直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

誕生日だからと言って

誕生日だからといって必ずいいことが起きるとは限らない
誕生日でも良くないことがおきることはある
しかし出来事は誕生日とは関係が無いはずなのだ
でも今日の出来事は誕生日だったからなのかもしれない

良い事
時々散歩する地蔵川沿いを歩いていて久しぶりにカワセミを見つけたこと
娘が誕生日プレゼントと言って珈琲カップをくれたこと
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良くない事
車で外出しようとしたらエンジンがかからなかったこと
予定が台無しだと思って思案した
ライトはつくしカーナビも動く
バッテリーあがりではない予感がしてディーラーに電話して助けを求めた
状況を説明したところバッテリーが弱っていると言う
近くにチャージさせてもらえる知人もいないので整備士に来てもらうことにした
結果はやはりバッテリーの消耗だったのでとりあえずチャージしてエンジンをかけてもらったものの
交換した方がよいというのでディーラーに行って交換してもらった

ここからが良い事
いつもの営業さんが待っていてくれた
今日は販促日だったので来店者への粗品が店内にいろいろ置いてあった
真っ先に彼はミスタードーナツ5個入りを「どうぞ」と持ってきてくれた
あっ、これか、こういうことか、こういう意味があったのか・・・
バッテリーの交換を待ちながらドーナツをもらったことだけの意味かどうか考えていた
もしこの不具合が夜遅くにおきたらどうだったろう
月曜日の夜遅くに娘の塾帰りを迎えにいく
別に車でなくてもよいし動かなければ歩いて迎えに行けばよいが
動かないことをほっておくしかなくて次の休日まで気になってもんもんとしていたことだろう
あるいは次の休日にカミさんがどこかに連れてってくれと言ったとしよう
途中で動かなくなったらえらいことだ
だから今日のように時間に余裕のある時を選んで動かなくなってくれたのだと思うのだ
先週の月曜日の夜の冷え切って雪の降る夜には動いたのだから

今朝は久しぶりに車をきれいにしようと思い立って簡易的ながら洗車したところだ
少しはこの子も気をきかせてくれたのだろうか

無機物ではあっても長年付き合っている機械や道具に特別な想いを持つのはなぜだろう
何の欲望も表明できない彼等こそ神のような存在であって
迷いの中に居る僕の心を見透かしているように想像してしまう

存在について考える
自分が存在している(と考える)ことの不思議と池田晶子さんは言うが
私が見て触っている無機物達の存在も
認識としては私の存在の一部なのである
私が居なければ、あるいは私が考えなければ、彼等は存在しないのだから(私にとって)
だから彼等に意志のようなものを認める心の働きが生ずるのも当たり前なのかもしれない

さあ今日は誕生日だから好きな食べ物を作ってくれるというので
いろいろ考えた末にお願いしたのはカレーライス

おととい仙台に出張に行ってお土産に買ってきた牛タン厚切りをこのカレーの上に乗せて見ようかと娘が提案した
いいね!
そういう会話もいいね!

折角なら高級食材の夕食にすればよいのにと普通は考えるだろう
しかし僕はなんでも美味しいと思うのだ
美味しいと言われるものはなんでも食べて来た
言う程徹底的にグルメというわけではないがそこそこ興味を持ってお金を使って食べて来たつもりだ
それで思うのは味にはいろいろあってバランスの善し悪しもあるけれども
やはり食べ物はありがたく美味しく
そして食べる側の構え次第であるということがわかってきたのだ
白状しよう
僕は1970年代に公立の小学校、中学校で給食を食べて来たが不味いと思ったことは一度もない
多くの人は給食は不味いと言った
どうして不味いと思うのかわからなかったが問う事も無かった
不味いのではなくて嫌いなだけなのだろう
食事のせいにするなんてずるいよ君達(と今なら言うかも)

今日はカレーライスをとびきり美味しくいただきたいと思う

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