直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

音楽は個人的なもの

何年か前に鶴舞の古本屋で買った武満徹の本「音楽を呼びさますもの」を棚の隅から引っ張り出してぱらぱらと読んでみた。
無音の音のことが気になって、誰かが書いていた筈だと思って、なんとなくその本に書いてあるような気がして手に取ってみたのだが、目的の記述は無かった。
無音の音というのは、つまり、外界の音が無いような環境では人は何も聞こえない無音の状態にあると思いがちだが、実は普段は気がつかない高い連続的な音がツーンと頭の中で鳴り続けていて、外界が静かであればあるほど、その高音が大きく聞えてくる、その音のことである。この音は、慣れてくれば、外の音がかなり大きくても意識的に認識することができる。先日、会社の同僚にそのことを何とか説明しようと試みたが、全く通じなかった。この文を読んでくれている人にもわからないかもしれない。もしかすると自分だけがそのような音を感じているのか?と疑いたくもなるが、ただ、しかし、何年か前にある本の冒頭で、この感覚のことを記述しているのを読んだ記憶があるのだ。この自分の感覚(無音の音)が自分だけのものではないことを確認したいので、もう一度、その本を読みたくなったわけだが、見つからない。

それはさておき、武満徹の本に、これはまた自分の音楽というものの理解に灯りをともす一言が書いてあって嬉しかった。
「あくまで音楽は個人的な感情から出発するものですが、それがある方向性をもって他者にはたらきかけるということです。」
個人的な感情から出発する以上、同じ音楽を聴いても、全く同じ感覚にはなり得ない。作曲家や演奏者は、方向性をもって働きかけるので、その方向性に共感した受け手が多いほど、その音楽や演奏は「善い」音楽であり演奏であると評されるのであろう。しかし、あくまで方向性への共感であって、受け手の感覚は、やはり、受け手によって変性された個人的な感情に還元されたものとなる。
武満徹の邦楽を取り入れた現代音楽を聴く西洋人と日本人の個人的感情は全く異なるに違いない。多少とも生活のどこかで邦楽を耳にしたことのある日本人と、全く聴いたことのない西洋人には、邦楽的な音に対する感情を伴う経験値が全く違う筈だからだ。にも拘らず世界で受け入れられているというのは、その音楽のもつ方向性は、生まれ育った国が違う人々に共通に共感できる普遍的な何かを有するからなのだろう。それが何かは武満のこのエッセイ集を読めばもしかしたらわかるかもしれない。音楽に込められたその方向性は、音楽そのものから感じ取るだけでなく、作曲者の作曲の出発点となった個人的感情を想像させる彼の思考様式や哲学を知ることによって、理解が深まるのだと思う。

他に読みたい本がたくさんあるなかで、この少し難解な課題に挑戦するのはいつになることやら。
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