直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

シベリア抑留に思う

最近、シベリア抑留者についてニュースなどで聞くことが多い。ちょうど国会でシベリア抑留者対象の給付金法案が審議されているらしい。私の祖父もシベリア抑留者だった。しかし、すでに亡くなって久しい。91歳まで幸せに暮らした人だったと思う。が、祖父がシベリアでどのような体験をしたかはほとんど聞いていない。TVでは、抑留者が酷い仕打ちを受けたことを強調しており、存命の方のコメントを紹介している。祖父もそうだったのだろうか。今となってはわからない。

2003年に、シベリア抑留と祖父についてエッセイのようなものを書いたので、以下に転載する。会社のイントラネット上のとあるサイトの投稿欄に投稿したものだ。

シベリア抑留から帰還した祖父のこと
          2003年5月

街の図書館で「シベリアへの旅路 我が父への想い」という写真集を見つけた。シベリア抑留の話だなとピンときて手にとってみた。写真家・角田和夫さんのご尊父がシベリア抑留時に辿ったロシア各地の現在の様子を撮ったものだ。
私の祖父も太平洋戦争で旧・満州に渡り、戦後、ソ連の捕虜となってシベリアに約三年間抑留された経験を持つ。角田さんにとっては父親、私には祖父だが、彼らは同じ境遇を囲った。角田さんのご尊父は、満州での軍隊生活とシベリア抑留を経て帰還するまでを手記に綴っていて、これを元に角田さんはシベリアの地を訪れ写真に収めてきた。
シベリア抑留を経験して帰還した方の何人かは、その経験を手記にしたり、出版したりしたことだろう。劇団四季でもシベリア抑留を描いた芝居をやっていた。私はそうしたものをまだ読んだり見たりしてはいない。写真集もぱらぱらとめくっただけだ。私は自分の祖父から話を聞きたかった。
祖父は一昨年亡くなった。生前、シベリアでの話を何度か聞こうとしたが、祖父は多くを語らなかった。世界地図帳のソ連のページを広げて、自分が辿った町の名前を追いながら、こんなところまで行ったのだと教えてくれた。だが、詳しく聞こうとすると、「まあ、忘れちゃったがや」とそっけない。ソ連兵に祖父が腕時計をやったら喜んでいた、という話は何回か聞いた。喜んでいたというのは半分嘘で、タバコや食料を融通してもらったのだろうと思う。ほかにもいろいろと覚えているだろうが、きっと話したくなかったのだろう。
もともと口数が少ない人で、若いときからいろいろな職についてきたが、飄々、淡々と渡り歩いてきた人だった。五十を過ぎてから、祖母と二人でよく旅行に行った。近場へは孫の私なども連れて行ったが、楽しんでいるのだろうか、とにかくあまり話をした記憶が無い。たぶん、行った場所で何かを見て知って何かを感じて、それで満足なのだ。私もそういう面がある。とにかく行って帰ってくる。動くことが生きることみたいに。その時が去れば、次の時をどう動くかに興味は移っていく。
 祖父は、満州でソ連に捕まり、シベリアに抑留され、日本に帰ってきた。その間、本当にいろいろなことがあったはずだ。だが、その運命に飄々、淡々と従って生きただけだ。済めば次の瞬間を生きるためにまた動き始めた。
写真集を見たのがきっかけで、祖父のことを振り返ってみたが、そうした生き方があらためて見えたような気がした。

以上
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