直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

待つ: ねじまき鳥クロニクル

続いて、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいる。
全3巻のうち2巻まで読んで、最終巻を借りている誰かが図書館にそれを返却するのを待っている。

ここにストーリーを書く気はないが、面白くどんどん読めるということは感想として書いておく。
村上作品に常に感じる、自分とは隔絶した人間達。「人間の造り」が根本的に違う。けれども、それを脇に置きつつ、物語の進行に引き込まれる。現実世界に非現実が混ざり込んだちょっとずる賢いパターン(羊をめぐる冒険からかなあ)に魅せられるのだ。

平成6年に書かれたこの小説には、今のところ(2巻までのところ)、携帯電話は出てこない。17年前だから当たり前か。従って、登場人物の連絡手段は、固定電話か手紙である。とにかく、電話が鳴るのを待つか嫌がるかであり、連絡を取りたい人に、当たり前のように、簡単には連絡が取れない。携帯電話が普及していない時代の電話を「待つ」、連絡を「待つ」ということが日常生活という物語を今とは相当異なったものにしている(逆だ。今が相当異なっているのだが)。今、携帯電話というものが突然世界から消えてなくなったら、待つことのできない多くの人が精神の異常をきたすに違いない。だから、そういう人達が今「ねじまき鳥」を読んだらピンとこないかもしれない。物語の時間感覚がわからない可能性がある。
なので、物ごころついたときから携帯電話があった若い人達がこれを読んだらどう感じるだろうか。

もちろん、携帯電話があることの意味は別にもっと大きなものがあり、「待たなくて良い」というよりも、「他人と常に繋がっている」ことの方が意味があるらしい。本論は他に有名無名のいく人もの人が書いているからここで述べても真似っこになるだけなので書かない。

「待つ」間にたっぷりの時間を使って考えることができる。ねじまき鳥は主人公が「考える」ことの多い小説だ。それを読みながら僕もいろいろなことを考え、いろいろなことが少しずつ自分の中に浸みこんでくる。
ここにこんな文章も書くことになる。
関連記事
スポンサーサイト