直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2014年06月の記事

睡眠不足

眠い。睡眠不足だ。でも、何かやってないと落ち着かない。
今朝4時ごろ、飼い猫の「そらくん」の鳴き声で目が覚めた。うるさいなあと思いながら、様子を見にいったり、名前を呼んでやると一時的に鳴き止む。マンションの上下階の人に迷惑がかかるんじゃないかと思ってやきもきして眠れない。それでもうつらうつらしながら鳴き声がしたら名前を呼んでやる、の繰り返し。
結局、5時半に起きることにした。
昨日、新しい子猫が来たので先住猫の「そらくん」が落ち着かないのだ。子猫はケージに入れてあるのだが、その前に行っては何やら鳴いている。ひとしきり鳴き終えて廊下に出てもまた鳴く。ケージの前で「うるぁ」と鳴いて、前足を突っ込んでちょっかいを出す。その程度ならまだいいが、子猫をケージから出してやると首に噛みつく。子猫がギャッと鳴くと離れるが、すぐにまた噛む。どこか腫れたり切れたりしているわけではないが(甘噛みだと思う)、しつこく追いかけるので子猫の方は最初は向かっていってるが、次第に及び腰になり、イカ耳になり、隅っこに逃げ込む。大事に至る前に(続けてても大事に至らないのかもしれないが、どうなるか不安なので)引き離してケージに戻す。
「先住猫 子猫 噛む」というキーワードでググると、同じような様子で悩んでいる人の質問とそれに対する回答がたくさんでてくる。先住猫は縄張り意識があるので、子猫がそこにいるということを受け入れる必要がある。なので、ケージに入れたまましばらくお見合いを続けさせ、慣れてきたら少しずつ出すようにすればよいとのこと。子猫の臭いに慣らせて、そこにいるのが当たり前と思うようにさせるのだそうだ。
首を噛むのも猫としては当たり前にする行為なので、子猫が可愛そうに見えるがしばらく我慢して様子をみたほうがよいというコメントもある。早い場合は一週間以内に、長くて1,2カ月もすれば、ある日突然仲良くなるか、互いに無視するようになるかで納まるらしい。
とはいえ、目の前で子猫が噛まれているのを見るのはつらい。猫の世界は人間の世界とは違うのだが、どうしても人間目線で見てしまうので気が気でない。そんなこんなで今日は一日あれこれと対策を調べては試してみたり、気を紛らわすために家事をやったり出かけたりしていた。
昨日からカミさんは娘の下宿に泊りに行っているので僕ひとりで子猫初日と二日目を見ていたというのもある。本を読み始めてもふと思いついて猫の様子を見に行く。また別のことを思いついてはネットで調べる。朝早かったので眠くなってソファに寝転んでも、すぐに起きてしまう。
「そらくん」は飼いはじめて1年。彼が僕の顔を見て「にゃあ」と訴えることがある。だいたい何がしてほしいかわかるときもあるし、外れるときもあるが、ネコも何か意志を持った生き物で、人間と同じような論理で行動するものだと無意識に決めつけているところがある。人はすぐになんでも理由を知りたがる。その行動の理由を知って納得したがる。どこまで行ってもそれは人間の考えの及ぶ範囲ないでしかないのだが。
で、2頭目が来て、彼にとっても初めての経験なので本能で動いているのだろうが、僕にとっても初めての経験なので、彼の行動をどうしても理屈で捉えようとする。そして何とかコントロールできないかと焦ってしまうのだ。
この状態を悲しむべきか、それとも、これほど熱心に想いを致していることそのものを喜ぶべきか、たぶん後者だろう。疲れるけど。
平日は仕事だから猫を見ている時間はないわけだから、たぶん、知らない間になるようになっているだろう。そう考えると今日の寝不足はたいしたことじゃない、と思えてくる。

結局、前にも書いたけど、死んでお互い魂になった暁には、猫たちにあの頃何を考えてたの?って聴くんだろうな。
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アルヴォ・ペルト

