直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2013年08月の記事

ペーパークラフト再開 & グールド

しばらく猫に感けていて例の手仕事に取りかかる気にならない日が続いていた。
猫のことばかりでなく面白くてやめられない長編小説を読んだりその映画を見たりなどしていて毎週末が過ぎていた。夏もようやく暑さを弛めて今日は30℃を下回る涼しい一日。猫も心地よい風が入る窓辺で黄昏ている合間に手仕事にとりかかった。

阿修羅像、サグラダファミリアに続き、広隆寺の弥勒菩薩を作る。春に少し始めて土台と片足の先だけは作ってあった。

RIMG1651_convert_20130825173637.jpg

21世紀ペーパークラフトさんが出版しているのは阿修羅像とこの弥勒菩薩の2種類だから他に選びようはないのだがどちらも好きな仏様だ。実はこのお二人は萩尾望都(光瀬龍原作)「百億の昼と千億の夜」で敵対者として登場する。主人公の阿修羅王がこの宇宙の外から来た者と戦うのだが、その者が弥勒菩薩の姿で現れる。萩尾さんは弥勒菩薩を広隆寺のではなく中宮寺の弥勒菩薩の姿を借りて描いているが、僕の趣味としては広隆寺のほうが好きだ。悪者として描くとしたら中宮寺の黒いお姿の方がどちらかと言えばイメージを作りやすかったのかもしれないが。それに広隆寺の弥勒菩薩は、その眼差しの先に深い慈しみがあるようでとても悪者にはできないと思うのだが、いれこみすぎだろうか。

今日は、上半身の一部を作った。首から胸にかけて。

RIMG1650_convert_20130825173751.jpg

作りの難易度は阿修羅よりも易しいらしい。阿修羅の3つの顔と6つの手指は結構難儀だったことを思い出すと今度の弥勒菩薩はしっかり精密に組み立てられそうな気がして自分でも楽しみだ。ゆっくりじっくり進めていこうと思う。


さて、今日は朝食のあと一番にカミさんと一緒にベートーヴェンの交響曲第5番のリスト編曲版の演奏を聴いた。今、カミさんが10月のリサイタルで弾く曲として練習しているやつだが、グレングールドの演奏CDを聴いた。これは僕が仕事でお付き合いのある方からいただいたもので、その方はリサイタルにも東京からわざわざ来てくださる。リヒテルやケンプなどの大御所が来日したときには生で聴いたことがあるという大変な音楽好きな方なのだが、このプログラムに興味を持っていただいてこのような成り行きとなった。

グールドの演奏の特徴は、すでに多くのメディアで解説されているので僕が書くまでもないが、やはりWikipediaなんかはコンパクトにまとめられていて理解の一助になる。
曲を聴いたら誰でも気づくと思うが、テンポ設定が独特だ。第2楽章の遅さにもっとも違和感を覚えた。音が少ないにも拘らず、これだけ遅く弾かれると、オケ版を聴きなれている者としては多少のイラつきも感じてくるほどに遅い。4楽章で再現されるが、そこも同様に遅い。ところが、そこから戻るときに何とも絶妙にテンポが回復していったのには驚いた。ここまで聴いてから第2楽章を思い出すと、その遅いテンポを許してもよいと思えてしまうところが不思議だ。人というのは頭の中で期待されているものと異なるものを与えられると最初は嫌悪感や失望を味わうようにできているのだろう。しかし慣れてくればそれも許容できる柔軟さがある。かつて、ポゴレリチのリストのメフィストワルツを聴いたときに味わった絶望感が時間を追って思い出すたびに味わいに変わってくる経験をしたのと似ている。

カミさんは演奏者として、とてもためになったようだ。決して同じように弾こうというわけではない。グールドがどの音もきっちり出しているので、そこが勉強になるそうだ。対位法として音楽を捉えると言われているとおり、この演奏も主旋律と内声が競合するように聴こえてくる。そこは舞台での演奏には必ずしも向いていないように思えるのだが、音をないがしろにせずに向き合うという意味では、演奏者に対して模範的な姿勢をつきつけているのだろう。あとは、どういう場で何のために、何を表現しようとするかで音の強弱を決めればよい。
彼女は楽譜を繰りながら気がついたところにチェックを入れつつ、ところどころ頷きながら聴いていた。よい刺激を得て自分の演奏をブラッシュアップしていくのだろう。
グールドはこれをピアノ曲として仕上げた。カミさんは、オーケストラの音を表現したいと言っている。まったく志向が異なるとも言える。ある時期から演奏会を開かずレコーディングしか行わなかったグールドは、このCD(レコード)は何回でも聴くことができる演奏としての価値を追求したように思う。だから、演奏会で弾くときにグールドと同じように弾いても面白くないんじゃないか。一度きりの音楽に目指すべきものがあるはずで、それをおそらく外さずに仕上げにかかっていると思う。自分で言うのもなんだが期待に胸が膨らむ。

