直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2013年01月の記事

名古屋フィルについて思うこと

昨年の4月から名古屋フィルの定期会員になって毎月定期演奏会を聴いている。まだ2月と3月が残っているが、どうもしっくりこないのでちょっと考えてみた。しっくりこない、というのは、聴いても何も感じないことが多いのである。今日など、J.ウィリアムズのスターウオーズ組曲は勇ましいファンファーレと圧巻の終曲で大いに盛り上がって終わったのだが何も胸に響いてこなかった。声援を送りながら拍手をする人も多かったので自分は不感症なのか、とちょっと疑っている。曲が終わって胸が熱くなるようになることは過去の様々な演奏会では何度もあったが、定期演奏会ではそれがあまりない。曲を聴きたくてチケットを買っていく演奏会と、曲を選べない定期演奏会ではそもそも状況が違うと言えばそれまでである。しかし、そうは言っても毎月聴きに行くコンサートなのだから、少なくとも確率50%くらいで感動してみたいと願うのは贅沢だろうか。

自分の場合、クラシック音楽が好きだからと言って、皆があまり知らないような曲まで探索してまで聴くことは無いし、有名どころの名曲プラスアルファくらいしか知らない。
でも、今年度の定期演奏会のプログラムはあまりにもマイナー(と思う)な曲が多く、それらが一度聴いただけで感動するほどの曲とは思えず、不感症的になるのも仕方がない、という仮説を立ててちょっと整理してみた。

プログラムは下記のとおりである。横に〇×△を2つずつ書いたが、最初のは知ってた曲かどうか、2つめは良いと思った(少しは何かしら感動した)かどうかの判定である。


4月
フンパーディンク: 歌劇『ヘンゼルとグレーテル』前奏曲   
× △
ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 作品73『皇帝』 
〇 △
シベリウス: レンミンカイネン組曲(4つの伝説曲) 作品22  
× 〇

5月
リゲティ: コンチェルト・ロマネスク(ルーマニア協奏曲)   
× ×
モーツァルト: オーボエ、クラリネット、ホルンとファゴットのための
協奏交響曲変ホ長調 K.Anh.9(297b) 
× 〇
コリリアーノ: 『ハーメルンの笛吹き』幻想曲(フルート協奏曲)
× 〇

6月
スメタナ: 交響詩『ブラニーク』(連作交響詩『わが祖国』より第6曲)
〇 △
モーツァルト: 交響曲第38番ニ長調 K.504『プラハ』        
〇 △
マルティヌー: リディツェ追悼                  
× ×
フサ: プラハ1968年のための音楽 [管弦楽版]            
× △

7月
バックス: 交響詩『ティンタジェル』 
× ×
ウォルトン: ヴァイオリン協奏曲   
× ×
ラフマニノフ: 交響曲第3番イ短調 作品44 
× ×

9月
グルック: 歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』より「精霊の踊り」 
△ ×
モーツァルト: ピアノ協奏曲第26番ニ長調 K.537『戴冠式』      
〇 △
ブラームス: 交響曲第1番ハ短調 作品68               
〇 〇

10月
マスネ: 組曲第6番『おとぎの国の風景』     
× ×
ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 作品1 
× ×
ショスタコーヴィチ: 交響曲第10番ホ短調 作品93 
〇 △

11月
リスト: メフィスト・ワルツ第1番 
〇 ×
シューマン: チェロ協奏曲イ短調 作品129 
〇 〇
ブルックナー: 交響曲第2番ハ短調[ノヴァーク版] 
〇 △

12月
ラーション: 田園組曲 作品19  
×
バルトーク: ヴィオラ協奏曲 Sz.120[シェルイ版] 
×
リムスキー=コルサコフ: 交響組曲『シェエラザード』 作品35 


1月
バーンスタイン: 『ウェスト・サイド物語』からのシンフォニック・ダンス
△ △
コープランド: クラリネット協奏曲 
× 〇
バーバー: 弦楽のためのアダージョ
〇 △
J.ウィリアムズ: 映画『スター・ウォーズ』組曲 
〇 △