日曜日の午後、NHK FMで「きらクラ」というクラシック音楽の番組を流している。たまたま、今日、車に乗っていたのでラジオをつけてみたら、厳かな宗教音楽のような合唱とオルガンの曲が流れてきて、一気にひきこまれた。
どこかで聞いたことがあるような。
このシンプルな旋律の特徴は、ペルトではなかろうかと思った。
数分で曲が終わり、パーソナリティのふかわりょうさんが曲名と感想を紹介してくれた。
やはり、アルヴォ・ペルトだった。
「デ・プロフンディス(深淵から)」という6分ほどの曲。
あとで調べてみたら、自分が持っているCDアルバムに入っていた。
なあんだ、何回も聴いていたじゃないか。というわけである。
「樹(Arbos)」というアルバムに入っている。Arbosはペルトの曲の中でわりと気に入っている曲で、珍しく音が多い、やかましい曲だが、不思議な雑多な雰囲気が中東のどこかの賑やかしい町工場と下町がこんがらがった地域を思い起こさせるようで(そんなところがあるのかどうかも知らない想像上の町)、引き込まれる。
その曲の後の何曲かの中に「深淵から」は収録されていた。
聴こうと思って聴くよりも、突然にラジオから流れてきた今日の感覚のほうが素直なんだろう。
ペルトとは不思議な作曲家だ。
エストニアの人でたぶんまだ生きている。
心が落ち着いていて、さらに落ち着きたいときに聴きたいと思う作曲家である。
(なので、最近あまり聞いていない、というのが実態)

P.S.
きらクラのパーソナリティが「ふかわりょう」さんだというのは、最初は驚いた。お笑いタレントだったはずだが、どうしたんだろう、と思って調べてみると、ピアニストを目指していたこともあるらしく、クラシック音楽には造詣が深いらしいのだ。番組内でのしゃべりもそつがなく、本当に音楽がすきみたいだ。

猫の気持ち ヒトの気持ち

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きじとら猫の「そら」
との同居生活も1年が経った。彼は絶対にひざに乗ってこない。常にヒトとは一定の距離を保って、決してべたべた寄ってくることはない。だからといって我々を嫌ったり、避けたり、無視したりするわけではない。朝起きると足にすりよってくる。匂い付けの行動だ。それに、寝起きの時は前足を僕のももの辺りにひっかけて伸びをすることもある。ソファで本を読んでいると、たまに足の指に鼻先をつけて匂いを嗅いだりもする。その程度には触れてくるけれど、休みたいときや眠いときにヒトのひざに乗ってくることはない。

そらを飼う前に、大須の猫カフェに行ったことがあるが、そこにいた短毛ソマリのフィート君は初めて会ったというのにいきなり僕のひざに乗ってきた。香箱座りをするわ、毛づくろいを始めるわで完全にくつろいでいた。そんな経験があったものだから、以外と僕は猫に好かれやすく安心できるヒトなのかな、と多少自惚れていた。けれど、結局はその猫の個性によるところが大きいようだ。

それはさておき、そらとはだいたい3つのパターンで接している。まずは、むりやり背中を押さえて床に寝かせ、背中をなでてやる。だんだんと腹側に手をすべらせていくと、ある限界を超えたところで噛みついてくる。やめろって。甘噛みしながら両足でけりを入れてくる。爪は出していないので半分遊びなんだと思う。
二つ目は、ペットボトルのキャップ遊び。キャップを投げてやると、全速力で走って拾いに行く。咥えて持ってくることもあれば、その場において、近くの物陰に隠れることがある。そういうときは、こちらから出向いてキャップを蹴ってやる。その軌道を見ていて、途中でカットするか、飛んで行った先を追いかけていく。これを何度も繰り返す。気まぐれに、自分でキャップを両方の前足でサッカーのドリブルのように転がしながら一人遊びを始めることもある。かなりの運動神経である。キャップを低い弾道で放り投げると空中で飛びついて両手で挟んでうまくキャッチすることもある。すぐに落とすけれど。
三つ目は、追いかけっこだ。僕が急に動くとびくっと警戒するように構える。わざと足音を立て、だっと近寄ると逃げる。おいおい、飼い主が近寄るのに逃げるのかよ、と最初は思ったが、逃げた先に追いかけていくと、ある距離に近づくまでは待っていて、もうすぐ手が届きそうだという瞬間に脇を全力で走り抜ける。これの繰り返しが彼が興奮するハードな遊びになっている。

