直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

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池田晶子「死とは何か さて死んだのは誰なのか」を読んで

前回書いたが図書館で池田晶子著「死とは何か さて死んだのは誰なのか」を借りた。一度借りて半分くらいしか読めず、続けて借りようとしたら、ほかの方が予約を入れていて返さざるを得ず、しばらくしたら返っていたのでもう一度借りた。最後まで読みたかったのもあるが、すでに読んだエッセーの中で特に感じ入るものがあったので、それをもう一度確かめたかったのも理由だ。いけないのは、感じ入ったはずなのに、内容をほとんど覚えていないという体たらく。感じ入ったという気持の状態だけを覚えていて肝心のその中身を忘れているのだから情けない。ま、多くのことはこんなもので、あの映画は感動した、とずっと思っていても、もう一度見てみると、こんな場面だったかな、と思うようなことはいくらでもある。

 それでとにかく読んだ。途中どこまで読んだか、栞が挿んであるわけではないのであいまいだったが、中ほどから読み進めてようやく最後まで読み終えた。それでいいのである。なぜなら、だいたい同じことを何度も書いてあるから、抜けてても、ダブっていてもさして味わいに影響しない。

ともあれ肝心の前半で感じ入った部分がどこだったか、なんどもパラパラと斜め読みして探したが、これ、という部分が特定できなかった。いったい、どこがよかったのか?不思議な感覚だ。自分の記憶の不確かさを再認識したと同時に、こうも思った。音楽と同じで、読書の記憶もその時の自分の状況や感情とつながっていて、時を隔てて読んでみても同じ感覚では読めないということなのだろうか。

 ただ、ページをぱらぱらめくるうちに、今回は今回で気になる文が見つかった。今度は覚えておきたいので、このブログに記録しておくことにした。以下はちょっと長い引用である。

 覚悟があるなら、人生のたいていのことは、なんとかなるのではないでしょうか。「なんとかなる」というのは、決断を誤らない、失敗をしないということでは決してない。決断が決断である以上、それが誤る可能性、失敗する可能性は必ずあるわけですが、それらのリスクをも引き受ける覚悟で決断する、そういう心の構えがあるなら、結果はじつは二の次ではないかということです。
むろん、人生には、重大な決断をどうしようもなく迫られる場面があるでしょう。決断を誤れば莫大な負債とともに倒産するとか、決断を誤れば命を失うことになるとか、そういう場合に、決断の結果は問題ではないとは、なかなか思えるものではない。
しかし、決断の結果失敗するとか成功するとか言われる、その失敗とか成功とかはそもそも何なのかと考えると、これがじつはよくわからない。・・・中略・・・「失敗」「成功」というよくわからない言い方をあえて借りるなら、人生の成功とは、どういう心の構えでそれを生きたか、自分にとってのその納得に尽きるでしょう。・・・中略・・・ さらにもっと根っこにさかのぼって考えてみれば、そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意思は全然関与していない、気が付いたら、どういうわけだが、こういう事態にさらされていたわけです。 このことの不思議に思いいたれば、人間が自分の人生について、自分の意思で決断してどうのこうのということが、いかに小賢しいことであるかにも気がつくでしょう。・・・