2月
ディーリアス: 楽園への道  
×
ラヴェル: バレエ『マ・メール・ロワ』組曲  

エルガー[ペイン補筆完成]: 交響曲第3番ハ短調 作品88 
×

3月
マーラー: 交響曲第3番ニ短調 


33曲中、知ってた曲は14曲である。「よかった」と思った演奏は5曲である。(1回は体調不良で聴いておらず、まだあと2回はこれからだから、もう少し増えるかもしれない)
よかったと思えたかどうかは曲によるところが大きいのだろうと思うが、演奏そのものの質、出来も否定できない。自分が曲に集中できない状態だったこともあったろうし、感性が鈍っているのかもしれないし、何が決定的な要因なのか特定はできない。

個別にチケットを買って聴きに行く演奏会との違いは、聴きたい曲を選べるかどうかだと書いたが、もうひとつ違いがある。それは一緒に行く人がいるかどうかである。隣にカミさんがいるかいないかである。
定期演奏会には一人で行っているので誰とも一言も話をしない。

うまく説明できないが、もしかしたらそれが影響しているのかもしれない。
音楽を楽しむというのは純粋に個人の営為だと思っていたが、そうでない可能性もある。
同じ音を共有しているという感覚。相手が集中している気配を感じて触発されたり。
曲の合間にする会話に刺激されて、あるいは、「今日は音がいいね」と言われたら、それまではそう思ってなくても、そんな気がしてきたりする、等々。
少なくとも自分はそういう聴き方をしているような気がしてきた。

もちろん、選曲がよくない説も捨ててはいない。しかし、初めて聞く曲でも、一緒に聞く人がいたら違って聴こえるかもしれないと思うのだ。

しかし、だとすると、これからも一人で行く定期演奏会を楽しむためには、他の聴き方を開発しなければならない。さてどうすんべか・・・。
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ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その6

この土日は大学入試センター試験で娘はぶつくさ言いながら出かけ、ぶつくさ言いながら帰ってきた。
自分の子供が受験だからといって心配になったり不安になったりという感じは正直あまり無い。
どんな点数にせよ、どこを受けるにせよ、どこに受かるにせよ、どこかの大学に行くことに決まればそれでよしとする。やりたい勉強をやれるところで頑張って勉強し、なりたい職業についてくれればいい。元気に生きていってくれればよい。
というわけで、ほとんど娘の心配は余所に、レッスンDVDを観ながら「おうちでヨガ」をやったり、サグラダファミリアの製作に勤しんだり、図書館や古本屋に行ったりして過ごした。

サグラダファミリアは、中間地点を折り返したようで、中央身廊、洗礼堂、回廊南部を作った。
身廊というのはなんだろうか。「しんろう」と入力して漢字変換すると候補にでてきたのでそんなに特殊な言葉ではなさそうだ。Wikipediaによれば「ロマネスク様式やゴシック様式のキリスト教建築の一部分の名称で、入口から主祭壇に向かう中央通路のうちの翼廊に至るまでの部分を指す。」だそうだ。
先般作ったイエスキリストの塔の手前につながる。
ということは主祭壇はイエスキリストの塔の内部にあたりそうだ。
作りながらだんだんと教会の構造が理解されてくる。
下の写真の真ん中のやや大きめの構造物が中央身廊である。洗礼堂はと回廊南部が2つあるということだろうか。細かいことは全部組み立ててみないとわからない。

RIMG0049_convert_20130120221159.jpg

残るはA4用紙で12枚分だ。一日一枚、毎週土日を費やしたとして6週かかる。できない日もあるから、あと2か月くらいで完成という予想だ。

ところで、老眼も進行してきて作業しづらくなってきていた。焦点があう場所がきわめて限られてきた。メガネを外して近い距離で見るようにしていたが、それでは姿勢が悪くなる。
ということでメガネ店に行って相談した。会議でスクリーンを見るのもつらくなってきていたので、10m先と15cm~30cmの両方がよく見えるようにしてほしいと相談したが、それは無理と言われた。結局、遠近と中近の2つのメガネを作ることにした。なんだか面倒くさいことになったが、仕方がないのだろうな。

