直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

2015年06月の記事

10月3日 山田美和子 ピアノリサイタル


カミさんのピアノリサイタルのチラシができてきました.
10月3日、名古屋 電気文化会館 ザ・コンサートホールです.
芸術の秋の土曜の夕べをこちらで過ごしてみませんか?
チケットはこちらからでも購入できます.→ 中電不動産のサイト

今回は、時代順に、スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンと
王道のプログラムです.
ショパンはバラード4曲を並べると言う意欲的な選曲で、それぞれの曲に秘められている曲ごとに異なるショパンの感情がくっきりと表現されたら、連作交響詩的に楽しめるのではないかと期待しています.

体作りから徹底的にやり直し、体幹を安定させることで、どんどん音が良くなって、前のリサイタルからさらに進化しています.
お楽しみに.

サムネイルをクリックしてください.拡大されます.
リサイタル表2

リサイタル裏2



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死の瞬間


RIMG1547bbb.jpg
(1年前の生後1か月くらいの写真)

この仔が1歳にならんとするこの4月に命を終えた.
強毒性のコロナウィルスに侵され、5か月間、この病気にしては長く頑張ったのだが、結局踏ん張れなかった.
本人は意識的に踏ん張ろうとしていたわけではないだろうが、命はひたすら生きることを最後までやめようとしなかった.
それは、命を終えるその日まで、動けないからだを動かして健気にも猫トイレまで歩いて行ってちゃんとその中で用を足していた姿を見ればわかる.

この仔がまさに命を閉じようとする瞬間を見守った.
からだのどの部分ももう動かせなかった.痙攣がときどき襲ってきて否応なく動かされる以外に自らの意志で動かしたのは口元だけだった.

何度も名前を呼びかけた.頑張れ!ではなく、「ありがとう」と言ってあげた.
僕ら夫婦の気持ちを和ませてくれた数か月間の彼の存在に感謝して「ありがとう」と伝えた.
小さく口を動かして最後に鳴くしぐさをしたり、水を口元に垂らしてあげると、少しだけ舌を動かしたりした.
それが最後の動きだった.

目を見開いたまま、視線は動かず、遠くを見るような眼差しのまま、呼吸困難の苦しさに胴体全体で抵抗するかのように肺と腹を膨らませて、ただ一回の息をしようともがいた.
そして肺と腹はすうっと元の大きさに戻り、動かなくなった.

からだの緊張がほどけるように全身の筋肉の弛緩がごくわずかな変化としてみてとれた.
その瞬間、視線が「遠く」ではなくなり、視線そのものが消えた.
もともと夜の部屋の中では猫の目は瞳孔が大きく真ん丸に開いているのだが、その瞬間、その充分大きな瞳孔がすうっと完全に隙間なく開ききった.
充分速い速度ですうっと開いた.
瞳孔を調整していた眼球の筋肉の緊張がすべて解かれたということか.
開ききった瞬間、「この仔は今命を閉じた」とわかった.
視線が視線でなくなり、眼は何も見ていないことがわかりすぎるほどわかった.
この瞬間にまさに魂が抜けた.それが直感的にわかった.
その瞬間を境に、生きていたもの=「生命」が死体という「物体」に変化した.
観念的にではなく、目前の現象としてそれが体感的に理解できた.

人が家や病院で死ぬとき、きっと目は閉じているだろう.祖父母の死には立ち会っていないが、立ち会っていたとしても、眼を開けたまま逝く姿を見ることはなかっただろう.この仔のように瞳孔が開ききる瞬間をヒトで見ることは今後もおそらくないだろう.
それゆえ、この体験は「強烈」ではなかったものの、あとから深くずっしりとくる記憶になった.

あれから2か月あまりたっても、その瞳孔が開ききる瞬間の映像が脳裏に鮮明に蘇る.
それを思い出すと、他のすべてのことから自身が解放されて、なぜか生きる勇気が湧いてくる.
不思議なものだ.死を見て生きる勇気とは.
逆説的なこの感覚は今の僕にとって大切な心の解放地点になっている.
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