直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

自分は今どこにいるのか

九州大学に行って、帰ってきた。福岡空港から飛行機に乗り、中部国際空港に降りた。
昼間で天気もよく、珍しく前方の窓際に座れたので、窓の外の景色を楽しむことができた。
ほとんど全行程中、地上が見えた。山、川、農地、家、グラウンド、池、道路、その他すべて見えた。
今自分は地上何千メートルかの空にいて、時速400kmで飛んでいる。下には本当にさまざまな景色が見える。それはゆっくり動いていく。自分は今どこにいるのか、とふと思った。地上ではなし、飛行機の中だが、上空に浮いて動いている。自分は今どこにいるのか。何県の何市にいるのか。上空なので関係ないか。いのちをひこうきに預けている。他のことは何もできない。座っているだけ。そんなんでは、どこにいるということは全く意味が無い。どこにもいないのと同じである。
しかし、今、下の景色、雪がところどころ積もっている山並み、しわしわの山並みと谷を流れ、くねくねとうねる川。これを見て、ある意味、その景色の美しさを感じている自分は何者か。どこにいるということは関係なく、見ている自分があることは確実だ。これは何か。目と脳だけの存在か。それとも心か。心で見ているのだと思う。なぜか、それは集中してワクワクしているからだ。その心はどこにあるのか。身体がどこにあるのかは意味が無い。確かに飛行機の中に身体はある。そのこと自体は「どこにいるのか」ということを地球の所番地で考える上では意味が無いが、そこである景色を見ている心としての存在は意味がありそうだ。世界を認識している自分がある。自分が世界なのか。たまたま身体が空の上にあるが、今、地上に居て景色を思い出しながら世界を同じように認識している。ということは、自分が居る所番地は世界の認識においてあまり意味が無いことと言える。
自分は今どこにいるのか。それは結局考えても意味が無い。けれども、どこにでもいられる。従って、行けるところにはどこでも行けばよいのである。
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