読書メモ: 諸富祥彦「人生に意味はあるか」

V.フランクルの「夜と霧」を紹介するTV番組で解説していた諸富さん(明治大学教授、トランスパーソナル心理学)が書いたというので読んでみた。

なぜか人生とか死とか生きる目的とかに関係する知識を得たくて、関連する本を読むことが多い。「知識を得たくて」と書いたが、自分が思い悩んでそれを解決するためにこういう本を読んでいるのではない。そういうことに最近気が付いた。生きる目的がわからず、こんな苦しい人生を送っているなら死んだ方がましだとか考えている、というのでは全然ない。けれどもこういう本やスピリチュアル系の本やあるいは哲学の本(易しい文章でわかりやすいものに限る)を手に取ってしまう。なぜか。

知恵を得て誰かを救いたいのだろうか。何か周りの人が思い悩み苦しい胸を打ち明けてきたときに相談に乗れるようにしたいのだろうか。そりゃ、そうできたらよいが、これが一番の目的かと聴かれたらノーである。やはり知的好奇心というやつだろうか。それとも、自分は本当は深く人生に思い悩んでいる(あるいは生きる意味を見出せなくてこのままでいいのかと思っている)のに、それが潜在意識にあるだけで自分でも気が付いてないだけだったりして。

まあ理由はよくわからないが、「わかりたい」ということなのだろう。物理的、技術的な何かよりも、日々生きている自分というものの「根源的な何か」を「わかっていたい」のではないか。

そういうわけで、いろいろな本を読んできてはいるが本書もそのうちのひとつとして有益だったかというと、今一つよくわからない。本書は3つの構成からなる。最初のひとつめは全く退屈だったのでここに書くことはしないが、2つめは諸富さんが過去に調べて知識として得ている様々な分野の著名人の言う「生きる意味」のまとめと諸富流の解説である。自分が知っている人のことも多く理解の整理にもなるのでここにメモとして残しておきたい。最後のパートでは著者自身の考えを披露している。この部分には大いに期待を持って読み進めたが肩すかしを食らったような感じで少し残念だった。世の中それほど甘くはないよと言われているような読後感だ。

で、とりあえず2つめのパートから抜粋して整理してみる。これらはすでに著者が原著から抜粋してまとめたものからさらに部分を抜粋しているので、諸富メガネで抽出したコンテンツをChokujinメガネでさらに篩にかけたものになっており、原著者の言いたいことの本質かどうかかなり怪しくなっているはずだ。けれども仕事病かなあ、なんか学会の参加報告みたいにまとめたくなってる自分が最近ずっと居て、ペーパークラフトを作るのに当てればいい時間を割いてこんなことを書く羽目になっている。でも今自分がしたいことなんだろう、と開き直って。



◆文学・宗教の人達

・五木寛之
 人生の目的を見つけるのが人生の目的

・高森顕徹「なぜ生きる」
 弥陀の救いが人生の目的
 次の親鸞の教えのとおり。
 「万人共通の生きる目的は苦悩の根元を破り、
  ”よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、
  永遠の幸福に生かされることである。
  どんなに苦しくとも
  この目的を果たすまでは生き抜きなさいよ」

・トルストイ
 ごく普通の人々、とりわけ農民の生き方に学ぶ。
 彼らは理性より信仰に基づいて行動する。
 農民の信仰の源泉である福音書の教えに回帰すべき。

・ゲーテ「ファウスト」
 欲張って欲張って、死ぬまでに何とか満足を得ようと
 命を燃やすことがなくては、
 人生の本当の意味も真の幸福もつかむことはできない。
 求めて求めて求めぬく姿勢。

◆哲学の人達

・トマス・ネーゲル
 すべては一瞬のできごと

・渋谷浩美
 人は根拠なく生まれ、意義なく死んでいく

・宮台真司
 生きることに意味もクソモない。
 永久に輝きを失った世界の中で、
 将来にわたって輝くことのあり得ない自分を抱えながら、
 そこそこ腐らずに「まったりと」生きていくこと。
 そんなふうに生きられる知恵を身につけよ。

