直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2014年04月の記事

飲み会は苦手 で善い

今読んでいる本にこんなことが書いてある。

・外向的な人は、内向的な人を置き去りにして話し続ける
・内向的な人は、話に割って入ろうとしても疲れるし、話を聞いていても疲れる。
・外交的な人は、会話の間を埋めてしまう。
・内向的な人は、会話に入ろうとするよりは、あきらめて会話から抜け出す方法を探す。

もちろん僕は内向的な人の側にあり、まるで自分のことを言われているようだ。
この本はアメリカ人が書いたものなので、上の4行はパーティーで外向的な人と会話をしている内向的な人の様子を説明している。
日本でいえば、飲み会とか懇親会で行き場を失っている人の姿だ。

若いころは会社の同僚と飲みに行くのは苦ではなかった。むしろ、楽しく会話ができたという記憶の方が多い。
いつのころからか飲みに行くことも減ったが、たまに行く飲み会がだんだんと苦手になってきた。
苦手になってきたというより、苦手な飲み会の機会にしか巡り会わなくなってきたということかもしれない。

特に懇親会というものに出ると、主賓の挨拶と乾杯が終わってひとしきり料理をとって食べたらもう帰りたくなる。
こんな自分は社会不適合者ではないかと自己否定に陥りそうになる。もっといろんな人と話をしていろんなことを吸収したり、関係をつなげたり、有益な情報を得たりといった前向きで有意義な機会を活かそうとしない自分に罪悪感さえ感じることもある。なんで他の人はあんなに楽しそうに話すことができるのだろう。

今までならこんな自分の気持ちすら吐露できなかったが、この本のお蔭で正直になれた。
これでいいのだ!
と承認してくれたから。
この本で内向的な人の考えと行動パターン、外向的なのが良いことだとされている社会からの刷り込みが詳しく説明されていて、それらがいちいち自分に当てはまる。
どうやってパーティーの誘いを断るか、やむを得ず出ることになったらどうしたらよいか、という指南まで書いてある。
バイブルになりそうな予感に最後まで読み終えるのが楽しみだ。

他者と接するときの劣等感や罪悪感が無駄なものだったことにようやく気付くことができて、肩の荷が下りた感じがする。



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潮干狩り

どうしても何かに集中したくなって潮干狩りに行った。
浅蜊採りほどに集中できることは、ほかにあまり思いつかない。
釣りを趣味にしていたら熱中するかもしれないが、当たりが無い時間が長いのはおそらく耐えられない。

場所は南知多の矢梨。昔から家族で行っている場所だ。
海鮮物の食事ができるので有名な魚太郎のすぐ近くにある。
矢梨海岸は、砂浜ではなく岩や石だらけで歩きにくいが、石の下にある泥のような砂は如何にも栄養が溜まっているような黒々とした色である。ここで採れる浅蜊はコクがあるというか、色も黄色っぽくて見た目だけでも味が濃そうな感じがするが、食べてみると見た目通りの美味しさである。

げんこつほどの大きさの石で覆われたような浜で、その石をひとつひとつ脇へ除けながら少し砂をかくと、たまに大粒の浅蜊が顔を出す。ひとついれば近くに30はいると言われるので、丁寧に石をどけながら、砂の表層を削るようにして、浅蜊が縦に砂に埋まっているその一部を見つけて軍手をはめた手でほじくりだす。その時の浅蜊の貝殻の丸っこい感触が快い。手の中に丸々と肥えた大粒の浅蜊を握った瞬間を求めて、無理な中腰なんのそので2時間はぶっ続けに採りまくる。

そういえば子供のころから○○狩りや○○採りによく行っている。親に連れられ、蕨採りに行ったことは覚えている。なぜかというと、誰もいない山の中に置き去りにされたかのような心細い思いをしたからだ。山の中に連れて行かれ、祖父、祖母、父、母はそれぞれ僕を中心に四方に散って行った。ずーっと遠くまで蕨を採りながら離れていく。誰もどこにも見えない時間が長かった。人里離れた山の中の下半身が埋もれるほどの草の原に立ち尽くしていたという記憶。気の遠くなる時間の後に親たちが戻ってきて、たぶん泣いただろう。それでも、近くの土手に野兎がいるのを見つけて心の慰めになったこともおぼろげに覚えている。
今になってみれば、親たちが子供をおいて蕨採りに集中していた気持ちがよくわかる。今の自分が蕨採りにいったなら、おそらく同じように子供をおいてどんどん進んで行ったに違いない。

自分を取り戻すために、あるいは、自分が自分でいるために、何かに集中したいのだと思う。今日はそれができたのでうれしい。



湧き出ずるもの


更新頻度がめっきり少なくなりました。
別に書く暇がないわけではありません。
書きたくて湧き出るものがないのでしょうな。

そんな僕とは対象的に、最近カミさんはブログのテーマを刷新(タイトルはエナジーピアノライフ)してから毎日更新するようになりました。
長いピアノ人生のこれからをまっすぐに見つめ、日々考えてきた思いが真(まこと)の言葉になって湧き出てきているようです。
自分の考えも、ノウハウも、体験も、惜しげもなく表現して、読む人が共感を覚えるのでしょう。
そのせいか、ブログ村のクラシックブログのピアノでランキング1位になっています。

そんな姿を横に見ながら一緒に喜んで過ごしているので、まあいいんじゃないかと思っています。

ピアノの曲を聴くのは好きです。それ以上に、その表現の奥深さ、表現者の試行錯誤や発見や気づきや苦悩の姿を見聞きするのは、どこかのうたい文句ではないですが、ピアノを100倍楽しく聴ける環境にいるのだなあ、と思って、得した気分になっています。

人が何を考えていようと、そんなことはお構いなしに季節は変わり、桜が咲く。
一年が巡るときちんと咲いてくれる。
一年前も咲いた。一年前を思い出す。
あいかわらず桜は美しく咲くが、考えてみると木全体を花で埋め尽くすように咲く花木は桜くらいだろうか。
枝が見えないほど密度濃く咲く花木はたぶん他にない。薄いピンク色なのがまたいい。
枯れ枝の冬景色が、いっぺんに薄いピンク色の景色に変わるのだから壮観だ。

いつもの川辺の散歩道は桜のトンネルになっている。川の反対側もずっと桜並木だから川面に映るのも楽しめる。
満開を過ぎつつある今日の桜。
今年の桜も今日で見納めかな。

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