直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2012年08月の記事

パソコンのメンテは大変

ここ3日ほどパソコンのメンテで随分と時間を使った。
動作というか反応が遅くなったので、原因を探りながら、いろいろと高速化法を試した。
例えば、
・ディスクデフラグ
  これはある程度効果があったようだ。
  分析したらファイルの断片化がかなり進んでアラートが出た。
・チェックディスク
  すごく時間がかかった。効果は疑問
・レジストリチェック
  専用フリーソフトで実施。不要なレジストリの削除
・テンポラリーファイルなどのクリーンアップ
・Cドライブに「検索を速くするため、このドライブにインデックスをつける」にチェックが入っていたので、これをはずした。外すのにすごい時間がかかった。終わったはずなのに、チェックが戻ってしまっていて、何回もトライ。タスクマネージャでプロセスを確認したら、まだ動いてたので、強制終了。再起動後、また動いたので結局、Process Explorerをインストールして、強制停止。
・ウィルスバスターのチューニング機能で最適化
・不要なプログラムのアンインストール
・ダウンロードフォルダにある不要なダウンロードファイルの削除
・システムが入っているCドライブのディスク空き容量が半分くらいだが、少しでも減らすためにDドライブに写真データなど大きめのファイルの一群を移動。

ここまでやってもまだ動作にストレスを感じる。
動画を見てもぶちぶち切れ切れ。
音楽もスムーズに聞けない。

ふと気が付いて、電源の管理の設定を見たら、省エネモードになっていた。
これかも! と思って、パフォーマンス優先に変えてみた。

これが3日目のこと。ようやくパフォーマンスが上がった。一番単純な設定が原因だった。
いろんな無駄なことに心を囚われて無為な時間を過ごしてしまった。
うまくいかないと睡眠時間を多少削っても、あれやこれやと手を打ちたがる。
あきらめられず次の日も次の日もしつこく調べる。
そういう自分の性格はわかっていたが、結果があっけないと何だかなあ~
という感じで、いまひとつなんだな。

でも、今はすごく動きにキレがあって気持ちがいい。はっきりと違いが出るのが心地よい。
せっかちで現実主義者なのかな、ぼくは、実は。
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生き物だらけの日

家族で下山に行った。

とにかく、いろんな生き物に出会った。

鹿
山道で車の前を突然2頭の鹿が飛び出してきた。
つい先日奈良公園で沢山の鹿を見たのとは違う、野生の鹿。
これも鮮やかな茶色だった。
夢のような瞬間。

クロイトトンボ
胴体やしっぽの先端は明るい空色なのに、なぜかクロイトトンボという。
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キイトトンボ
黄色いのでキイトトンボ

ツマグロヒョウモン
タテハチョウの仲間。柿色に濃いブルーが混じったメスの羽根が美しい。
昔は西日本しかいなかったのが、最近は中部地方でもよくみかけるようになったという。
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トノサマガエル
3匹そろって足元に現れた。ギクッ。そして久しぶり!
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オオヒラタシデムシ
間近にまざまざとみるのは初めてだ。動物の死骸やゴミにたかっているらしい。
そんなこと知らなければ、綺麗で立派な黒い鎧の甲虫だと感心していたところ。
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トンボ各種に蝶各種
オニヤンマ、シオカラトンボ、コシアキトンボ
モンキチョウ、モンシロチョウ、たぶんクロアゲハ

ハチ各種、アブ各種
アシナガバチかスズメバチの仲間やアブの仲間いろいろ
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自動車の窓を開けると何かしら入ってくるので困った。
ハチは黒いものに寄って来るというし、山に来たら覚悟しなくては。

それにしても久しぶりに見た生き物達は、あとで調べてみれば、山間部ではごくありふれた者たちばかり。
今更ながら市街地生活の生き物密度の低さに麻痺していたことを思い知った。
今日の生き物密度が本当は普通なのだ。

今日の目的はブルーベリー狩りと渓流沿いの山荘でバーベキューということでした。
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それにしても良い天気で空がくっきり青かったし雲はくっきり白かった。
そして、田はくっきり緑だった。

根池という龍神がおわしますという山の中の静かな池は、そこだけが妙に静かな空間だった。
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人生の科学

人生の科学 無意識があなたの一生を決める という本を読んだ。

一生を決める、とは大胆に思えたが、人間の行動への無意識の影響は少なからずあるとは思っていたので、興味を持って読んだ。
この本の特徴は、単に学説を説明するという形ではなく、ハロルドとエリカという男女、夫婦の生い立ちから出会い、結婚、事業、晩年までの一生を描く中で、彼らの生き方を無意識がいかに重要な位置を占めたかを都度解説するというスタイルである。二人の人生物語はアメリカンドリームに近い話で小説として読んでもそれなりに面白いが、無意識を主とする人間の心理や脳の働き、経済・社会行動の最近の研究結果を踏まえた解説が適宜挿入されていて、その内容も興味深いことが多かったので、今までにないスタイルの著作であったが楽しむことができた。