・ニーチェ
 人間は自らの存在に「意味」を求めてしまう弱き生き物。
 「真理」とは
「特定の生物種がそれがなくては生存できなくなるような誤謬」。
 あらゆる真理は人間が自らの都合によって作り出した嘘。
 自らの存在が無根拠かつ無意味であることを率直に認めよ。
 一切はただ永遠に意味もなく回り続けている。
 それをあるがままに受け止めた上でなお肯定することができるか?
 たった一度でいい。人生の中で心の底から震えるような
 「幸福の瞬間」を味わうことができれば、
 たとえ一切が無意味な繰り返しでしかなかったとしても、
 私たちはそのすべてが肯定できるはずだ。
 ⇒ 映画「男はつらいよ」で寅さんが甥っ子から問われた、
   人間は何のために生きるの?への答えと酷似している。
   ニーチェと山田洋次は同じ人生の極みに達していた!?


◆スピリチュアル系の人達

・飯田史彦
 生まれ変わり説。
 肉体を使って物質界に生まれる私たちの人生の最終目的は
 修行であり、自分で計画した問題集を解くことにある。
 (すべての苦しみは宿題。愛すること、人間関係、病気・・・)
 ⇒飯田先生の本はほとんど読んだ。諸富さんは、スピリチュアル系でもかなりあやしい人とそうでない人に分類していて、飯田先生はそうでない人と言ってる。けれど、前世とか魂とか霊とかと接していると言ってる人たちを「あやしい」と言ってるようなので、そうなら飯田先生も「あやしい」部類に入るはず。飯田先生も霊の話を書いてるのだが、一部の本にしか書いてないので、諸富さんはそれを読んでないのだろう。それに飯田先生は元福島大学の教授だったので(だから自分も先生と書いてるが)、その肩書きの影響を受けているのだろう。僕に言わせれば、飯田先生と江原啓之の言ってることの根本はほとんど同じである。

・キューブラ・ロス
 与えられた宿題をすませたら、からだを脱ぎ捨ててもいい。
 死んでしまいたくなるほどつらい時(愛する人との別れ、
 不治の病、子供の病死や重い障害など)ほど、
 実はこの上ない「学び」のチャンス

・チベットの死者の書
 死ぬ瞬間、人はものすごく強烈な光とともに弱い光とも出会う。
 ここで死者が強烈な光と一体になり、それと融合することに
 成功すると、「自分の本性」である「全き空」を経験できる。
 すると輪廻から解放され、解脱することができる。

・玄侑宗久
 なにか死によっても途切れない何者かを信じるようになった。
 それは多くの仏教的認識が先端科学の提示する世界と矛盾しない
 のに対し、
 このことだけはいわゆる科学がまだ扱い得ない領域だから
 「信じる」としか言えない。
 目に見える世界が「明在系」、見えない世界が「暗在系」。
 あの世は暗在系であって、それは素粒子の霧のような状態にあり、
 純粋にエネルギーであり、しかもいたるところに均等に存在する。
 「あの世」も「魂」もある人が変性意識状態にあるとき、
 その相互作用において起きる「できごと」であり、
 「ある」とか「ない」とか考える対象ではない。
 この世の現実のすべては、観るものと観られるものとの相互作用
 によって生まれてくる「できごと」である。
 つまりすべては「空」である、という量子力学的理解。
 ⇒ 玄侑宗久という人についての僕の個人的な印象はよくない。
   理由は無いが、TV番組で語る様子を見たときに直観的に
   「合わない」と思った。それ以上の明確な理由は無い。
   申し訳ないが。
   上の文章にあるように、彼は科学の知識もあるようである。
   しかし、本当に量子力学を理解しているのだろうか。
   どうも表面的な理解によって、
   何かを説明しやすい理路だけを掬い上げて
   自分の納得のいく存在論を展開しているだけではないのか。
   彼の「存在」論はなかなか面白い。惹かれるものもある。
   けれども漫画的である。「あの世」を素粒子論的に説明して
   気持ちよくなっているだけのように思える。
   それでこのことが了解されたら何が言えるのか?
   この文章を読んでいて思い出したのが、光瀬龍
   「百億の昼と千億の夜」の萩尾望都のコミックで描かれた
   「ディラックの海」の情景である。
   物質と交差する反物質の世界、すべてがエネルギーとなって
   消滅するディラックの海。
   これを視覚的に表現しようとした萩尾さんの感性が凄い。
   ひとり生き残った阿修羅王が、ディラックの海の中に、
   シッタータとオリオナエがいるのがわかるという。
   その表現は玄侑氏のいう「暗在系」のエネルギーの中に均等に
   魂が存在するということと重なる。


