直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

言葉以前

金田一秀穂さんが新聞のインタビュー欄で言っていた。

今の人類ホモサピエンスは二十万年前に誕生したんですが、言葉が無いまま十五万年間暮していた。・・十五万年間、僕等は何をしてたんだろう。どういうふうに世界を見ていたんだろうか。その考え方、感じ方が今僕らの中にあるはずだ・・・。・・・禅で道元は「悟りというのはなんですか」という問いに「それは言葉にできない」と言う。言葉にできないから座禅をすると言うけれども、それは言葉が生まれる前の世界ではないか。十五万年間の記憶を体感できる人が神を見出すのではないか。・・・言葉というフィルターが常にあって現実世界はその向う側にある。言葉はすでにバーチャルになっている。言葉の向う側にある現実に僕たちは触れる事が出来ない。「お刺身」っていうとおいしいけれども「死んだ魚の生の肉」というととても食べられない。でも本当のもの、「赤くてぶよぶよして生くさくって」ていうものは僕らは感じる事が出来ない。・・・・

なるほど、物事を認識するのはほとんどすべて「言葉」によっているということを改めて認識させられる。言葉は意味を持ち、フィルターになっている。言葉の意味は辞書に書いてあるが、全く一義ではない。辞書に種類があるし、時を経て改訂される。一昔前、たとえば江戸時代に辞書はあったか?それ以前に、今と同じ言葉を使っていたかどうか怪しい。同時代に生きる日本人同士の間でもある言葉の意味は微妙に違う。すべて人は自分の色眼鏡に化生している言葉というフィルターによって世界を認識している。

だからこそ、言葉の無い時代に生きた人々は何をどう考えていたのか、知りたくなる。考えると言う事は、通常、言葉によっている気がする。頭の中で言葉がうごめいている。言葉が無かったら考えるということもできないのではないか。では、言葉の無い時代に生きた人々は何も考えていなかった?あるいは、何かを感じてはいたのだろう。あるいは、本当は言語らしい言語は無いが、音やジェスチャーなどによる記号を使って意志疎通を図っていたかもしれない。怒りの表現や悲しみの表現など。空腹、危険、いろいろな状態。内部状態、外部環境。それを他者に伝える手段はあっただろう。犬や猫だって、他者を威嚇したり、甘えたりする。

現代は、言葉で表現された他人の経験や観念を知識として自分に取入れることができる。知識は膨大になる。膨大な知識を使って考えることは何か?ある考えがその時固まっても、別の知識が入って来て(他者の考えも含めて)自分の考えというものは変転するだろう。そのような不安定なものであれば不安になる。だから人々は自分を言葉で規定しようとする。

音楽は言葉か?ある短いフレーズに何等かの意味を持たせることが出来る。それは言葉の力を借りる事はあるが、本質的な音楽の象徴性はある。悲しげな旋律は、誰が聴いても、だいたいは悲しげに聞える。楽しげなものも同様。それは記号の一種と考えてもよい。今や世界には音楽が溢れ、同じ曲を聴いて多くの人が同じように感動することが少なくない。その意味で音楽は言葉の代りになりうる。ひとつのことを伝えるには時間と場所が必要で、少々、面倒な手続きが必要であるが。

では、言葉以前のものは、もはや言葉を持った我々には理解不能な「体験」なのか?金田一先生の談にあるように、禅の悟りみたいなものはそうなのかもしれない。
村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだが、象徴の言語で溢れかえっている。奇想天外なストーリーは引き込まれるほどに面白いし、登場人物のキャラクターもそれぞれが生きていて皆でひとつの世界を構成している。だが、すべての出来事と会話は象徴だと思われた。何かおそらく彼の哲学を表現したくて、言葉を選び選びつなげてしかも清潔に綺麗に並べた。その世界にいるときには重要と思われる言葉をすべての人物が反論の余地なく、それしか言いようが無い表現で語り、僕の心に響かせる。しかし、読後にそれは消え失せている。もしかすると、この言語経験の間に、言語では説明できない何かを僕の脳裏にスポイトで一滴ずつ落として浸みこませているのかもしれない。これから先の日常のどこかある時に、ふっと思い出す感覚としてこの読書経験が効いて来るかもしれない。小説は知識として残すものではなく、体験として語りとして記憶に残って行くものなのだろう。
悟りとは、始めからダイレクトに言語と決別した体験の中にあるのだろうか。言葉を離れて「感じる」ことを追求しているのが本来の宗教信仰の姿ではないか。そのような原型の型だけを究極に守っているのがYOGAかもしれない。単なるストレッチ運動と思ってやるのもよいが、目指すのは、自分の身体を感じる事である。より深くより詳細に。骨格、筋肉、筋、内臓。自分の身体のあらゆる部位も全体も瞬時に感じる訓練としての側面がある。腕を上げる時の肩甲骨の動き、関節のひっかかり、筋の痛み・・・あらゆる微細な感覚に神経を集中させる。呼吸は意識しなくても呼吸であるが、意識しても呼吸である。身体部位のすべてが実はそのようなものかもしれない。内臓はほとんど無意識下で働き続けているが、感じようとすれば感じる事ができるようになり、そのうち、意図的に働きを制御できるようになるかもしれない。そこまでして何の意味があるか、ということはとりあえず置いておいて。自分の身体を感じることをつきつめていくと、余計な知識に基づいた余計な考えが胡散霧消する。ここに言葉の無い体験が待っているのではなかろうか。
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