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直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2013年11月の記事

遺体

忙しい日が続いていたので、珈琲でも飲んでゆっくりしようなんて考える暇も無かった。まだ一区切り付いたわけではないけれど、週末に第一回目の忘年会でお酒を飲んで疲れて帰ったせいか、余計なことを考える気力も失せて、漸く心の休憩モードに入った感じだ。家族で行った近所の食料品店で、神の山の珈琲と謳った深煎り豆を目にして、そう言えば家の珈琲豆が切れてるし、久しぶりに自分で淹れて飲んでみたいと思って買った。

他の用事を済ませて帰宅して、夕方までのひと時を珈琲でも飲んでゆっくりしようと久しぶりに考えることができた。深煎りの豆は表面に油が浮き出ている。こういうタイプの豆は挽いても薄皮のカスは出ないし、酸化してなければドリップする時に泡が立つ。炭酸の泡なんだそうだ。実際淹れてみるとなかなかいい感じだった。ドリップする時のコツは、出来るだけ沸騰したての熱いお湯で短時間で旨味成分を抽出することだと、先日読んだ井上誠「コーヒー入門」に書いてあった。僕は専用のステンレスポットを長年使っているが、いくら沸騰したてのお湯を入れても、ポットの熱容量のために幾分冷めてしまうことは気にはなっていた。ひと手間かかるが、ポットにお湯を入れてポット自体を温めたあと、そのお湯をもう一度薬缶で沸騰させてからポットに入れれば温度は下がらない。この手順を踏むようになってから、珈琲の味が変わった。旨味と薫りが引き立つようになった。
神の山の珈琲。神の山とはバリのアラビカ神山のことで、希少価値のある豆とのことだが、結構お値打ちだったので本当に希少価値があるのだろうか。そんなことよりも、美味しいかどうかである。お湯の温度に気を配っていれた成果か、まあまあ美味しく淹れることができた。ソファにゆったり腰掛けて飲んだ一口目は気分を和らげた。うまくできたという満足感。
気がついたことは、僕は珈琲をゆっくり美味しく味わうことに快感を覚えるのではなく、珈琲が美味しく淹れられたことに快感を覚えるようなのだ。だから、珈琲をゆっくり時間をかけて飲むようなことはなく、すぐに飲み終えてしまい、カップを洗って終了である。これでは、「珈琲でも飲んでゆっくりしよう」なんてことは永遠に実現しない。損な性格である。

さて本題だ。
この2週間、石井光太の「遺体」を読んでいた。東日本大震災の津波で亡くなった人の遺体のことを書いた本である。震災の死者、行方不明者の数は2万人というとんでもない数で、市町村ごとに見ても数百人以上の犠牲者が出ているだろう。この本は、亡くなった人達の遺体と向き合った釜石市の人々の約一ヶ月間を描いたドキュメンタリーである。釜石市は市の海側のマチが津波によって壊滅した。街全部が壊滅した自治体では、遺体の搬送、安置、検案等は他県から派遣された助っ人によって行われたようだが、釜石市は生き残った人達も多くいたために、地元の人々によって遺体の搬送、安置、身元確認等が行われた。つまり、知り合いの遺体に出会ってしまうことが少なからずありながら作業を続けなければならなかった。
行方不明者の捜索は、警察や自衛隊が行うにしても、遺体として見つかった場合、仮安置所に運ぶ人手がないために市の職員が特命を受けた。シルバー人材センターにも依頼が行った。遺体を普段見慣れない人が、毎日何十体もの遺体を運ぶ。仮安置所で、運び込まれる遺体を管理し、身元確認の世話をする。医師や歯科医が遺体の検案、歯型確認をする。被害を免れた寺の住職が避難した住民を一時世話をしたり、安置所の遺体に毎日お経をあげる。
これら地元で働いたひとりひとりの事情、行動、そして気持ちを書き綴った本である。1年ほど前に映画化されたそうだから、いつか見てみたい。
読んでいて、胸が苦しくなった。遺体の状態も尋常ではないし、死後何週間も火葬できないため保存しなければならず、その間の遺体の変化の記述もある。突然家族を亡くした人達が遺体を見つけたときの大きな悲しみ、それを見て複雑な想いに駆られながら仕事を進める安置所の人達の気持ちが痛い。
震災後2年以上経った今、初めて気付いたのは、亡くなった人達がどのように遺族と対面し、火葬されるまでどのような状態におかれていたのか 、ということを当時の自分は想像もしなかったということである。家も街も破壊されて生き残った人達は、仮設住宅に暮らしながら、国や市町村の援助を受けて新たな生活を始められるよう頑張っている、程度にしか思っていなかった。だが、その前に行方不明になった家族を捜し、遺体として対面し、その悲しみや苦しみから立ち直るまでの過程を経て初めて前を向くことができる。そのことに思いをいたさず、何とか早く街が復興して、普段通りの生活に戻れるといいなくらいに 祈っていただけである。
知らなければ知らないまま一生を終えたかもしれない。
地球上に住む人々のそれぞれの事情は生まれ死ぬ人の数だけあって数え切れない。すべてを知ることは不可能であり、知らなければならない理由もない。知らずに死んでいく事情は数限りない。
だが、たまたま本を読んで、遺体と対峙した人々の事情を知ってしまった。読後に「知らなかったことを知った」 という感慨を持ったような本は過去にあまり記憶が無い。
知らなければならなかったことだから、ではない事情だったからだと思うのである。

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