・上田紀行「生きる意味」
 これまでの時代は「生きる意味」も既製服のように決まったものが
 与えられた時代だった。しかし、これからは違う。
 ひとりひとりが「生きる意味」を構築していく時代が到来した。
 「生きる意味」のオーダーメイドの時代なのである。
   ⇒ 精神的な意味での「癒し」という言葉を初めて使ったと
     ご本人が著書の中で書いていたのを記憶している。
     15年以上前だろうか、上田さんの本を読んで感心したのを
     覚えている。
     実は諸富さんは僕と同じ1963年生まれで、
     上田さんは5つぐらい上である。
     上田紀行と同世代に森岡正博、宮台真司が居て、
     諸富さんは尊敬する先輩方と言っている。


・江原啓之
 私たちが一番大切にしなければならないことは、魂の成長です。
 それこそが私たちの人生の目的なのです。
 「守護霊」とは願い事を叶えてくれる摩訶不思議なものではなく、
 私たちの魂が気づきと学びを得てさらに成長していくように、
 見守り導いてくれるもの。
 私たちは実は人間ばかりでなく、日本、そして地球人類全体の
 進化、向上も担っている。
 地球のカルマ(業)は日本のカルマでもあり、
 それはまた私たち個人のカルマなのです。
 私たちはこの宇宙を地球という星を浄化させるために
 生きているのです。
 私たちの究極の目的は、この星を浄化させ神の国とし、
 神の光の粒子となっていくことなのです。
 ⇒ 江原氏は最近とんとテレビに出なくなった。
   オーラブームを引き起こし、ある時突然身を引いた。
   諸富さんは、彼を「かなりあやしい人」だけども、
   「あやしいけど有益なメッセージをおっしゃっている人」
   として挙げている。
   魂とか守護霊とかオーラとか言ってるからあやしい。
   でも、どう生きるかという話をするとき、そのメッセージは
   かなりまともだと僕も思う。
   そのメッセージに説得力を与えるために、それが有効に働く
   相手にスピリチュアルな世界を使っての説明は効果が大きい。
   こういう人の話を最初から胡散臭いと思って何も聴かない、
   読まないというのは勝手だが、本当は何が言いたいのかは、
   触れてみて初めてわかるというものだ。


・ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話」
 あらゆる生命の目的はできるかぎりの栄光を体験するということ。
 人生とは発見ではなく、創造のプロセス。
 自分が何者であるかを知ろうとするのはもうやめなさい。
 何者になりたいかと考え、そうなろうと決意して努力しなさい。

◆V.フランクル (諸富さんが、この人は外せないという特別な人)
 人間は、人生から問いかけられている存在。
 私たちがなすべきこと=実現すべき意味は、私たちの足下に
 つねに、すでに送り届けられている。
 どんな時にも人生には意味がある。
 あなたを必要としている「何か」があり、あなたを必要としている
 「誰か」がいて、そして、その「何か」や「誰か」はあなたに
 発見され実現されるのを待っている。



以上、ざくっと整理してみた。
諸富さんがこのあと自分の回答を示すが、最初のうちは、ことばでは説明できないということを繰り返す。なぜなら、人生の意味は「知るもの」ではなく「目覚めるもの」だからだそうだ。本気で求め続け悩みぬいた末に目覚める「体験」によって認識するという。彼は、14歳の時に人生の意味に疑問を持ち、それがわからなければ生きていてはいけないと思って7年間悩み続けたと何度も書いている。精神的にボロボロになったとも。自殺を図りかけたこともあるという。その結果、7年後にもう悩むことをあきらめて放り出した瞬間、何かに目覚めた。

それは「何かほかの力」「何かほかのはたらき」によって自分は立っていられるという気づき。
自分の本性はエネルギーのうず。そのエネルギー=いのちのはたらきそのものをじゅうぶんに生きること、これが生きる意味だという。私が何者かに生かされているという私の側に立った立脚点から、いのちのはたらきの側の立脚点にシフトし、「いのちが、私している」という認識に目覚める。