二人の物語はさておいて、無意識の働きに関連した説をいくつかここに引用する。
これがこの本のポイントかどうかはわからない。一読後、ペラペラと再読してみて再び頭にひかかってきた部分なので、これらが僕の脳の無意識の部分が共感もしくは喜んで応答した説だと言えるだろう。



本人の自覚としては、自分で決定を下したという感じではない。
先に決定があって、その決定に動かされるという印象だ。
「心には理性でわからない理屈がある」とブレーズ・パスカルはいう。
自分が何を望んでいるのかは後から知ることになる。
例えば、恋人、結婚相手、仕事などがそうである。
意思決定は、理性の仕事ではなく、実は感情の仕事なのだ。

私たち人間は人生において、無意識のうちに感情に基づいて進むべき道を決めていることが多い。


日常生活の中で意思決定する瞬間は数限りない。今、歯を磨こうとするのも、トイレにいこうとするのも、テレビをつけてみるのも、自分で意識的に考えて実行するというよりも、何気なく知らぬ間に足が向いていたりリモコンを操作していたりする。だいたいのことは追認である。電車の時間に間に合うように家を出よう、というのは理性的な意識による意思決定であるが、そういうことは考えてみれば限られている。
就職先を決めるのも大きな意思決定のようだが、思い起こしてみると、今の会社に決めたのは数社を値踏みして選んだというより、友人から紹介された瞬間に決めていたような気がする。おそらくそうだ。会社概要を調査したりしたのは、その意思決定を追認するための作業だったように思う。
結婚についても、おそらく、親戚の紹介で対面したその瞬間か、もしくは、その前に写真を見たときに決めていたのではないかと今は思えてくる(こういうのも脳の働きで、後から、記憶を都合のよいように、自分が気持ち良いように操作しているのだという説もあるが)。



いくつかの選択肢がある場合、そのどれが好ましくて、どれが危険なのかを
ソマティックマーカーが教えてくれる。
私たちが意識して深く考えなくても、個々の選択肢にはソマティックマーカーが付けられるので、
それを手掛かりにすれば、危険な選択肢は最初から検討の対象にしなくてすむ。


ソマティック・マーカー仮説とは、神経学者アントニオ・ダマシオ(1994, 2005)が主張する説で、外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情(心臓がドキドキしたり、口が渇いたりする)が、前頭葉の腹内側部に影響を与えて「よい/わるい」というふるいをかけて、意思決定を効率的にするのではないかという仮説。この仮説にしたがうと、理性的判断には感情を排して取り組むべきだという従来の「常識」に反して、理性的判断に感情的要素はむしろ効率的に働くことになる。)

何か直感的にひっかかってやめておいた方がよいと思うことがあるが、それは身体的感情として無意識が過去の経験(意識上では忘れている)を踏まえて危険と判断しているのだろう。若いころはよくわからなかったが、近ごろ、そういう身体的感情に注意するようにしている。



人間は他人を見るとき「もしあの人と同じ体験を自分がしたらどうなるか」というシミュレーションを頭の中で自動的に行うのだ。そうして他人の感じていること、考えていることを理解するのである。
ミラーニューロン仮説:脳内には他者の脳内の処理を自動的にシミュレーションするニューロンが存在する。
人は他人の経験をまるで自分の身に起きたことのように感じることができる。


こういうことが無かったら、他人に共感するということは一切ないだろう。社会が成り立たない。


プライミング:先行する知覚が後の知覚、ひいては後の行動に影響を及ぼすという現象。
例えば、スポーツの試合の前に「成功、名手、勝利」などの言葉を言ったり聴いたりしただけで結果が良くなる。自分の電話番号の最初の3ケタを書いてもらったあと、チンギスハーンの亡くなった年を聴くと、3ケタで答える人が増える(実際は4ケタ)。


大事な舞台、試験、試合、プレゼンなどの前に、成功をイメージする言葉を聴くと良いということはよく言われることである。逆もしかりで、否定的な言葉をかけられ続けると実力を出せないか失敗する。統計的なデータが無いので気のせいだという人もいるかもしれないが、上記のチンギスハーンの話など、プライミングを試す実験をしている研究例があるそうで、気のせいなんかではなさそうだ。


