直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

パワハラに動じない心。

水曜日
とても嫌な想いをしました。
会社で上司にパワハラに近い叱責を受けました。
朝、法令/コンプライアンスに関する勉強会で、パワハラ、社内いじめについてのビデオを観たばかり。
タイミングが良すぎるといいますか、これはパワハラであるという認識がよくできました。
上司といっても毎日顔をあわす直属ではないので、連日続くわけではありません。
パワハラに近い叱責
と書きましたが、叱責を受けたのは仕方が無いことです。
自分達のミス、未熟さが原因ですから。
しかし、その叱責の仕方、物言いがひどいのです。

とてもつらかった。早く終わってほしかった。解放されたかった。

あとで冷静になって考えました。
彼は、可哀そうな人だと。
自分がしていることを理解していないのだと。
こういうことをこれまで幾度も繰り返してきたのだろう。
その都度、ついていこうと思う人を無くしてきている。
今、彼は本当は孤独なはずだ。しかし、その理由をわかっていないだろう。

とてもかわいそうな人だ。他人の心がわからない。
人間というものの性質を彼はよくわかっているふうにおっしゃる。
しかし、そこに愛はない。駄目出しだけだ。駄目な性質をよくわかっていて、そのことだけはよくわかっている。
怒りをそのままぶつけることしかできない。能が無い。
そのことで相手がどういう気持ちになるか想像できない。
哀れだ。幾人の人から陰で嫌われているに違いない。
かわいそうな人だ。

でも、私は同情なんかできない。
それよりも私がこんなことで落ち込んでいてはだめなのだ。
人生は今が大事である。生きて死ぬこの人生をこんなことに煩わされるのはもったいないのだ。
こういうときにこそ、あるいは、だけ、悟りの効用があるのだと思う。
普段、何も無い時に、あえて悟りを開こうと思うのは何か無駄で厭世的な思考のようにも思うことがあった。しかし、今回のような外界の刺激に対する構えが重要になるとき、悟りが必要なのだ。

動じない。関係ない。何言ってやがる。
ということすら思わなくてよい真善美にとことん向かう心があれば。
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