直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2013年02月の記事

ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その9

昨日に続き、半日手仕事。
意外と早く、受難のファサードができてしまった。

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そして、これですべてのパーツが揃った。あとは互いに連結して台座に張り付けるだけ。
それは来週以降のお楽しみとしよう。写真ではパーツの色が明るめと暗い目の2種類があるのがわかる。
これは、印刷するときに、色の調整をしたものとしなかったものがあるせいである。心ならずもこうなってしまって、ちょっと変かもしれないが、組み立ててみたら意外とアクセントがついてよいかもしれない(ということを期待しよう。)

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昨日は長大な交響曲を2曲も聴いたが、今日も、NHKのらららクラシックでマーラーの交響曲第7番「夜の歌」を放送したので、これを聴いた。さすがに一時間の番組には収まらないので一部を省略したが、聴きごたえのあるマーラー節を堪能した。僕の頭の音楽中枢にはマーラーの旋律が染みついているようで、とても心地よかった。
さて、明日からまたお仕事頑張ろう。
娘も明日は大学入試。今頃現地の大学近くのホテルで最後の調整をしていることだろう。

いずれにしても、前期試験か後期試験が受かれば国立大に、落ちても私立大学にいくことになるだろうから、
合格祝いに父親の力作「サグラダファミリア」をプレゼントしようかな。(ジョーダン)
「んなもん、いらん!」と言われるだろうな。

ま、とにかく受験は頑張れ!!
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久々の交響曲とペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その8

8月から食べている手作り味噌がようやく無くなったので、7月末に仕込んだ新しい味噌を解禁しました。
今度のは米麹と麦麹を混ぜた合わせ味噌です。「ゆきのぶのこうじ屋」さんから通信販売で味噌作りセットを購入したのですが、麦麹を使うのは初めてです。
米麹は甘味を、麦麹はコクを出すんだそうで、今回のあわせ味噌は、甘くまろやかでかつコクのある味噌になるはずでした。味噌汁を作って飲んでみると、甘味があってマイルドな感じでした。コクがあると言われればあるようにも感じられます。いづれにしろ、これがホントの手前味噌ですが、美味しいです。700mL入りのタッパーに4つ分くらいできました。見た感じでは美味しいかどうかわからないとは思いますが、写真を載せます。

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さて、今日の午後はペーパークラフト作りです。先週は1Q84を読むのに夢中で手作業はお休みでした。サグラダファミリアの生誕のファサードの続きをやって完成させました。あとは、受難のファサードを作れば、各部はすべて完成し、台座に据え付けて組み立てるだけです。登山で言えば山頂が見えてきた感じです。

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もうすぐ雛祭りなので、雛人形を飾りました。娘のために、娘が産まれて最初の雛祭りの日にジジババから買ってもらった雛人形です。たぶん、4月からは県外の大学に行くことになると思うので、この家を離れます。今回が最後になるかな、と思いながら飾りました。
一仕事終えてからペーパークラフトを作り始めたのですが、音楽を聴きたくなり、2つの交響曲をかけて聴きながら作業をしました。
最初にかけたのは、佐村河内守作曲「交響曲第一番」です。1時間以上かかる長大な曲です。「HIROSHIMA」という副題がついているこの曲は、最終楽章の後半になるまでは、悲壮感漂う重苦しい音楽ですが、それでもところどころに何か光の兆しが垣間見えることに気が付きました。そして、その断片が本当の姿を現す終盤は安らぎと希望を感じさせつつ天に昇っていくような高揚を誘うのです。ずっと苦しかったからなおさらラストの上昇的な音楽が引き立つのだと思いました。クラシック音楽のCDの売り上げのかなり上位にランキングされているそうで、現代日本の作曲家の作品としては異例だとのことです。25日には大友直人さんの指揮で東京初演の演奏会があります。月曜日の夜だし、娘の大学受験の日ということもあり、無理して行くような計画は立てませんでした。いつか、名古屋で生演奏を聴いてみたいと思っています。
次にかけたのは、さらに長い曲。マーラーの交響曲第3番です。90分くらいあります。3月の名フィルの定期演奏会で演奏されるので、ちょっとした予習です。大学時代から何度も聴いているので、耳馴染みのよさがあって気持ちよく聞けました。名フィルの定期演奏会には、子供の合唱に知り合いの娘さんが出演されると聞いています。合唱は90分のうちの後半の一部にしかでてきません。子供たちはこの長大な交響曲を舞台上で出番を待ちながらずっと聞いているのでしょうか。それとも楽章の切れ目で途中から入場するのでしょうか。いづれにしても、これだけの曲を生で身近に聴く経験は彼ら彼女らにきっと鮮烈な記憶を残すことでしょう。この曲も最初は勇ましい行進曲で始まりますが、後半は哲学的な雰囲気になり、最後はやはり安らぎと希望と天国を見るような雄大な曲調で終わります。佐村河内さんの曲と続けて聴いてみると、マーラーの方が幾分余裕があるように感じられ、それは逆の見方をすると佐村河内さんの曲の方に隙がない、または遊びが無いとも言えそうです。この曲の成り立ちを知るとよくわかると思います。佐村河内さんの「交響曲第一番」という本を読んでしまったので、彼の壮絶な生き様を投影しながら聞いてしまうのだからだと思います。