アンカリング:人間は、どのような情報も単独で処理することはない。情報はすべて他の情報との関係を考慮して処理している。あらゆるものは、他の何かとの比較によって評価される。例えば、$30のワインは$9のワインのとなりにあると高いと感じるが、$140のワインのとなりにあると安いと感じる。

ワインの話はわかりやすさの事例であって、俺はそんなふうに騙されないぞという人もいるかもしれない。確かに、時間をかけて落ち着いて冷静に意識的に考えてみれば、$30は$30である。しかし、ここで議論しているのは、その情報を取り込んだ瞬間の判断である。高いと感じたり、安いと感じたりする感覚は身に覚えがある。こういう人間の認知の癖を利用した広告、陳列方法はすでに商業のノウハウとなっていることだろう。仕事でもアンカリングの影響は大きい。上司がどういう比較情報を持っているかで判断や指示が左右されるのは長年サラリーマンをやっていると経験的にわかる。自分も毎日やっている。できるだけ客観的な判断をするには、一歩引いて時間をおかなければならないだろう。



フレーミング:同じ状況に直面して、事前にどのような情報が与えられるか、また、その情報がどういう形で与えられるかによって見え方がかわり、その後の意思決定にも影響を及ぼす。
・手術の成功確率が85%と言われた人は実際に手術を受ける人が多いのに対し、失敗確率が15%と言われた人は手術を断る人が多い、という調査結果がある。
・スーパーでスープ缶はふつう、1,2缶しか買い物かごに入れないが、「おひとり様12缶まで」と書いてあると、4,5缶入れる人が増える。


ものは言いよう、とはよく言われる。同じ内容なのに、言い方、言うタイミング次第で気持ちよく受け入れられる事があれば、反対意見を言われることもある。これも仕事では日常茶飯事である。だから、報告のタイミングとストーリー選択に苦労するのだ!



慣性:脳は倹約家だ。認知に費やすエネルギーをできるかぎり節約しようとする。
   人間に「現状維持のバイアス」があるのはそのためである。
   誰もが、今の状態は永遠にそのまま続くはずという偏見を持っているのだ。
   現状がそのまま変わらないのであれば、外界から多くの情報を取り入れる必要は無く、
   認知のエネルギーを節約できる。

頑固者というのはこういう脳の働きが強い人の事なのだろうか。企業では新しい情報をどんどん取り入れ、自分を変化させてでも、認識を新たにして新しいことにチャレンジしていかないとダメなのに、もともと人間に「慣性」の性質があるとすれば、そういうものが薄い、もしくは、知っててあえてチャレンジ精神旺盛な稀有なリーダーがいないと、物事は進んでいかないのだなあ、と納得してしまう。



無意識は衝動的で、目先の報酬に飛びつきやすい。無意識はとにかく今、気分よくなりたい。苦痛や恐怖からはできる限り逃れようとする。


何気なく行動しているときは、きっとこうなんだと思う。大勢の集まりの中で、これに素直に行動できている人にその集まりが支配されていると、本能的に逃げたくなる自分はまさに、逃げた方が良いオーラがありありなのだ。


第一に、意識は無意識に包まれるように存在している。
無意識を抜きにして意識の事を考えるのは無意味なことである。
意識は、無意識から入力される情報を受け取って働く。
目標や方向性についての指示は無意識からなされる。
両者がより合わさって機能することで人間はうまく生きていくことができる。
無意識は意識より強力である。
無意識は遠い過去から蓄積された、本人も持っていることを自覚していない膨大な記憶を利用することができる。
しかし、意識が利用できるのは、ほぼ脳のワーキングメモリに収められた直近の記憶だけである。
無意識はいくつもの要素からなり、それぞれが独自の機能を持っている。
一方、意識は要素に分かれたりはしていない。全体が均一である。
情報処理能力は無意識の方がはるかに高い。


かなり断定的なので、これを証明する研究データがあるのだろう。無意識がとてつもなく膨大な記憶を利用して勝手に判断しているらしいのは、なんとなくわかる。注意すべきは、これが本当だとすると、無意識による判断の起源は、膨大な記憶によるということである。本書には、無意識の判断は生得的なものもある、と書かれている。正義感のようなもの。美しいか醜いか、など、基本的な人の認知は万国共通らしい。そのうえで、生まれた国、地域、家族、その文化、経験によって意識しなくても多くの情報が体験と感情とともに記憶され、無意識の判断に貢献しているのだ。それから、意識が無意識をある程度制御できるともいう。学習ということだ。学校の勉強と同じだ。同じ個所を何度も学習することによって頭に入り問題が解けるようになる。長じてくれば何も考えなくてもすぐに答えが出る。九九と同じだ。スポーツもわかりやすい。名人は、技を行うとき、脳の働きは実に静かだそうだ。
繰り返し、人道支援のボランティアを行っている人は、例えば、大震災に遭遇したときに、すぐに救援行動ができるそうだ。



