチの表情を見ていると、彼の上半身からブルックナー8番の音楽が流れだしているように見えた。大きな動きはないが、口元、目元、振りの小さい両手の指揮ぶりからすべての音があふれ出しているようだった。終楽章のラストの部分だけだったが、終わると涙がこみ上げてきた。

一方、サヴァリッシュのブラームス4番の終楽章には、マタチッチのような感動はなかった。曲そのものの性質だろうか。終了後のテロップに指揮者が分析した曲の解説が流れ、その中に「無慈悲」というキーワードがあった。確かに終楽章にはロマンティックな激情的な香りはなく、無慈悲という言葉が似合っている。聴き終わった後に無慈悲という言葉を目にして、記憶が操作されたせいもあるかもしれないが、理知的な風貌のサヴァリッシュによる無慈悲なその音楽とその演奏には涙とは無縁な、しかしながら完璧な演奏を聴いたという感想が残っただけであった。
一時間の番組の中に、これだけ対比的な音楽表現に出会ったことは面白い経験である。

先週、名古屋フィルから2012年度の演奏会の案内が送られてきたので、思い立って定期会員になることにした。カミさんは時間がとれないかもしれないので今回は自分ひとりだけ。毎月、定期演奏会を聴くことになる。月に一度くらいは生オケを聴く時間を取ってもいいだろう、と思ったのだ。土曜日ならたいていは都合がつくし。楽しみなのは、ラフマニノフの交響曲第3番(珍しい)、リストのメフィストワルツ、リムスキーコルサコフのシェヘラザード、ラヴェルのマ・メール・ロワ、マーラーの第3番。それから、数知れぬ初めて耳にする曲たち。
名フィル以外にも、すでに5月、7月、9月にオケやピアノリサイタルのチケットを買っていて、何だか今年は音楽漬けの一年になりそうである。
スポンサーサイト

2011.3.11 新日本フィルのマーラー5番の演奏

震災の日の新日本フィルの定期演奏会の模様を演奏家と聴衆へのインタビューを交えて紹介する番組が昨夜NHKテレビで放送された。ダニエル・ハーディングの指揮でマーラーの交響曲第5番の演奏であった。

その日、僕は千葉市内におり、JR全線運休して帰宅できない状況であった。なんとかホテルに入ることができ、余震に怯えながら一夜を過ごした。同日、東京都墨田区では新日本フィルのマーラーが演奏されていたということは最近まで知ることはなかった。

昨日の放送によれば、まず演奏をするのかしないのか動揺する楽団員の様子や演奏を決行することになったあたりの様子を紹介していた。中には東北にいる親戚の安否を心配するメンバーもいた。演奏を反対する者もいた。

聴衆は全部で100人ほどだった。演奏するならどうしても聞きたかったという古くからの新日本フィルのファンの方は、鉄道がストップしているなか、道に迷いながら2時間歩いて聞きに来たという。

楽団員達はすでにテレビで津波の映像も見ている。始まる前まではとても平静ではいられなかったが、演奏が始まってからは異常な集中により言葉では表現できない特別な音楽の世界を作り上げていった様が何人かの演奏家の言葉から窺えた。マーラーのこの曲の第一楽章の冒頭はトランペットの一吹きから始まる。担当の奏者の緊張やいかに、と思われた。本人も特別な不思議な感覚だったようだが、最高の音が出た。他の団員は彼の一吹きにその演奏の成否をかけていたという。そうして始まった第一楽章は葬送行進曲である。震災で亡くなられたり被害を受けた方がいることを思いながら演奏者も聴衆もその音楽の中に埋没して行ったに違いない。第4楽章のアダージェットは、有名な緩徐楽章で大変に美しい旋律のなかにもの悲しさと優しさを備えた名曲である。ここでもハープ奏者は、もう二度とできないような演奏ができたと語っていた。終楽章は最初にホルンの一吹きがある。ホルンは冒頭からいきなり鳴らすのは大変に難しい楽器であり奏者にとってこの曲は大変つらいらしい。彼はしかし最高の一吹きを奏でた。親戚の無事を祈る楽団員は、この一吹きが成功すれば、親戚は助かると思って祈っていたという。果たして、数日後、その親戚の方が無事だったと知らせを受けたそうだ。

聴衆のひとりは、この演奏会に行ったことを他の誰にもしばらくは言えなかったと吐露していた。罪悪感である。多くの人が震災被害を受けて苦しんでいる時に音楽を聴いていた自分は許されるのだろうかと。このような気持ちはよくわかる。自分も千葉で怖い目にあっていたとはいえ、単に当日帰宅できなかっただけで怪我もしていないしたいした被害を受けていない。その後の何日何週間は、このブログに何を書いていいのか迷ったし、遊びに行ったり何か趣味を楽しんだりということに、特別な理由付けを求めていたのを覚えている。そういう気持ちを慰めるために、例えば、ほぼ日刊イトイ新聞の「今日のダーリン」のコメントに救いの言葉を毎日探していたのを思い出す。
先の演奏会に行ったことを誰にも言えなかったという婦人は、6月に同じ楽団、指揮者、曲で行われたチャリティーコンサートに寄せられた指揮者ダニエル・ハーディングのメッセージを見て何とか意味を見いだせたと語っていた。おそらく、次の部分だと思う。

「私たちの地球は生きています。このような悲劇や悲しみをもたらす地質学的活動がなければ、地球上に生命は存在しません。これは退屈でつまらない矛盾で、ずたずたに傷つけられた人々に何の安らぎももたらしません。人間が作り出した偉大な創造物の中で、恐らく音楽はそうした苦しみの大きさや背景を理解することの助けになります。また音楽は私たちを癒してもくれるのです。」
(全文はこちら

