直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

音楽を「感じる」不思議

そもそも音楽とは何であろうか。
音、音程、リズム、和音、旋律、音階
音楽の要素
音楽をどう分解していっても、必ず、時間と絡む
瞬間、瞬間の細切れ音のみでは音楽にならない。
(そもそも、物理的には、完全な瞬間(時間間隔ゼロ)には音は存在しないが、そこまで厳密な議論はしない。)
単位の音と音との連結が音楽とすれば、人はその連結を認識するということだ。
何を言っているか?
今この瞬間に聞えている音と、ほんのコンマ何秒か前に聞えた音と、さらにその何秒か前に聞えた音と、そらにその前に聞えた音、それらを少なくとも記憶していて、かつ、それらの音をつらなりとして認識するということである。
面白いのは、音のつらなり方の無限にある組み合わせの中で、ある組み合わせが多くの人に共通に「心地よく」認識されるということである。また、ある組み合わせには快活を感じ、ある組み合わせには気分の下降を感じる。また、ある組み合わせには嫌悪感を感じる。共通的に感じる感じ方があるから、世に音楽が流行り、皆が同じように好きになる。コンサートが開かれ、こぞって聴きに行く。いつでもどこでも携帯機器から自分専用の音楽環境を作り出す。
共通な感じ方があると同時に、個別の感じ方もある。同じショパンの舟歌を聴いても、私はブレハッチの演奏がいい、僕はアルゲリッチだ、俺はツィメルマンだ、と人それぞれ好き嫌いがある。同じ舟歌といっても、演奏者ごとに確かに聞えてくる音楽に違いがある。音楽の違いとは、音の強弱、ひとつひとつの音の長さ、同時に鳴る複数の音の強さの比率、音と音の間隔、リズム、リズムの揺らぎ方、同じ高さの鍵盤を押さえているのに、違う音色に聞えたりもする。そのひとつひとつの違いの要素をいちいち分析して自分が好きかどうか判断している余裕は人には無い。結局はアバウトな感覚でものを言っているのであろうか。
いやしかし、こう思うのである。知っている曲を聴いていて気持よいのは、今、この瞬間の次に聞えてくるはずの音を何かしら予想し期待していて、そのとおりに聞えて来るということではないだろうか。さらには予期しなかったとしても驚きと共に新鮮に許容できる音であれば、脳の興奮の力を借りて新しく好きになる事もあるだろう。
この感じ方や許容幅の個性はどこから生じてくるのだろう。それは、生れてから今日までに耳にした音楽の経歴と、その音楽を聴いたときに思っていたこと、自分の生活の中での状況、あるいは眼の前の風景、その瞬間の感情(音楽から得られるというよりも、先に生じていたもの)、これらが積み重なってきているに違いない。わかりやすい例でいえば、ビスコンティの映画「ベニスに死す」を見た人と、見ていない人では、マーラーの交響曲5番のアダ―ジェットをコンサートホールで聴いたときに去来する頭の中の映像は違うということだ。中学校の下校時間に毎回流れてくるショパンの「別れのエチュード」を3年間聴き続けた人は、この曲を聴くたびに、中学校の夕暮れの若干赤みがかった空気の中の赤みがかった校庭の土の色と赤みがかった木造の校舎を思い出すだろう。

音楽は「想い出」とともにあると言っても過言ではない。それは特別な想い出である必要はない。その瞬間の心の状態が音楽に貼りついているのである。それはきついものもあるし、緩いものもあり、緩いものは容易に変容し更新される場合もある。
音と音のつながりのパターンは記号として単に記憶されるだけではなく、心の状態とともに記憶される。この不思議な人の記憶の仕組みに気づいた時、僕は嬉しかった。

外山滋比古「思考の整理学」(1986年刊だが、2008,2009年に東大・京大生協で一番売れた本だというPRが帯についている)の中に「アナロジー」という章がある。

『あるとき、妙なことが気になり出した。ことばは静止しているのに、文章を読むと、意味に流れが生じる。』

なぜだろうかと考えていき、ついに「慣性の法則」を思いついたのだそうだ。
『ものを見ていた眼は対象が消えたあとも、なおしばらくは、それを見続けている様に錯覚する。残像作用である。』

この考察は確かにそうかもしれないが、外山さんはなぜこの時、音楽についても同じ不思議に気がついて論考しなかったのだろうか。もし気が付いていれば、僕の疑問に対しても答えてくれていたかもしれない。
しかし「慣性の法則」には色気が無い。音楽の場合は残像作用(残響作用)で聴いていると言いきってしまってよいのだろうか。外山さんが音楽について僕のような素朴な疑問を生じたらどう回答を用意するだろうか。ことばについての考察と似た事になるだろうが、僕的な考察もしたかもしれない。
外山さんは、しかし、この章で「アナロジー」について言いたかった。静止したことばを文章で読んだ時に意味に流れが生じることを、映画の駒送り原理のアナロジーとして考えた事を紹介したかっただけのようなのだ。だとすると、音楽を同じように考察することは本質的にはできないだろう。前提の異なるものに対して文句を言ってはいけない。
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