よくわからない。突然スピリチュアルな体験をして「わかっちゃたもんね」と言われてるみたいで、たいそうなタイトルの本の結論としては説得力に乏しい。少なくとも本として世に問うのであれば、もう少しなんとかならなかったのだろうか。ひとつ間違えば、これから始める新興宗教へのへたな勧誘本になってしまう。現に、あとがきには、こうした気づきのための勉強会のようなものを立ち上げたとしてホームページを紹介もしている。

なぜ諸富さんは人生の意味に疑問を持ったのか?それほど悩み深いことになったのはなぜか?いじめられたとか何か不幸な境遇になったとかは書いてないので普通の学生だったのだろう。7年間悩み続けた割には、結局ちゃんと大学を出て学者になり明治大学教授になっている。順風満帆に見える。逆境になく、ぬくぬくと悩んでいたのではないだろうか。本を読み漁りひたすら頭の中だけで「理屈で」納得できる大連立方程式を解こうとしていただけなのでは?
ちょっとひねくれた見方をしてみた。


最後に、諸富さんは、それでも言葉でなんとか結論をまとめているので転載しておく。

人は何のために生きるのか、それは、

①人生のほんとうの意味と目的をどこまでも探し求め続けるため、最後まで求めぬくため。

②その極限において究極のリアリティである「いのちのはたらき」に目覚めるため。

③今あなたがおかれている状態からの日々のといかけに応え、あなたの人生に与えられた使命を果たし、「未完のシナリオ」を完成させていくため。

そうすれば、あなたの魂は途絶えることなく成長し続け、あなたの行為は、不朽の業績として永遠の座標軸に刻み込まれ続けることでしょう。



③と最後の言葉は、フランクルの受け売りだ。(受け売りでいいのだけれどね・・・)
そもそも「いのちのはたらき」ってなんだ?7年間悩みつづけた末に目覚めたそのことは、実は当たり前の事実に気づいただけなのではないか。「頭」だけで考えていてわからなかったことが、頭も含めた身体である自分が今現にここにこうして立っているという事実に(頭で理解していなくても)気が付いただけなのではないか?自分の内側というか、自分という生き物そのものの「生きている」という存在感に気づいたということではないのか。立脚点をシフトしたというのは、その気づいた主体が自分の「頭」ではなく、身体を離れた意識体のようなもの(「光」の存在と飯田さんは言う)の側からわかったということだろう。


なんだか疲れてきた。何を書こうとして書き始めたのか忘れてしまった。
そうそう、読書メモだった。
諸富さんの考えは考えとして受け止めておこう。
今は了解できない点もあるが、いつか共感できる時がくるかもしれない。
判断はいつでもできる。

読書メモ: 渡辺裕「考える耳」

図書館にいくと必ず新刊をチェックして面白そうなものがあれば借りる。始めから読みたい本があっていく場合は検索システムで棚を探して取ってくるくだけなのだが、今回は珍しく書棚を眺めていて何となく読んでみようと思って借りた。単なる音楽批評ではなくて、世評を絡めて文化を論じているので興味を持った。
全体としては薀蓄話と文化論と政治談議からなっている。2005年前後のコラムを集めたものだから、話題はちょっと古いけど。

そんな中で、なるほどと思わせる音楽評と音楽学・音楽歴史学の専門家だから教えてもらえる新情報をメモとして残しておく。

余談だけど、今、カミさんがリストの「献呈」を弾いている。最後にアヴェマリアの旋律が流れるのが印象的。先ほどまでは「愛の夢」を弾いていた。浅田真央の前のフリープログラムを思い出す。いい曲だ。