この長大な2つの交響曲を聴きながらちょうど生誕のファサードが仕上がりました。
なんだか充実したひと時でした。

ペーパークラフト 製作記録【Part3:サグラダファミリア】 その7

先週と今週で「栄光のファサード」を仕上げた。
よく写真で見るサグラダファミリアの正面だ。

続いて、受難のファサードの作製の取り掛かった。
まだ途中だけれど、2つのファサードを並べてみた。

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サグラダファミリアの部分部分がどんどんできてきて、
前に作った阿修羅像の足元に溜まっている。
そのうち置き場所が無くなりそうである。
あとどのくらい作れば合体して完成するのだろう、っていう感じである。

猫を飼う人の気持ちが少しわかった気がする

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ネコカフェという場所に初めて行った。
カミさんがネコ好きで、You Tubeの動画を見ているだけでは我慢できず、生きてるネコに触れたくなったみたいで、誘われた。
僕たちが結婚した時は、カミさんの実家にネコがいた。
シャム(純血じゃなくて適当なシャム)のジャックという名のネコで、僕がその家に行って黙って座ると膝に乗ってきた。その子も亡くなり、生のネコに触れる機会はカミさんも無くなって久しい。

僕の実家では犬も猫も飼ったことはない。少なくとも僕が生まれてからは無い。
動物に触るのはあまり得意ではない。ましてや抱くなんてことはできない。
一度、娘が幼稚園の時に動物園のふれあい広場でウサギかモルモットか何かを抱く羽目になったことがある。しかし、それらはふにゃふにゃでつぶれてしまいそうで怖かった。
ふにゃふにゃで怖かったといえば、生まれたての娘を抱いたときを思い出す。風呂にいれるときも最初は怖かった。

で、ネコカフェというのは、要するにネコがたくさんいる部屋に時間いくらの料金を払って入室し、しばらくまったりするところである。一応カフェというからには飲み物もでるのかと思ったら、ペットボトルか缶ジュースを支給された。今日行ったネコカフェは(どこもそうかもしれないが)、ネコを抱いてはいけないと注意された。ネコが近寄ってくるのをただ待つか、軽くなでてやるのは良い。

入室したときは、3匹ほどが歩き回っていて、のこりの5,6匹は寝ていた。
カーペットに座って少し様子を見ていると、2匹が目の前を通って行った。何度か通り過ぎたが、それ以上のことはなく、他の客やカミさんもただ歩くネコを見ているだけか、ちょっと手を出してなでているだけだった。

そこでジャックのことを思い出し、部屋の中央あたりに移動して胡坐をかいて座って待ってみた。
すると、一匹がまっすぐこちらに向かってきて、全く警戒もせずに僕の膝(というより股)に乗ってきた。
彼はそのまま座り続け、毛づくろいをしたり、あくびをしたり、まるで自分のねぐらにでもいるかのようにくつろいでいた。カミさんは僕をうらやましがるが、彼がそうしたのだから仕方がない。

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それにしてもこのネコは僕のことを完全に信頼しきっているようだ。一度立ち上がって離れてみたが、別の場所で座るとまたやってきて今度は下腹のあたりにどっかと寄りかかってくる。
これだけ無防備にやられてはこちらの気持ちも緩まないではいられない。恥ずかしいけど心地よい。
なるほど、ネコを飼う人は、この心地よさを味わうのがひとつの楽しみなわけだ。
実際に飼ってみると大変なこともあるだろう。しかし、それと引き換えに得られる心の緩みの快感は世話をする苦労を忘れさせてくれるのだろう。
何者かに無条件に信頼されるということの大きさ。それを実感できた気がする。
ま、ネコを飼ってる人にとっては今更言うまでもないことなのかもしれないけれど。

しばらくすると、ほとんどのネコは寝てしまい、動いているのは一匹だけで、その子は店のオネエサンに甘えてばかりで客の相手はしない。僕たち以外の客は僕の膝にいる子をうらめしそうに見ながら早々に店を出て行った。寝てるネコを起こしてはいけないと言われているし、そんな彼らを触っていても面白くないわけだ。
僕は何だか他の客に悪いことをしているような気になったが、でも、そういつもいつも初対面のネコが寄ってくるわけではないだろう。たまたま今日のこの子(ソマリという種類の彼はフィートという名をつけられていた)は僕の匂いが好みだったんじゃなかろうか。それとも何か僕の後ろに見えたのだろうか???