無意識は身体の各部分が今、どこにあるのかを常に監視している。そのためには、「固有受容感覚」と呼ばれる感覚が使われる。

これはどいうことかというと、例えば自分の足がそこにあるということがわかるという感覚のことだ。これは当たり前のようだが、脳の重要な機能だそうだ。脳の障害によってその感覚が麻痺している人は、日常生活もまともにできないという。苦労して意識的にその感覚を持てるように訓練した人がいるそうだが、その人が突然停電で真っ暗になった瞬間、足がどこにあるのか認知できず、倒れてしまったそうだ。視覚によって身体の各部を認知していたようだ。自分も昔、手術で下半身麻酔をしたときに、足がどこにあるのかわからなかったが、そういう感覚だろうか。
ここに手がある、指があると意識していなくても、無意識が常に監視しているから、パソコンを操作できるし、ごはんを食べることもできるし、歯を磨くこともできる。ということらしい。
今日もヨガのレッスンをしたが、そこでは、呼吸が会陰から脊椎を通って頭から抜けるように意識しましょうと言われる。実際に脊椎を外から押えてみることなしにただ感じることはできないけれども、想像によって知覚しようとする。骨盤とかハムストリングスとか、だいたいは、身体の内部の各部に意識を持っていくように指導されるが、無意識が知覚していることを意識で行おうとしているようだ。この訓練が何の目的なのか、それがわかる境地に達するにはほど遠いレベルだが、自分の無意識を知覚することができるようになるのだろうか。それはまさに瞑想が目指すところである。


私たちの脳はどのような状況についても早く判断を下したがる。大量の感覚情報が絶えず流れ込んでくるのだが、そのすべてについて早く判断をしたいのだ。早く何らかの解釈を加えた上で、情報を処理してしまいこみたいのである。人間は「わからない」ことをきらう。それで、解釈らしきものが目の前にあるとすぐに飛びついてしまう。「わかった」ことにしたいからだ。
謙虚な態度とは、この「わからない」という恐怖に耐える態度である。賢く謙虚な人は物事を急いで理解すようとせず、自制することができる。


ちょっと浅いかもしれないが、思い当たることがある。他人の話を最後まで聞かずに答えたがる人がいる。質問をしている途中なのに、勝手に質問の意図を誤解して答え始めてしまう。たぶん、相手の質問を最後まで聞き終えるまえに、その質問の意図を、自分が回答できる内容の範囲で勝手に読み取ってしまい、早く回答して済ませてしまいたいのだろう。最後まで辛抱強く話を聞いて、その質問という「情報」をきちんと解釈することに謙虚に対処できる人は、思えば少ないように感じる。周りの人で、上記の意味で「謙虚な」人は思い当たらない。
自分は謙虚でありたい。それは上記の意味で。



ヴィクトール・フランクル「夜と霧」
人生の意味について抽象的に考えても無益だ。
あらゆる人の人生に共通する意味など考えても無駄である。
個々の人の人生の意味は、その人が置かれた状況に照らして考えなければわからない。
私たちは自ら学ばなければならない。
また何より、絶望した人たちに教えねばならない。
大事なのは、私たちが人生に何を期待するかということではなく、
人生が私たちに何を期待しているかである、ということを。
人生の意味など問うのはやめよう。
自分の事を日々、刻々と、人生から意味を問われている存在だと考えるべきだ。
答えは常に一貫していなくてはならないが、
ただ言葉や思考の上で一貫していればいいわけではない。
正しい行動、行為をし、その中で一貫している必要がある。


この言葉に出会って、それまでの無意識に関する学説や解釈が子供の遊びに思えてきた。(だから字を大きくした)
フランクルがこれを書いたのは、ナチスのユダヤ人強制収容所である。その人の人生の意味がその人の置かれた状況によって異なると言えるのは、もうすぐ殺されるだろうことがわかっている立場の人だからはっきり言えるのだ。このような状況だから、このように考えることができたのだろうが、そうでなければ気が付かないほど、重要だけど皆わかってないことだ。
正しい行動、行為とは何か。それは自分にはわかっている。誰にでもわかっている。その人にとって正しい行為というものは。人を殺すことが善いことかどうか考えるまでもなく「わかっている」ということと同じように。
そして、正しいと思う行為をだた結果を考えずに為すだけである。(池田晶子さんとバガバッドギーターの教えにまたまた無理やり結びつけてしまった。)