スポンサーサイト

ねこ談義

ネコと同居してみるとなかなか楽しい。
全身毛だらけの小さな生き物が家の中を歩きまわり、走り回り、床に寝転んでいる。
ときには、「な~お」と鳴いてすり寄ってくれば、足や手に噛みつく。

ネコはどのくらい頭がよいのか(わるいのか)よくはわからないが、ヒトとコミュニケーションをとることができるのでペットとして人気があるのだろう。短期記憶が少し乏しいようだし、長期記憶もおそらく条件反射的なもの、基本的な行動様式に絡んだものに限られるようだ。
してほしくないことをしたときに「だめ」というと止めてくれるのだけれど、すぐに同じことをする。こいつ、さっきのこと覚えてねーのかよ、と思って何度も「だめ」という。この繰り返しである。しかし、「だめ」という言葉が「してはだめなこと」だということはわかっているらしい。「にゃろ、ごろ~」みたいな妙なつぶやき声を出してすごすごと引き下がる。
最近ようやく名前を呼ぶと振り向いたり、寄ってきたりするようになった。ゆっくり歩いてきて股の間にきて座る。やさしく撫でてやれば気持ちよさそうにするし、体勢を変えて僕の足元にぴたっと身体を寄せるようにしてまた寝転ぶ。
どこの家のネコもそうなのだろうが、この程度のコミュニケーションは当たり前にする動物である。
撫で方を乱暴にすると、爪を出してパンチするし、噛みついてくる。これがまた楽しい。

単純なパターンの繰り返しと、一方で、同じアクションに対して、複数のリアクションバージョンがあるのも面白い。そのときの気分でリアクションが異なるが、それでも、それほどバージョンは多くない。行動に深い因果関係や論理はどうもなさそうだ。


ネコを飼う前には準備段階があった。といっても計画的に準備していたというよりも、ネコへの関心を高めているうちに飼うことになってしまったというのが正しい。

準備段階のころから読んでいるネコ関連ブログが2つある。

ひとつは、短毛のソマリ「レオ」くんと暮らしている一人住まいの男性のブログ「ききわけのいい猫」。ソマリという猫は毛が長いのが普通なのだが、たまに短毛の固体がいる。前に大須の猫カフェに行ったときに膝の上に乗ってきたのも短毛のソマリだった。しゅっとしていてスマートな猫だ。毛色も一見茶色一色に見えるが、細かくみると単色ではなく一本一本の毛に色の層がある。霜降りと呼ばれる獣色だ。ワイルドかつシンプルで好きな色だ。
飼い主の男性は、猫との暮らしの中で考えたことを哲学的な表現で伝えてくれる。なんだか村上春樹の小説の主人公の雰囲気のある人で、文章がうまい。週末ごとに更新されるのを楽しみに読んでいる。

もうひとつは、地域の猫の写真を撮って毎日載せてくれているブログで、その人がいかに猫が好きかが窺える。野良猫、外猫(飼い猫)達の表情をうまくとらえていて、コメントが楽しい。一度見かけて写真に収めた猫には名前をつけているが、情が移ってしまわないように、あえて可愛くない名前をつけているそうだ。「再開発1号」とか「だらだら1号」とか「おにぎり顔」とか。これが逆に見てるほうは面白い。「一日一猫」というブログ。この方は、猫の毛色について大変詳しい。時々、毛色の特徴を言い当てながら遺伝型まで推測している。研究レポートのサイトも作っているのでとても参考になる。
猫に興味を持ち始めると、おのずと猫の種類を覚えたくなる。アメリカンショートヘア、スコティッシュフォールド、マンチカン、ソマリ、メインクーンなどなど、ペットショップで売ってる血統のある種類もあるけれど、いわゆる雑種に現れる毛色の呼び方をまず基本として覚えた。うちに来たキジトラをはじめ、キジシロ、茶トラ、茶白、キジうず、三毛、など。面白いのは、必ずしも親の毛色を受け継がず、黒と茶トラとキジ白の兄弟が生まれたりすることもあるらしい。
トラ模様の猫はだいたい額にMの字の縞がある。また、目の横に「クレオパトラライン」という2本の筋がある。このラインがカッコいいので好きだ。

もともとカミさんが飼いたいといって飼い始めたのだが、僕のほうが入れ込んでしまった。そしてついに、ネコになったつもりで、ネコブログを立ち上げてしまった。50歳のおっさんが恥ずかしげもなくこんなものを書いているが、短く写真を主体に気楽に書いている。