昨日、この番組を見て、とぎれとぎれではあるが演奏の一部を実際に耳にして、(思い込みも大いに効いているとは思うが)尋常でない音が奏でられていたように感じた。不謹慎かもしれないが、この演奏全曲を聴いてみたい衝動に駆られた。それでCDなどが販売されていないか調べてみたが無いようであった。しかし、仮にCDが将来販売されてそれを聴くことができたとしても、別の時空で聴く限り当日の演奏そのものは再現されない。演奏家の思いも伝わってこないだろう。音楽の演奏は月並みの言葉ではあるが、まさに一期一会である。その時、一人でも聴く人がいれば、その人のために演奏家は演奏するし、その日その時刻の様々な想いを乗せて音を奏でる。同じ時間と空間を共有する聴く側の人も、その音にその時の自分の想いを絡ませながら聴くわけである。

その日の演奏を羨ましがってはいけない。その日僕は千葉にいてふるえていたのだ。それが人生というものだ。

結婚記念日に思う

3月10日は結婚記念日です。
平成3年3月10日。語呂がいいので年まで覚えています。
トミトミさん、結婚式の司会ありがとうございました。

21年も経ちましたが、まあ仲良くやってきています。
週末には一緒にヨガのレッスンを受けに行っていますが、夫婦で来ている人は今までに一組見ただけで、そんなにはいません。今日もインストラクターの代行の先生から夫婦でやってるのがうらやましいと、僕が他ごとしている間にカミさんに言ってたそうです。先生も結婚しているけれども、ご主人はヨガに全く興味を示さないとか。
夫婦だから同じことに関心を持ち、同じ趣味を持ち、同じ価値観を持つ、なんて必要はないと思いますし、お互いに違っているから面白いわけですが、相手が一番関心を持っていることに対して全く無関心だというのは何だか寂しいですね。とはいっても関心がもてないのは仕方がないことで本人に悪気はないのでしょう。ほんとに人の関心の矛先や物の捉え方は千差万別で話が通じない人だらけなのだこの世の中です。たまたまヨガについては関心の程度が違うことを予め予見できずに(あるいはわかっていたにも拘わらずか)二人が何か別の機縁から一緒になったのだから、結婚したことの意味にまでは立ち入ることではないのでしょう。

僕たちの場合は比較的同じことに関心を持っているほうです。というか、僕が感化されることが多い気がします。
影響を受けていますが、突き詰めると、そのことへの対し方は違っています。
例えばヨガにしても、それによって得たいものも感じていることも効用も実は同じではありません。
二人の独自の志向によってヨガというものを受け止め自分なりに処理し意味づけしているのです。

一緒に生活しているので、題材が共通化するのは自然な成り行きです。同じ題材をどう料理するかが個性なのだと思います。それぞれが楽しんでいる限り諍いは生じえません。これがちょうどよい夫婦の付き合い方なのでしょう。

カミさんはピアノを弾きます。僕はそれを聴きます。なんであんなに手が動くのかといつも思います。もちろん、世の中のピアノを弾く人すべてに同じ感想を持つわけですが。とりわけ、自分と同居して、ごはんを作ってくれる「その人」が「その手」でショパンを弾くのを見ると何だかとても不思議な気持ちになるのです。最近ちまたで「リスペクト」という言葉をしばしば聞くようになりましたが、本来の「尊敬」の意味でカミさんに使いたいと思います。(リスペクトという言葉を尊敬という意味でなく、パくるという意味でも使っているらしいので、なんだか気に入りません。だから日本語で尊敬っていえばいいのに。)
手指が自在に動いてピアノが弾けるというだけでなく、年齢を経てもひたすらに練習を続けて音楽を突き詰めようとしている姿にこそ「リスペクト」しているのですけどね。

映画『ピアノマニア』


映画『ピアノマニア』 - シネマトゥデイ



名古屋新栄近くの名演小劇場で観た。文字通り、マニアックな映画である。実在のピアニストとスタインウエイ調律師がひとつの音楽を作り上げていく過程をドキュメンタリーとして追った映画である。
ピアノの音の響き方の微妙な違いを議論し、調整し、再度議論しの繰り返しは駆け引きのようで面白いが、音そのものの変化についての彼らのコメントを正確に理解するには骨が折れる。というか、何度か観て聴き直さないと無理だろうと思った。ピアノを弾く妻は、観たあと、それらの音の違いやピアニストがいいたいこと(要求)はよくわかったと言っていた。演奏する本番前には使うピアノの音を細かくチェックし、会場の音響に合わせてタッチを変えてコントロールしたり、といったことを経験しているので、映画を楽しむというより、現場で神経を使う場面を思い出してとても疲れたようだった。ピアノを弾かない自分には、現場の隠れた苦労を映画の中で垣間見ることができて面白かった。ピアノには製造番号がついていて、使うピアノをその番号で呼んでいたのが印象的だった。彼の演奏のために、No.○○を用意する、といった具合だ。
それにしても、調律師のマニアックなこだわり様と、ユーモアある人間性には感心した。そして自分の腕一本で生きていく職人としての仕事のありように羨望を感じた。
つい先日仕事の失敗で上司から強い叱責を受けてやるせない気分が続いていたことも影響しているのかもしれないが、職人としての生き方への憧れが以前に増して強くなった週末であった。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。