先日はその遊びが行き過ぎた。そらは猫タワーから食卓とキッチンに三段跳びの如く飛翔して逃げようとして、水切り板を蹴倒し、食器をシンクに落としてしまった。
これはいかんな、そこに飛ぶことをやめさせなくては、と思って叱ることにした。逃げて行った先を追いかけていくと、さすがに自分でも悪いことをしたことがわかっているかのように、隅っこで縮んでいた。僕は大声を出して、こら~!と叱りながら少し強くパシッとやってしまった。そらはまた逃げた。なんだか無性に腹が立ってきて、もっと思い知らせてやらなくては、と自分でもなぜかわからないが急に意地悪な気分になった。テレビの後ろに隠れているのを見つけてまた大声で叱った。叱られているのはわかるようだが、なんでかはたぶんわかっていない。また飛び出して逃げ回るうちに、一番手の届かない食器棚の上の暗がりに逃げ込んだ。ジャンプするとかろうじて手で触れるので、指の先で頭をつついた。もうその時点になると、そらはかなり恐怖にさらされた状態になっていて、目をまん丸くして縮こまっていた。以前、うちの実家の親たちが来たときに家具の後ろに隠れて全くでてこようとしなくなったときと同じで、完全に警戒して動かなくなっていた。その顔には怯えの表情がありありと浮かんでいた。もういちど手を出して触ろうとすると、今度は低く「ううう~」と唸った。なかなか聞くことのない低い鳴き声だ。相当ストレスを受けている証拠だ。
ちょっとやりすぎた。かわいそうなことをした。そらはしばらく食器棚の上から降りてこなかった。僕が風呂に入っているあいだにカミさんがやさしい声をかけ、大好物のおやつを与えて気分を和らげてくれたおかげで、少し状態が戻ってきた。
結局、翌日には普段の調子に戻っていた。自分でもなぜしつこく追い掛け回したのか、その時の気分は、可愛いそらくんではなく、このいたづらやろうめ!だった。そんなふうになったことに罪悪感を感じ、一日気分がすぐれなかった。


昨日、猫の譲渡会に行った。そろそろもう一匹子猫を飼ってみたくなったので。そらの遊び相手になるといいな、とも思って。
その譲渡会には、茶トラとアビシニアン系の美男美女の3兄弟と白猫、黒猫、キジトラ3兄弟他、子猫がたくさんいた。茶トラはできたら欲しかったが、開始時間前に来ていたご婦人が3兄弟とも欲しいということになってあっさりと里親トライアルを決めてしまった。譲渡会は、捨て猫や保健所で殺処分になる猫を引き取って、躾や体調管理をして、飼ってくれるひと(里親)を探して引き渡すボランティア団体が行うので、趣旨から言えば、どんな猫でも保護してやるべきなのだが、やはり一緒に暮らすパートナーとしては、どんな子でもよいというわけには行かない。どうせ飼うなら可愛らしくて丈夫な子がいいに決まっている。先の茶トラ3兄弟なんかは、そのご婦人でなくても、誰かは里親を希望したに違いない。しかし、そうでない、寝てばかりいた元気のなさそうな白猫は、トライアルが決まったのかどうか。かくいう我々も気に入った子が居なかったので(というか、ご婦人に先に決められてしまったので)、トライアルを申し込まずにそこを後にした。ピンとくるものがなかったということだが、やはり、顔つきや丈夫そうかどうかということ、それにそらとは違った毛色にしたかったこと、そんな類のいろいろな思惑で「選別」しているのだ。
それでも、多くの人が譲渡会に訪れていたので、できればどの子も里親が見つかってくれればと思うのだが、一方で、選ばなかった自分たちはなんなのさ、という声が聞こえてきそうだ。そうは言ってもね、という気持ちもある。可愛がることのできる子でなければ、お互いに不幸になる。人間同士、親子兄弟でもいがみ合って毎日喧嘩ばかりしている家もあるくらいで、だからこそ、よい家族を持ちたいと思うのは自然なことであるし、縁を感じた子に来てもらって、安心な暮らしを提供するのだから、まあ大目にみてよ、と思うのである。

出会いが不調に終わって帰ってくると、そらがいつものように迎えてくれた。なんてうちのそらは可愛いのだろう、とふたりで猫可愛がりした。譲渡会の子猫たちには悪いけれど、彼らのどの子と比べてもそらは美猫なのだ。親バカかもしれない。譲渡会での出会いが不調だったからこそなのか、そらが急に愛しくなってきた。不思議な気分だ。数日前のトラブルが嘘のように、この子を可愛がりたい気持ちが波のように寄せてくる。全く勝手な奴だとそらは思っているかもしれない。

そらも僕らもこの世を去ってあの世で出会うことがあったら是非聞いてみたい。あの時君は何を思っていたのか、僕らのことをどう思っていたのか。昨日だけではない。たまにそんな考えが頭をよぎることがある。そうすると、そらに悪いことはできない。

一緒に幸せになろうな、と思う。
(というより、実際のところ、彼のお蔭で仕事のストレスなんかもある程度解消されてずいぶん世話になっているのだけどね。)
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