自分は何のために生きているのだろうと考えるのは無意味で、人生は自分に問いかけているのだ、と認識すれば、自分が人生を意味づけする主人公であると本気で気づくことができ、今からすぐに行動できるのである。



悲しいできごと 阿修羅像半壊

今朝起きたらショックだった
阿修羅像が半壊していたのだ

昨夜、直立できるように丁寧に調整したのに
20時ごろから寝るまでの間安定していたのに
夜中に喉が渇いて起きてきたときにも立っていたのに

朝、阿修羅像は上半身が床に転がっていた
下半身の衣部分が完全に前に倒れていた
ひどい状態である
なぜなら足首の角度が90°だったものがほぼ0°に曲がっていたからだ
右足は足首の連結部分の接着部が完全に外れていた
左足は接着部が強かったことが災いして足首がぐにゃりと曲がっていた
幸いなことに紙素材が破れた部分はなかった
上半身も腕も頭部も損傷はなかった
ありがたい

それにしても明け方にそれは起きた
なぜなのか
ずっと直立していたのに
ある時前傾が始まり
一度前傾しだすとあとは重みでどんどん前傾が加速的にひどくなる
最初に前傾しだした理由がわからない
微妙なふらつきの中から偶然起きたことなのだろう
もしくは地震?
これまでも何度か倒れたがその瞬間は見ていない
これほどまでに慈しんでいるのに
なぜ?

そもそも足首から曲がって倒れたのには理由がある
前傾がひどくなっても素材の強度と接着強度で持ちこたえてくれることを期待して
基台の後方に重りを載せておいたのだ
これが災いした
基台はそのままの位置を維持しようとしたため
一番弱い足首に全重量がかかってしまったのだ
重りがなければ基台ごと前に倒れただけで済んだはず

余計なことをしたと悔やんだ
一日中悔やんでいた

帰宅して修復にかかった
足首の接着をやり直した
組み立てたもの同士の接着は接着部を直接指で押さえることができない場所が多く難儀する
一度ぐにゃりと曲がった紙は癖がついてもとの強度に戻らない
修復は不完全にならざるを得ない
それでも次なる対策によれば多少のことは耐えてくれるはずである

もともと前傾をひどくしないようにするアイデアはあった
それを昨夜念のためにやっておけばよかった
何となく気がかりだったことを思い出す
念のためにやっておけばよかったのに

つまりそのアイデアというのはこうだ
腰に細い糸を巻きつけて後ろから残りの糸を垂らす
基台の後ろ側の角に孔をあけて糸を通して縛る
糸の長さはうまく調整しないといけないが
前傾がひどくなろうとすると糸がピンと張って胴体を前に行かせないようにする
簡単な仕組みだ
糸は細くて像と同系色の茶色を使えば目立たない
つまり下の写真に赤線で示したように糸を張る
DSC01888b.jpg

これで前に倒れないはずだ
実際にはこの写真ほど前傾させず
ほぼ直立に近い態勢に調整した

ちなみに写真の基台の後ろにある2つの円形のものは重り替わりに使っていたティンシャである
ティンシャはチベットの仏教道具で二つの円形の金属盤を互いにぶつけて打ち鳴らすと
とても気持ちの良い高い響きで尾をひくように鳴る (ちーーーーーーーん)

とにかくこれで安全なはずである
明日の朝は今朝のようなショックを受けなくて済むことを祈る

ではおやすみなさい!

中学校校歌が突然!!

12日(日)に中学校の同級会に出席した。
ずっと以前に1回やったらしいがその時は欠席したので、実質、卒業以来初めての同級会である。

35年ぶり

顔と名前がわからなかったらどうしようと小心者の僕は、事前に卒業アルバムを見てから行った。
卒業アルバムには、校歌の歌詞が書かれていた。
自分でも驚いたことに、メロディーが全く浮かんでこない。3年間歌った校歌なのにどうして思い出せない?

同級会の席でも最後に校歌を歌おうということになったが、歌えない。
音頭取りが1番の最後のフレーズをまず歌ってから皆で歌い始めた。
何となく思い出しつつ、でも音を外しながらついていった。
しかし、依然として朧なままだった。
で、同級会が終わると、そのまま校歌の事などは忘れていた。

ところが、今朝、会社でメールチェックしていると(それは10時30分ごろ)、
突然、頭の中で中学校の校歌が鳴り出した。

六所の嶺の 空遥か 希望の虹をかけようよ
朝だ 心の窓開けて 我ら楽しい夢を見る
けだかく匂う花のように
競え 中学 松平

歌詞もメロディーも完全な音楽が頭の中で鳴り響いたのである。

びっくりした。

つい先日みなで歌っても全部は思い出せなかったのに、今朝、突然、歌詞カードもなく頭の中で歌えてしまったのである。
僕の頭はどうなっているのか。記憶というのはこんな風に、意識下から突然立ち上がってくるものなのか。