さて、著者はどういう人かというと、東京大学の教授で、大学の教員紹介には次のように記載されている。

【思想文化学科】美学芸術学専修課程
【文化資源学研究専攻】形態資料学専門分野
専門は音楽学。音に対する人間の感覚や、その際に下される美的判断を対象そのものに直接結びつけて、「作品それ自体」に内在する属性や価値の話にもっていってしまう傾きのあった従来の音楽研究に不満を感じ、人間の感性や価値基準自体が歴史的に形成され、変容してゆくプロセスやメカニズム、それを媒介する「文化」に照準をあわせた研究を続けている。最近では明治以降の日本の音楽文化の近代化・再編成の過程にもっぱら関心があり、国内外の諸力の社会的力関係や様々なメディアの関与を介して、「日本文化」やそこでの人々の心性がどのように形作られ、変容してきたのかを解明する研究を行っている。ただ、もともとはヨーロッパ近代の音楽文化の研究を専門とし、音楽の伝承形態や聴取形態の変容といった、ヨーロッパの「近代」をめぐる現象の研究を続けてきた経緯があり、両者を関連させることによって、個別研究をこえて音楽論の新しい地平を切り開くことを目指している。



◆舘野泉さんのアルバム「風のしるし」を聴いた話
(舘野さん(1936年生まれ)は2002年に脳溢血で倒れ右半身が不自由になり、現在は左手で演奏活動を続けているピアニスト。最近では、昨年の大河ドラマ「平清盛」の音楽のピアノ演奏の仕事が新しい。僕が好きなピアニストの一人。)
・片手だからこそできた表現に豊かさの源がある。片手ならではの独自の音楽表現が追究されている。
・そのひとつがアルペッジョ。時には素早く、時には情感を込めて奏される多様なアルペッジョがその表現の豊かさを生み出す源泉のひとつ。
・もともとアルペッジョはヴァイオリンなどの弦楽器が和音を分散和音に崩して弾く弾き方が高度に発達したもの。
・このアルバムに含まれているブラームス編曲のバッハの無伴奏ヴァイオリンのための「シャコンヌ」左手ピアノ版は、本来なら楽々と和音の出せる鍵盤楽器であえて不自由さを伴う左手用に編曲することで普通の奏法では得られない新しい表現の可能性を引き出そうとした曲。(アマゾンで44秒だけ視聴できる)



以下は、へえーと思った薀蓄話・・・・・

◆ヴァイオリンのヴィブラート奏法は、レコード録音の出現とともに、その特性を活かす形で編み出された奏法。

◆オペラの言語上演は、日本の大正、昭和初期には必ずしも「本格的」ではなかった。むしろ、訳詞による上演の方が「本格的」と考えられていた。そもそも歌劇場は国民国家の文化的象徴。一流の近代国家になろうとするなら、自国の専属スタッフが自国の言葉で上演する固有のオペラ文化をもつことが必須だった。ドイツも同じ。

◆ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは1940年から始まった(そんなに大昔からではない)。1959年にテレビ中継されるようになると、ウィーン市街の歴史的建造物などの映像を織り交ぜるなどして巨大な観光都市となったウィーンの歴史を世界にアピールする場となった。ウィーンっ子以外には真似できないといわれる独特のデフォルメを伴ったワルツの三拍子の刻み方は、ニューイヤーコンサートが始まってから作り出されたもので、それ以前のウィーンフィルの録音にはみられない。

◆モーツァルトやベートーヴェンの「モダン奏法」は、19世紀のロマン主義的趣味によって歪められたものであるとし、そこに混入している「不純」な要素を取り去り、作曲当時の「本来」の姿に戻してやろうという「古楽奏法」が台頭している。極端なテンポ変化や大げさな表情に彩られた思い入れたっぷりの演奏に代わり、重々しさを排除して快速で突っ走る演奏である。
だが、実は「不純」と言われる奏法の中に、バッハ時代にさかのぼる古い奏法もかなり含まれている。たとえば、和音を崩してアルペッジョにする(楽譜には指示されていない)のは、鍵盤楽器の奏法における弦楽器奏法の模倣の名残で、モーツァルトやベートーヴェンのころに普通にやっていた奏法慣習である。


この方は、SPレコードなど古い記録の研究もされているようで、レコードが音楽だけでなく様々な音情報の記録媒体としての意味もあったことや、SP、LP、ソノシート、CD それぞれが持つ文化的意味合いにも触れたコラムが多くあり、それなりに面白かった。

以上

今日の写真は・・・寒空の下でいかにも寒そうに咲く花です。なんという花だろうか?