勝川のフレンチ

勝川駅近くにフランス料理店ができたので行ってきた。シュバルブランというお店。ワインの名前からとったのかな。
ランチは3500円、ディナーは6000円と8000円のコースというシンプルなメニューのお店だ。
まずはランチからとは思ったが諸事情によりいきなりディナーに。

まあとにかく美味しかった。シェフは箱根の有名なオーベルジュで経験を積み、最近は名古屋の葵モノリスで料理長をされてたそうで、初めて自分のお店を出されたとのこと。勝川にしては珍しく、建物はなかなか洒落たお城のような外観のビルの一階にある。

どんな料理がどのように美味しかったかはうまく書けないので、興味がある人は是非一度来店されたし。

給仕の人に話を聞いたが、コースの内容は毎日の仕入れで決めていて、何度きても同じ料理は出ないのだそうだ。このお店ののブログを読むと確かに、今日は何が入ったからどうのこうのと書いてあって、これを見て楽しみにして行くのもよさそうだ。

薦められたグラスワインも、たまたま、ノリで開けてしまったと言ってたが、珍しいものを出してもらった。ジュラという黄色い色の白ワインでブランデーのような香りと味がする。僕にとっては初めての味で、決して飲みやすいとは言えないけれど、続けて飲んでいるうちに味に慣れてきた 。それに肉料理ととてもよく合った。
たぶん、これだったと思う。ボトルの形が特徴的なので、これかもしくは同じ系列のものだろう。グラス1400円と少々高かったが、最初のロゼのシャンパンでほろ酔い加減だったので、ついつい乗せられて頼んでしまった。
でも、お陰でさらに気持ちよくなれたし料理とも相性が良かったので正解だった。ちなみに、ジュラといえばジュラシックパークのジュラであり、ジュラ紀のジュラを思い出すが、フランス東部の県名で、スイスとの国境にあるジュラ山脈の地質(石灰岩)がジュラ紀の命名の由来となっているそうだ。

ランチは結構予約いっぱいらしいが、ディナーはこの日僕らだけだった。飾り気のない内装で、BGMも無く、他の客もいないので、とてもゆっくりできた。

最後に出してもらった小菓子がちょっとうれしかった。こんな感じ。
RIMG1368_convert_20130811114756.jpg



勝川に住んで食べ物に関してはなかなかいい環境に恵まれている。洋菓子なら「めるたん」、パンなら「櫻蔵」、イタリアンなら「ダルバッボ」は市外から来てもらっても十分満足してもらえるお店だと思う。これにフレンチも加わったので嬉しい限りだ。

「経営センスの論理」新潮新書

楠木建「経営センスの論理」(新潮新書)を読んだ。
以前、氏の「ストーリーとしての競争戦略」が大変面白かったので、今回の本も期待して読んだ。

「ストーリーとしての競争戦略」は、サウスウエスト航空、スターバックス、ブックオフ、ガリバーなどが成功している要因を解き明かしてくれた。戦略にはストーリーがある、ということがよくわかった。ストーリー戦略という競争戦略の手法があるわけではなく、優れた戦略にはストーリーがあるということを実例を挙げて教えてくれる本である。
なるほどと思わせる箇所が随所に出てくるので、サスペンスとまではいかないが、ちょっとした冒険物語を読んでいるような感覚になれた、ということかな。

この本を読んだことがある人には今回の新書も読みやすいだろう。
本の中身をうまく要約できる人は世の中にたくさんいて、僕なんかはとても彼らには及ばないので、概要を知りたければ、たとえば、以下を参照ください。

http://toyokeizai.net/articles/-/13960
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO55295790R20C13A5NNK001/
http://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/52071300.html

日々会社の仕事の現場でふと迷うこと、どちらにいけばよいのか、どう言えばよいのか、どう指示すればよいのか、といった場面で少しは役に立つ理路を拾い出してここにメモしておきたい。


<スキルとセンスの違い>
スキルはアナリシス(分析)であり、センスはシンセシス(綜合)という違いがある。どんなにスキルが優れていても、優れた経営はできない。経営にはセンスが要る。つまり、シンセシスができるか、ということだ。
技術の世界では分析力は必須で、これが無い、あるいは間違っていると、正しい判断ができず、優れた技術開発に結びつかない。だが、それが優れた商品、ビジネスになるとは限らないことは、僕が言うまでも無く、世の企業人達には当たり前に議論されていることだ。ビジネスにするためには、技術開発もひとつのコマとして社内外のリソースをどう綜合していくか、どのような独自のストーリーが語れるかという能力、つまり、センスが必要ということである。

<イノベーションと技術進歩の違い>
技術進歩とは、できるかできないかということだが、イノベーションとは、思いつくかつかないかということである。なぜ今までこれが無かったんだ! というのがイノベーションである。イノベーションを実現できる会社には、必ず戦略のストーリーがあり、事後にそれを知って初めて外野は、なるほどと思うのだ。