完全に思い出すのに三日かかったということと、思い出そうとは意識的には思っていなかったことから、
記憶の操作というのは実に無意識的なものだということがよくわかる。

人の意思決定は意識よりも無意識の方がより支配的である、とは先ごろ読み終えた「人生の科学」という本に説明されていたけれども、意思決定ばかりでなく、止めどもなく頭に浮かんでくる雑念の起源も無意識の仕業としかいいようがない。記憶の出し入れもそうだ。思い出して自分でびっくりするくらいなのだから。

こういう朧な頭の中と一所懸命付き合って生きるのが人生なのである。
ただし、無意識や記憶を形作るのは、最初は意識的な行為かもしれない。
意識的な行為と自然と入ってくる環境の刺激とが無意識や記憶を編集して頭の中に格納される。
それが、意図的でなく、突然立ち上がる。あるいは実にタイミングよく蘇ることもある。
何度も意識的に考えると、それがいつのまにか無意識に沈む。これが学習ということらしい。
古い記憶も、一度は思い出そうという意識的努力をすると、時間差で思い出される。
意識下で記憶を検索しているのである。
三日間も検索し続けていたのだろうか。休み休みなのだろうか。
それを知るすべはないが、とりあえず、ご苦労さんなことである。

なんだか可笑しい (?_?)

阿修羅補修と大エルミタージュ美術館展

阿修羅像のペーパークラフトが後ろに反って壁にもたれかかった状態にあるので、
何とか直立しないかと何度も組み立て直してみた。
しばらくは直立するが、だんだんと後ろに倒れてきたり、
逆に前傾したりする。

らちが明かないのでペーパークラフトの設計製作者にホームページからアドバイスを求めた。
お盆休みというのにすぐに返事をいただいた。
設計上、本物の阿修羅像よりは前傾させているとのこと。
ならば、少し前傾気味で組み立てて様子をみてみることにした。
昨夜、のどが渇いて起きてみると、果たして阿修羅像は前に倒れて分解していた。
分解といっても、ただ差し込んであった胴体と頭部が離れただけだが。
暗くて損傷は確認できなかったが、それほど痛んでなさそうだったので、
再度組み立てておいた。

朝起きてみると、また前に倒れていた。

悲しかった。そして、畏れ多かった。大変なものを作ってしまったという畏れ多さ。
今回、倒れてばらばらになっただけでも申し訳ない気持ちになったのに、
今後、一生、この像を粗末にはできないと思った。そんなことはわかっていたのに、改めて思い出したのである。

明るい中で確認してみると、何か所か接着箇所が剥がれていたので修復した。
もともと、特殊なボンドを使っていた場所だ。ボンドを塗って時間が経ってから接着すると、ポストイットのように剥がすことができるというものである。すぐに貼れば強く接着できるとも説明されていた。だから、すぐに貼るようにしていたのだが、結局、強い力をかけると剥がれてしまう。
今度は速乾の木工用ボンドを使った。これが一番強い。
腕の付け根や、足の継ぎ目が外れかけていたので、きっちり補修した。

ペーパークラフト設計者に再度アドバイスを仰いだところ、設計上の前傾の角度を図で教えてくれた。
見た感じ、やや前傾かな、という程度なのに対し、自分のはかなり前傾していた。
写真を撮って送ってみてもらったが、同様のコメントだった。
ただ、非常にきれいに製作できているので傾いているのがもったいないとのコメントをもらい、
とても嬉しかった。ご本人は10体も作っているとのこと。その人から誉められたのはまんざらでもない。
なので、余計に傾きを修正したいと意地になってきた。

もう一度、弱そうな接着部分を剥がしてから接着しなおした。
そして、衣のパーツを足に差し込む(足を衣に差し込む)時のクリアランスを可能な限り無いようにしてみた。
ここが緩いと衣パールが前後に揺れて安定しないのかもしれないと思った。

壊れないように慎重に差し込んだ。
結果は何のことはない。きちんと設計通りにきつく差し込めば安定した。今はほぼ直立して小一時間は安定している。設計者の方は10体作って一度も反ったり倒れたりしたことが無いと仰る。設計通り作って組み立てをしっかりすれば大丈夫なわけだ。
なぜ自分だけ?と謎に感じていたことがすっかり解けた気分だ。
油断は禁物なので、もう一晩安定して直立していることを確認したら結論づけることにする。