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ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その5

この三連休はペーパークラフト日和である。来週は大学入試センター試験。娘は最後の追い込みに入っている。
カミさんは最近毎日8時間はピアノを弾いている。修行僧のようだ。
シューマンとリストのトランスクリプションを僕は毎日聴いているが、いい曲ばかりだ。

で、昨日と今日で、被昇天の礼拝堂と香部屋と回廊を作った。前の2つの塔に比べればちっちゃいけれど、結構細かい作業が多かった。

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さてしかし他のモデルも気になっている。たとえば、魔女の宅急便のキキとジジを見つけた。印刷まではしたものの、とても小さくて取り掛かる勇気がでなかった。こうしたフィギュアのペーパークラフトを作っている人は尊敬してしまう。ジブリ関係でほかにないか探したら、ゲド戦記のドラゴンがペーパークラフトBOOKとして売られていることがわかった。すでに絶版らしいが、アマゾンで在庫があったので買ってしまった。およそ100頁もある大作だ。これは、非常に美しい造形なので、いつか必ずしっかり作ってやる!
あとは、スタートレックのUSSエンタープライズだ。これは海外のサイトからフリーダウンロードできた。本当は日本人の作ったモデルの方が格好いいのだがダウンロードが終了しており残念だった。しかし、エンタープライズもいくつかのバージョンがあり、他に2,3モデルがあったので、その中のひとつを手に入れた。
サグラダファミリアの次はエンタープライズにしようかな・・・。

ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その4

長期連休とはいえ毎日ペーパークラフト製作をしていては身体は固まってしまう。近くの天神社にでかけたり、図書館に行ったり、あるいは本を読んだりして過ごしながら、まとまった時間を確保して少しずつ先に進めた。
A~Gまでに部分に分かれていて、まずはAの部分だけを印刷して製作していたが、もうすぐ終わるというので今日は一気に作ってしまうことにした。パーツAは、聖母マリアの塔とイエス・キリストの塔である。
少し低くて塔の先端に星がついてるのが聖母マリアの塔、4つの鳥が乗った塔に囲まれた十字架のついた高い塔がイエス・キリストの塔。この十字架は左右と前後に伸びているので横から見ても正面からみても十字架に見える。
確かかどうかわからないが、現物の写真をネット検索でいくつか見てみると、これらの塔はどうもまだ作られていないようだ。写真でよく見るのは、栄光のファサードの側で、聖母マリアの塔の反対側である。
栄光のファサードは造形的にも複雑で、最後の方で作ることになる。

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ところで、ファサードとはなんだろうか。調べてみると、建物の正面をなす外観だそうだ。サグラダ・ファミリアには栄光のファサード、生誕のファサード、受難のファサードの3つのファサードがあるという。聖母マリアの塔の側は正面ではなく裏面だからファサードとは呼ばないのだろうか?詳しくはわからないが、そういうことにしておこう。

ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その3

12月は何かと忙しくて(気持ちの余裕の無さと背中痛による体調不良)、あまり製作が進まなかったが、さすがに冬休み連休に入ったら少しやる気がでてきた。複雑に見えるけれども案外単純な組み立てで済んだので、ここまで↓進んだ。先は長いのでゆっくり行きましょう。今年もペーパークラフト三昧になるかもね。

サグラダファミリアペーパークラフト3

手前の聖母マリアの塔はできたみたいだけれど、後ろの塔はまだ頂部がこれからです。


ところで、12月も終わりのころのテレビ番組は見るべきものがなかったので、致し方なく、アニメ専門チャンネルで一挙放送をやっていた「夏目友人帳」シリーズを観た。妖怪ものだが、恐ろしくはなく、ほのぼのとしていたり、温かい気持ちになれる物語である。田舎の風景も目に優しい。このアニメにでてくる妖(あやかし)の猫が「ニャンコ先生」と呼ばれているのだが、一見デフォルメされてお茶らけたつまらない登場人物(動物)に見えるが、何度も見ているうちに結構その造形を気に入ってしまった。ペーパークラフト素材がネット上に見つかったのでさっそく作ってみた。A4一枚から作製できるが、2時間程度も時間がかかってしまった。その割にはシンプルで小さい。

ニャンコ先生

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