直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

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「死と生きる 獄中哲学対話」と「動的平衡」

図書館で借りた2冊の本を明後日返却しなければならないので、頑張って読んだ。私の読書スピードは速くない。東京出張なんかでもないと一週間で一冊も読めない。新幹線の1時間40分は貴重な読書タイムだ。(しかし、行きだけは会社関係の書類を見るようにしている)
読んだのは、池田晶子・睦田真志「死と生きる 獄中哲学対話」と福岡伸一「動的平衡」である。
まず、「死と生きる」についてはレビューを書く段階に無い。何回か読みなおさないと迂闊なことは書けない。ただ、これを読んだ先週一週間の気持の高揚感だけは記録しておく。近いうちに購入すると思う。池田晶子さんの本はいくつか読んだが、この本で初めて、池田さんの「愛」を感じた。そして、「死と生きる」というタイトルにして、両名とももう生きていないということも加わって「死」についての考えが螺旋を巡るようにあっちこっちと揺らぐ。死刑囚であった睦田氏は先の宮崎勤と同日死刑が執行された。しかし、彼の言葉もガンで亡くなった池田さんの言葉も私は本を読みながら耳間近に聞いているようだった。睦田氏の言葉には考えさせられることが多く、いちいち取り上げて吟味してみたいが、一方で、いくつかの書簡を池田さんが嗜める、その内容にも新たな視点で気づきを与えてくれる。
わけわかんなくなってきたのでやめるが、いづれもう少し自分の身になってきたら書きたい。
「動的平衡」は読みやすくて面白かった。生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。環境は常に人の体を通り抜けている。その流れの中で人の体は少しずつ変わりながら、一定の状態を保ち続けている、のだそうだ。つまり、生命は動的な平衡状態にあるのだという。雑誌に書いたエッセーをベースにまとめなおした本らしいので、全体として起承転結がある内容ではないが、どの章も「そうだったんか」と思わせる知識を本当に素人にわかりやすく書いてくれているので、気楽に面白かった。
そこで、しかし、池田さんがよく語っている「死」と「生」についての論考を合わせて考えてみた。生命は動的平衡だという。なら、考えるという行為も動的平衡の所産なのだ。動的ということは、動いているわけで、分子の分解も構築も時間の流れのなかの現象である。ここで、時間というものの存在の大きさに思い至った。「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画があるが、適役のディオがスタンドという精神が生み出す超能力体のような力が、時を止めて、自分だけがその中を動けるというシーンがあって、それをまさに思い出した。時が止まった世界を動くディオを主人公たちは見ることはできない。これは、死と同じではないのか?生命体が死を迎えると、分子は分解だけして、新たに細胞を構築することはなく動的平衡がくずれる。一方的に朽ちていき、分子・原子は分散しエントロピー増大の方向に動く。平衡が崩れるのが死ということになる。これは明確な結論に思える。もうひとつの考え方は、動的であること、でないことが死、である。つまり、それは、時が止まっているということに相当する。時間があるから動的平衡が存在し、生命が存在し、私が存在する。「時間の流れ」が無ければ、何も存在しない、ということではないか。「死」とは「時間との決別」ということではなかろうか。
今日の昼間に思いついてなんだかよさそうに思っていたが、今、文章にしてみると、かなり論理の飛躍がありそうだ。ま、もう少し考えてみる。
もうひとつ、こんなことを考えてみた。池田さんがよく「生きている」ということはどういうことかを考えるときに、対極としての「死」を考えるが、「死」は「無い」のだから「死は無い」。「無い」ものについては知りようがない。ということになって、だから、わからないものが善いのか悪いのかわからないということになる。そんなようなことを考えると、結局、死ぬのが怖いという一般の人が思うことが実は意味のないことになる(と私は理解している)。確かに、死んでしまえば、死んだ自分をわかるわけはないから、死んだところで何のことは無く、恐怖も何も感じる理由はない。だけれども、これはどうしても頭の中だけの理屈のように思えてならない。一時期、というか今でも、スピリチュアリズムを提唱する人らのことを半ば信じていて、魂というものがあり、死んでも魂は残り、生まれ変わるということもありそうに思っている。確信はないが(当然)、思っている。なんとなく、そうなんだろう、という気がしている。だから、死ぬのは怖くない、ということになる。あくまでもそう思っている。どっちにしても、「死」んだ状態は「無い」か「(魂が)有る」のだから、怖いことはないはずだ。理屈では。
でも、やっぱり死ぬのは怖いんじゃないか。多くの人がきっと怖いと思っていると思う(他人の心はわからないので想像するしかないが)。だとすれば、それはなぜか。「死」は「無い」ということだと池田さんが言うことは正しい。しかし、いつか「無い」になることが、とてつもなく「絶望的に心細い」んじゃないのか、人間は。それを怖いと感じているのではないだろうか。「絶望的に心細い」のも「死ぬ」その瞬間のほんの手前までの感情に違いないが。なぜ心細いのか、それは「死」がわからないからだ。まったく理解できない、そのことにすべての人は必ず到達する。必ず来る「死」が理解できない。それだから心細いのだと思う。
またまたわけがわからなくなってきた。このへんにしておいて、また整理がついたら書いてみたい。
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