今日の午前中は半ばあきらめ気分で後ろに反らせて壁にもたれかけさせていた。
午後には外出して、名古屋市美術館に大エルミタージュ展を観に行った。
その行き返りの間もずっと気になっていた。帰ってから、衣パーツの差し込みを慎重に行ってみることに気づき渡来したという顛末である。
だから今は落ち着いてエルミタージュ美術館展について記録をつけられる状態である。



さて、大エルミタージュ美術館展。なぜ「大」なのかよくわからない。
大の字から想像していた程の規模ではなかった。
ただ、疲れずに見て回るにはちょうどよい展示数だったように思う。
同じ作家や同じ時代の絵の展覧会ではないということもあり、歴史を追って、超有名ではないけれど佳作と言えるような有名画家の絵を順番に鑑賞することができた。
お目当ては、昔、名古屋でエルミタージュ美術館展を見たときに気に入った
ヴェルネの「死の天使」
に再会することである。
それ以外にも良い絵に巡り合えたら、と期待もして行った。
意外だったのはルネサンスの油絵が非常に綺麗だったこと。
色がはっきりしていて輝くように発色していたのが印象に残った。特に宗教画がそうである。
裸体の絵が多いが、みな、白く輝くようだったし、バックが暗いからそう見えるのかもしれないが、美しい。
宗教画の中で、クピド(キューピッド)の絵がいくつかあったが、そのうちのひとつは、妙に色気のある表情をした可愛らしいクピドで、「風景の中のクピド」という。木の根元に白衣を敷いて横たわる天使。木の枝に矢筒がかけてあり、地上には弓が投げ置かれている。注意してみないとわからないけれど、キューピッドだから、恋人たちを結びつける愛の矢とそれをつがえる弓をいつも持っているのだろうか。
しかし、どうしてこのクピドというのは肉付きがよいのか。赤ちゃん体型だから仕方がないのか。
にしても顔の表情はどこか大人びている。
別のクピド達の絵は、顔が怖かった。睨み付けるような鋭い目をしていた。

面白かったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ派の絵である。裸のモナリザ。モナリザのように座り、しかし、顔は真っ直ぐ正面を向いて微笑んでいる。髪型はくるくるっとした感じ。口元はモナリザに似た表情である。最初、ダ・ヴィンチの絵なのか、初めて見る絵だと驚き、若干アンバランスな上体と顔の表情に何か普通の絵とは違う、と感じさせるものがあったが、結局は、ダ・ヴィンチの弟子の絵だということだ。
変わってはいるけれど、そして、気をひく絵ではあるけれど、好きという感じではない。

時代が新しくなり、印象派やキュビズムの絵もいくつか展示されていた。モネ、ルノワール、マティス、ピカソと言った有名どころも、あまり馴染みのない作品がひとつずつの展示で少し寂しかったが、今回の展示の企画としては致し方ないところだろう。

400年間の西洋絵画の系譜を追って見てくると、自分が16世紀から18世紀までの絵を基本的に好む傾向にあることがわかる。比べてしまうと、印象派の絵はその良さがどうもよくわからない。
自分に素直になると、結局そういわざるを得ないのだから仕方がない。

クピドの上目使いの妖艶な表情は気に入ったので、カミさんと相談して小さな額絵をお土産に買った。
ついでに、つぼ押しキットも買った。自分で彩色する。ツボコン2012募集中だそうだ。
これを描こう!という気になったら描いてみよう。気に入ったらツボコンに応募しようかな。

ペーパークラフト 製作記録その11

二つ目の手を作った。しばらく他の事に紛れて、夏風邪もひいたりしていて手が付けられなかったが、今日の午前中に左手ひとつを仕上げた。

やっぱり、胸の前で両手を合掌している姿はいいな。

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前も書いたかもしれないけれど、赤ちゃんの手のような大きさなので、細かい作業がなかなか大変。きれいに仕上げるのが難しいけれど、あとでお化粧でもしようかな。


あと手を4つ作ったら完成だあ!