村上春樹の「海辺のカフカ」にネコと会話ができる人が出てくるのを思い出した。一時的にでいいから、そんなことができたら楽しいだろうし、さきほどの疑問もすぐに解消されるだろう。

一枚起請文

昨年の5月の連休中にふと思い立って、一枚起請文を朗読してYou Tubeに投稿した。
これを書いている今現在、再生回数が999回になっている。
それほど多くは無いけれど、約9か月の間にコンスタントに再生回数が増え続けてきた。

いったい誰が聴いているのだろう。

You Tubeには投稿者のために解析ページが用意されていて、いろいろなデータがわかる。
再生者の地域はほとんどが日本だが、海外ではアメリカ、カナダ、台湾、シンガポール、ブラジルなどである。
視聴者維持率という解析があり、全体で2分7秒の長さのうち、何秒まで打ち切らずに再生し続けたか、その割合がグラフでわかる。これによると、1分50秒というほとんど終わり近くまで聴いてる人が56%もいる。半数以上の人が最後近くまで聴いているということだ。

もともと、何の目的もなく、ほんの思いつきで投稿したものであり、朗読と言っても訓練してもいなければ、もともとそういう特技があるわけでもないし、面白おかしく演出してもいない。ただ真面目くさって読み上げただけだ。その音声をただ最後まで聴く人が意外に多いということに驚いている。

そもそも「一枚起請文」とは何か?
鎌倉時代に浄土宗を開いた「法然上人」のご遺訓である。
説いてきた教えが自分の死後間違って伝わらないようにエッセンスをきちんと言い残しておくべきということで、弟子に頼まれて書いた遺言だという。

なぜ朗読したのかを思い出した。当時、佐伯啓思「反・幸福論」(新潮新書)を読んで、その中に「一枚起請文」の一節が出てきて、なるほどと思ったのがきっかけだった。
「一枚起請文」そのものは以前から知っていたし、唱えてもいた。実家が浄土宗で、祖母や祖父が亡くなって葬式や法事を行うといろいろな読経を行うのだが、かならず「一枚起請文」も唱える。和尚の独特の節回しが面白く、ついつい覚えてしまった。投稿した朗読もその節回しに倣っているので、いわゆる朗読とは少し(かなり)違う。
もしかするとそれが面白いのかもしれない。
それはさておき、「一枚起請文」では次のように言われている、と佐伯氏は言う。

救いをもたらすのは、智者の観念でもなく、学問でもなく、一文不知の愚鈍の身になって、智者のふるまいをやめてただ念仏することだ。

さらにこれを次のように解説する。

平安末期は諸悪が横行し天災も続いた末法の世であった。この現実を前にして、いくら偉くても学者の理屈や知識人の学識など何の意味もなかった。それどころか、理屈をこねたり、さかしらに物事を知った気になる方がもっと罪深いことだった。だが智者というものは、昔も今も容易にはその罪を自覚できないものです。それよりも現実の生をだた生きている「一文不知の愚鈍の身」の方がはるかに罪を自覚できる。なぜなら、人々が生きることに精いっぱいの乱世では、生きるということ自体が罪深いことで、殺傷をし、ものを盗み、人をだまし、身を売り、といったことの連続だったからです。とすれば、下手に学問や知識など身に着けない愚鈍のともがらの方がかえって阿弥陀仏に帰依できるでしょう。(阿弥陀仏とは、われわれのはかりしれない無限のいのち、いわば宇宙的な生命の象徴)

現在も末法の世だとして、我々も生きるということ自体が罪深いことだと言うのは言い過ぎのように一見思える。確かに、直接的に他人を殺傷したり、窃盗を働いたり詐欺を行ったりなどは一部の特定の犯罪者がするもので自分たちは罪を犯していないと言えるかもしれない。しかし、世界に目を向ければ、内戦や紛争が絶えず、どのような理由にせよ個人的な悪というより政治的、宗教的な理由から他人を殺傷し、あるいは、その道具である兵器を作り続けている。我々も日常生活を豊かに暮らせるのは、地球の資源を再生不可能に搾取している結果とも言える。間接的に他の動物種、植物種を絶滅に導いているという意味では罪深いと言えるのだろう。
あるいは心無い言葉で他人を傷つけ、客という立場で店員に無碍な言い方をしたり(同じ職業人なのに)したりもする。意識していないところで、この社会の仕組みや習慣の中に埋没することで、罪作りなことをしている。
とすれば、小賢しい理屈で自分たちの生の正当性を論じ、正当に見えない他者を批判などしていること自体が法然上人のいう「智者の観念」に他ならず、そんなことでは救いにならない、ということなのかもしれない。
では、自分の生の「罪」を自覚すればそれでいいのか?
こうした問答自体も智者の観念だと言われてしまえば救いがない。

なにはともあれ、日々楽しく暮らしたいのが僕たちの本音である。だが、たまにこういう真面目な本でも読んで、「生」と「死」に思いをいたすことも必要だろう。

一枚起請文全文を載せて終わる。

唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に
もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には
別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と
申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、
本願にもれ候(そうろ)うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、
一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、
滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために
所存をしるし畢(おわ)んぬ。

建暦二年正月二十三日 大師在御判


さて、昨日の朝、鶴舞公園で出会った白猫君。野良猫は人を警戒するので、しばらくじっと動かずこちらを凝視してくれるので、まさにカメラ目線で写真が撮れる。

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