 ここだけ切り出してみても理解できない面もあろう。反論したいこともあるだろうし、真に受けたら、何も一生懸命生きることは意味がないとも受け取ることもできる。だから、これを読んで何か納得がいかない方は、池田さんの本をいくつか読んでみてほしい。そうすると、上の引用の部分から感じることが違ってくると思う。
 池田さんが繰り返し言ってることに、「死は存在していない」というのがあります。また、一人称としての死、二人称としての死、三人称としての死といった形で死について掘り下げて考えています。死体はあるが、死は見えないし、わからない。一人称としての死、自分の死は、自分が死んでしまえば、自分が死んだことはわからないから、自分の死はわからない、ということになるので、自分にとって死は「無い」ことになる。生きている以上死んでいないので、生きている自分が死んでいる自分をわかるわけにはいかず、死がわかる状態は原理的にあり得ない。確かにそうだ。「死」は「無い」から、「無い」ものを恐れることはナンセンスだ。と一応、池田さんのいうことに理屈上納得した気になる。
 数年前に、江原啓之さんや飯田史彦さんの本を読みまくった。死後の世界や生まれ変わり、魂の存在を考えるならば、人生観が変わる。科学的に証明されていないので、これらの話は人生をよりよく生きるためのひとつの考え方であるとの立場から、でもしかし、本当にそうなのかもしれないと考えてみると、自分の日々の心の襞を一歩引いて見つめてなだめすかし、落ち着くことができたのも真実だ。
 池田さんは死後のことは全く無視している。死は「無い」のだから、死後も考えようがない。だが、死後があると考えても、死は無い、と考えても、自分は同じような気持になれるのだから不思議だ。死ぬことは怖くない。ということだ。いや、死ぬ直前はきっと怖いだろうし、「死にたくない」とおそらく思うだろうが、しかし、死んだあとは、魂が残った場合は、ああ魂が残ったと落ち着いて自分の今生を見つめなおすことができるし、無となるならば、何かを考える自分が無いわけだから、何もいうことは無い。苦しむ自分も恐怖する自分も安心する自分も何も無いので、無いことを心配することも無い。どちらにしても、結局、自分で死ぬことはできないのだから、死がやってくるわけだから、その時まで生きるということに尽きる。
 とまあ、池田さんにすこしかぶれて、池田さんの言うことを反芻してみると、今のところはこんなところだろう。少しは自分で考えろよ。と反省しきりである。

ひとつ思い出したが、池田さんは、本を読むということは、そこに書かれている言葉を理解するために「考える」という。当たり前のようだが、そうかと膝をポンと打ちたくなる。本ばかり読んでいると自分で考えなくなる、一生、自分で考えずに本を読み続けるのか、としばらく前に自分の他力本願なところを歯がゆく感じていたことがあったが、いやいや、本を読むというのは「考える」ことだと言われて少し安心した。考えなければ理解できないし、読んだあと、言葉が残る。「言葉」=ロゴスによって生きることが人間の人間たるゆえんであることも池田さんはうまい表現で説明する。ああ、自分には表現できない・・・、皆読もう、池田晶子さんの本を。

 最後に付け加えると、池田さんは2007年に46歳でガンで亡くなられた。当然、ガンのことを知っていて、死が近いこともしっていながら、直前まで書いていた文章に、ゆるぎはなかった。ずっと同じ調子で同じ思索を深めていた。無くなった前後に最後に掲載された週刊誌のコラムを探して読んでみたが、本当に今から死ぬ人が書いたとは思えないくらいにリラックスしていた。ちょっと温泉旅行に行っていたらしいが、本当にちょっと温泉に行く感じであの世に行かれたみたいだ(あ、あの世は無かったんだっけ)。そして、ずっと池田さんが書きつづけていた生死についての考えは池田晶子本人として真実であったことをその生きざま、死にざまで示したんだなあと思う。本当に死ぬ間際までペンを離さなかったそうである。
 しかし、自分にとって、池田さんの死は三人称の死であるが、いろいろと本を読んできたので二人称の死に近く感じる。つまり、池田さんが死んだというのは、単なる情報であって、死体を見たわけでなく、死後も本が出るし、いや、今まで出版された本は少なくとも自分が生きている限りいつでも読むことができる。そういう意味で、池田さんが仮にまだご存命であっても、状況は変わらない。つまり、死んでないということになる。この感覚は、祖父母がとうに亡くなったのに、もともと大学に行き出してから別居しているので、生きているようにも思えるし、遺骸を見たので亡くなったことも事実だが、それも今は「無い」、ここには「無い」ので、結局、死んでない、生きている、と考えても別段、何も変わらない。いつでも祖父は自分に語りかけるのだ。  こういうこと、こういう感覚になってきたのは、自分が40代後半になってきて少しは成長した証拠だろうか。
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