奈良遊び

7月31日に奈良に遊びに行った。

  興福寺 ~ ならまち ~ 奈良ホテル、ゆっくりと真っ青な夏の空の下を歩いてきた。

奈良には鹿さんがいる。当たり前にいるので、鹿なんか珍しくないからたいして興味ない、
なんて思っていたが、興福寺境内の入り口で早やお目見え。
鹿だ! いるいる  いるいる  あ、こっちくる! 
なんて結構嬉しかった。
記憶にある鹿と色が違った。茶色が濃くて鮮やかだ。立派なつのをもつ彼を見ると自然物の造形に敬意を表したくなる。記憶にある象徴としての鹿、画像としての鹿と違って、当たり前だけど「動いている」。生ものは新鮮だ。
鹿を見ただけでこんなにわくわくするとは期待もしてなかったものだから、それだけで来てよかったと内心嬉しくなっていた。横を歩いていたカミさんには言ってないけど。
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さて、興福寺

まず目の前に現れた東金堂と五重塔。天気が素晴らしく良かったせいか、それらは広い空間の一部を切り開いて、周りの空間を押しやり、そのためか、周囲の空間の密度が濃くなっているかのような存在感を見せていた。
大型建造物だからかもしれない。あるいは、他に大きな建物が無いからかもしれない。
例えば会社への通勤途中に五万と見ている人家やビルや商店やらは同じように空間の一部を占めているはずなのに、二次元的というか、そこにただ配置されているだけで何の存在感も漂ってこない。

つまり、視界に入った瞬間に圧倒されたってことである。

いくつか写真を撮ったけれどもなかなかそんな感覚を表現できるものは無い。それに、五重塔はちょうど逆光になっていて色合いもいまひとつ。全景ではないけれど、うす雲を掃いたような夏の空が似合っていた一枚。
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東金堂の仏様、菩薩様、四天王、十二神将を拝ませてもらい、次に国宝館へ。
月並みだけれど、阿修羅像の本物を見れることに心躍らせて入った。
ここは阿修羅像だけでなく、多くの貴重な、そして教科書なんかにも出てくるたくさんの仏像が収められている。

山田寺の仏頭。首から上だけで、しかも後頭や片耳が損壊しているが、白鳳美術の傑作として名高い。その大きさに対し不釣り合いなほど美しい顔のラインに魅入ってしまう。

龍燈鬼、天燈鬼。ふだんは仁王様や四天王に足蹴にされている邪鬼が、この場合は、どっしりと立ち構えて燈籠を抱えている。非対称のバランス。踏ん張った両足の力強さの彫刻表現がすばらしい。

金剛力士像。阿吽の2体。全身筋肉隆々。これだけの裸像彫刻はギリシャ彫刻やロダンの彫刻の筋肉表現よりも姿態の美しさの点が加わり余程優れているのではないか。

八部衆。少年の顔つきの像が数体。これらを作らしめた光明皇后とは、いったいどのような感覚の持ち主だったのか知りたい。阿修羅像をあのような姿に作らせた光明皇后とは何者なのか。地位の事ではない。どう生きたら、あのような像の創作を指示できるのだろうか、とても想像できない。
この時代の仏像彫刻の意匠は、時代を超えてハイセンスであり、かつ、人を畏怖させるオーラをまとっている。
それを善しとした感覚は、実に1000年以上前の人々のものだということが驚異なのである。

八部衆のひとり、阿修羅像にじっくり対峙した。ペーパークラフト製作で細かい部分の形や模様が記憶に入っているので、本物を見ると懐かしいようであり、また生もの感覚もあり、新たな気づきもあり、そして、なんと実物は美しい品を湛えているのかと感動したりもした。この「本物」が目の前にあるということ。そして、自分が居なくなっても、ずーっとここに「在る」「居る」ということの不思議さ。とてつもなさと不安、そして愛情の念が一度に押し寄せてきた。
ここにこれて良かったと思う。付き合ってくれたカミさんにも感謝!


さて、ならまちで昼食を、と予め目星をつけていた古民家カフェを探したが見つからない。さんざん歩き回り、最後にガイドマップにあった「中川政七茶房」に入った。運の良いことにここも古民家を使った食事処で、品の良い雑貨も売っていた。ランチはお重のセットもの。器も味も接客も庭の眺めもすべて善し。また行きたいと思った。
ちょっとした器だけれど面白い↓ デザートの器。
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最後に奈良ホテル。
ここは格式のあるクラシックホテルで、明治時代の創業。賓客も多数宿泊されたということで、アインシュタインが弾いたというピアノが置かれていた。
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一流ホテルのラウンジでお茶をする。多少値段は高くても、それ以上の価値があるとカミさんの進言に乗って来てみた。調度品しかり、建物のデザインしかり、見て感心して、自分の感性も磨きつつ、伝統と気品の雰囲気のある空間に身を任せてゆったりとした時間を過ごす。贅沢に時間を使うのも善し。
ラウンジからの緑の庭の眺めは目に優しい。全面ガラス張りの広い廊下のような場所にテーブルを並べた粋な作りである。
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テーブルの砂糖の器と小さな花のグラスも何ともセンスがいいではないか。
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   ほんもの    由緒正しさ

これがこの日のキーワード。あとは自分を磨けって?
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