直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

残酷人生論

自分であること

生きて死ぬこと

これが不思議でどうしようもないのだそうだ。池田晶子さんの「残酷人生論」である。

風呂につかりながら、毎日少しずつ読んでいる。裸になって、考えてみる。
正確には、池田さんの考えを考えてみる。その間に、自分として考えてみる。

池田さんが書くことは、何故か腑に落ちる。わかる気がする。これが心地よい。

「自分であること」の不思議。わかる。うん、確かに「自分が、横に居る他人ではなく、自分であること」はいったいなぜだろう。言葉では全く表現できない、この不思議の感覚は、果たして池田さんと同じであろうか。いや、同じであるかどうかは意味のないことだ。池田さんは、この自分ではないからだ。絶対に永遠に同じかどうかわからない。わかるはずがない。その根拠である「自分であること」は実に当たり前で、だから、そのこのがなぜなのか、ものすごくわからない。

このようなことを考えることによって、とても健全になれる気がする。少なくとも、これを考えている間、他の何事よりも大きな問題だからだ。そして、この問題は苦しくなく、楽しくさえある。

「生きて死ぬこと」これは、今まで何度も考えて来た。池田さんの著作の影響が大きいが、他のスピリチュアリズムの考え方にも触れて、その大きな違い、全く比べようもないほどの立ち位置の違いを両方とも自分に取り込みつつ、行ったり来たりしている。

今思うのは、「自分であること」と「生きて死ぬこと」の謎は根源的には全く同じだということだ。

説明のしようがないが、そう直観されるのだ。

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ところで、「残酷人生論」の表題には惑わされそうである。人生が一般的な意味で残酷なわけではない。
また、この本は人生論なんかではない。それは読んでみればわかる。池田さんが書いていることはすべからく哲学だ。

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「神」の章に入った。
池田哲学で「神」とは。神社の神ではないし、キリストの神でもない。
自分が自分であり、生きて死ぬことが今絶対であり不思議であり、したがって、そうならしめていることを提供しているものがあるとすれば、それが神である、と私は理解した。
ああ、しかし、言葉にしてしまうと思っていることとはだいぶ違う。どれほど、表現というのが難しいか。思い知らされる。絶対に誤解される。
ま、とにかく、続けて読みつつ考えよう。言葉にしてみて自分の考えを確かめ、違和感を覚え、また考えるわけだ。
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