<具体と抽象>
アタマのよい人は、具体と抽象の往復を、触れ幅を大きく頻繁に行う。
実務経験という「具体」を持っているといっても所詮は限られた業務、業界の範囲に限られる。抽象化して事の本質に落とし込んでいかないと新たな次のアクションには結びつかない。
抽象化のレベルが高くより深く本質を理解して身に着けていると、有効なアクション(具体)に落とし込めるというわけだ。いまさら言われるまでも無く、そういう抽象化ができる人がたいてい会社でもリーダーとして台頭していく。

<情報とフィルタリング>
現代は情報が氾濫する時代である。情報それ自体には意味は無く、人間がアタマを使って情報に関って初めて意味を持つ。情報はIT技術の進歩によって指数関数的に増加しているが、人間のアタマの処理能力は変化していない。入手可能な情報が増えれば、情報1単位あたりに振り向けられる人間の注意が減少するというトレードオフに突き当たる。情報が極めて少なかった時代は、人間はその少ない情報に対して注意を向け考える時間が今よりも相当多かったはずだ。情報をインプットして何らかのアウトプットを得ようとすると、そこには思考、考察が要る。インプットが多すぎて処理しきれない状態だと、なんら有効なアウトプットは得られない。
アタマのいい人は、注意すべき情報だけをインプットするよう、フィルタリングをしている。よいアウトプットを得るためには(人間の処理能力が上がらない以上)注意のフィルターのレベルを上げて、インプットする情報量を削減するしかない。
ある程度は自分も、無意識のうちにそういったフィルタリングをしていると思う。ただし、フィルタリングのレベルが必ずしも上級かどうかはわからない。様々なフィルターを持った人が集まって組織ができているということを考えると、組織内メンバーのフィルタリングがかかった情報インプットをさらにフィルタリングすることで会社というのは意味のある情報を集約して経営判断をしているということになるのだろうな。

<満足と不満足>
仕事の「満足」に関る要因と、「不満足」に関る要因は異なる。仕事の「満足」は仕事そのものについての満足であり、達成感であったりする。一方で「不満足」は仕事そのものよりも、外部環境(給与、対人関係、作業条件)によることが多い。マイナスからゼロに持っていくプロセスとゼロからプラスを作っていくプロセスは非連続的で断絶がある。
確かにそうだ。仕事の不満を解消すれば、まわりまわって仕事の成果につながり満足感が得られるなんてことはたぶんない。成果を挙げて満足度を上げる方策は別の次元で対処すべし、ということだ。
物事の問題を「不満足」か「満足を得るにはどうしたらよいか」に区別すると、対処の仕方も変わってくるのだろうな。




いくつか気になるポイントをメモしてみた。
詳しく説明はしていないけれど、最近の仕事の場面でずいぶんと思い知らされることが、実は多い。

面白がって読む本には、単純に面白くて知的好奇心が満たされる面と同時に、必ず自分の実生活のある場面に照らし合わせて考えられる要素が多いことに気づく。読み飛ばして何もせず次の本に移ってしまえば、読んでいたときに頭に描いていたアイデアも忘れてしまう。こうやって文字にして打ち込んで記録することで、少しは身についてくれればいいが。

美しいもの

RIMG1163_convert_20130803133453.jpg

大雨から一夜明け、気持ちよく晴れた朝
鶴舞公園を歩いた

5月には見事なバラが咲き乱れ
花ショウブも品種改良で様々な名前をもらった株たちが競い合って咲いていた

今は何が咲いているだろう

夏の花で思い浮かべるのは「桔梗」や「夾竹桃」ぐらい
(夏といえばひまわりもあるけれど、公園に咲く花としては思いつかない)

期待せず、けれども少し期待して
木陰の道を花ショウブの池のほうに歩いていくと

ああ、こんなに大きな
そしてこんなに明るい色を放ちながら
凛としてまっすぐに天に向かって咲いている!

信じられない光景が一瞬の矢のように目に飛び込んできた

大きい

蓮の花は、こんなに大きかったか

白と薄赤紫の2種類が池に育った大きな蓮の葉の隙間から伸びて
一面に咲いている

何の喜びも安らぎもない灰色の心に
明るい宇宙からの光が差し込んだかのような瞬間だった


悩ましいことどもをどんなに頭のなかの修復機能を駆使しようがどうにもならず、
堂々巡りするばかりの、御することのかなわない危うい精神の網の目の綱渡り

しかしそれらは、美しい花たちの光景が視覚に入るだけの単純な一瞬の出来事で雨散霧消してしまう

蓮華に座る如来達の心はまさに蓮華のごとくあるのだろう

期せずして出会えた花たちとのご縁をいただけただけたのは
大いなるものの計らいであろうか?

蓮の花は朝にしか咲かないという・・・