直仁の「善き人のための」研究室

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Christmas Meditation

名古屋新栄近くにある布池教会で23日、Christmas Mediationなる催しが開かれた。
カミさんに誘われて行ってみた。
合唱やパイプオルガンを聞きながらクリスマスの日を想ってみましょう、ということでMeditationのタイトルをつけたそうだ。一時間の中で、専属のオルガン奏者によるパイプオルガン演奏、神父さんによる聖書の朗読、プロ級のママさんコーラスによる合唱などが催された。

布池教会には以前、会社の部下の結婚式で訪れたことがあるが、あまり記憶に残っていなかった。外観は白を基調とした少し近代的な雰囲気で、内部も白い壁と、近代的デザインのステンドグラス。装飾はゴテゴテしておらず落ち着いてすっきりした内装であった。

最初と最後に讃美歌を皆で歌ったが、久しぶりに歌うということもあって喉から声を出すのがつらかった。腹から出したくてもなかなか上手くいかず、歌は普段から歌ってないとだめだなあ、と思った次第。
カミさんは教会内に響く自分の声に気を良くして大きな声で気持ちよさそうに歌っていた。周りにもそういう人の声が響いた。

神父さんの聖書の朗読は、イエスキリストの誕生の話が短く語られた。朗読を聞いた直後は、素直にそのまま、物語を淡々と理解したように思っていた。しかし、神父さんの解説を聞き、物語の背景や意味についての無知に恥ずかしくなった。というより、時代背景や当時の人々の常識みたいなものを良く知ってないと、ちゃんとした理解はできないということがよくわかった。
例えば、羊飼いとはどういう人たちだったのか、現代風にいえば、路上生活者が日銭を稼ぐために請け負っている、誰もやりたがらない仕事、ということのようだ。「羊飼い」というれっきとした職業をもった普通の生活者だと思って聴くのと、一般世間からは見放された人達と思って聴くのとでは大違いである。キリストが羊飼いと絡む場面の意味が違ってくる。

自分はキリスト教徒ではないし、教徒になりたいと思っているわけではない。どこかの宗教に入りたいという気も無い。しかし、それぞれの宗教がどう成り立っているのか、そこで言われている教義にはどんな意味があるのか、そういうことを単に客観的に知りたいということである。なぜなら、それらには人間存在を考える上でのヒントがあるように思うからである。

一方、キリスト教の教会という建物、装飾、讃美歌、音楽、そうしたものには「神聖な」雰囲気というものがある。これらに接することによって、何かを感じるということも事実である。それらに惹かれる人が多いというのも頷ける。いったいこれは何なんだ、と思う。どこかの偉い学者さんが解説してくれてるだろうから、ここでは考えないことにする。

神父さんのお話の中でどうしても気になる箇所があったことを覚えている。正確には覚えていないが、人は家族や親族に祝福されて生まれて来るが、時には、そうじゃない場合もある。子供をつくるつもりじゃなかった、生まれてきても誰も祝福してくれない、厄介者扱いされる、そういう子供もいる。「けれども、そういう子供も神様に祝福されているのだよ」という解説である。「神様」で説明してしまうのか。なぜ、「なぜ、祝福されない環境でも生まれてきたのか。そういう環境で生まれた子供がどう生きればよいのか?」いろいろ考えることはあるだろうに。(それが哲学的思考だと思う)
何か苦しいときに神に頼ったら、考えなくなってしまうじゃないか。自分で苦しみを理解し、理由を考え、消化していくことが本当はできるはずなのに。

そんなことを想って神父さんの言葉を聴いていた。ちょっと気になるところがあったけれども、ほとんどのお説教は十分に価値のあるものであった。

もうひとつ、「貧しき人々に救いの手をさしのべる勇気をください」という言葉があった。神様に対する祈りの言葉の一節である。この「勇気」という言葉の使い方に感銘を受けた。手をさしのべるという行動に対して、人間は「勇気」が必要であることを教えてくれているからである。そして、「貧しき」の貧しさは一体何が貧しいのかも問いになる。いろんな解釈ができる。いろんなケースがあり、それぞれにこの言葉は重い。
例えば、本当に金銭的に貧しい人に対して、お金を恵んであげるというケースがある。この時、お金を出す行為に勇気が要ることは想像できよう。どういう勇気なのか、これも幾通りもあるだろう。人によって違うだろう。自分も裕福ではないが少しのお金は差し出す余裕はある。しかし、お金は欲しい。そういう「欲」を断ち切る勇気も「勇気」だろう。これはわかりやすい。貧しい人にお金を差し出すその瞬間、相手から自分がどういう人間だと思われるかを何故か気にしてしまい、差し出す方なのに何故か気恥しい感覚を持つ。こういう感覚を断って差し出すための「勇気」というのも考えられる。他にもあるだろう。
一方、「心の貧しさ」を対象にする場合もあるだろう。考え出すときりが無い。そして難しい。
誰が貧しいのか、それは実は自分かもしれない、などと云いだせば、話がこんがらがってくる。そういう議論を秘めている。自分の方が貧しいのに、貧しくない相手に手をさしのべるのは、そりゃ「勇気」が要るだろう。さほど、掲題の言葉は難しい。
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