直仁の「善き人のための」研究室

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非現実的な夢想家として 村上春樹

村上春樹氏がスペインのカタルーニャ国際賞を受賞した時のスピーチが少し話題になっている。例えば以下のURLに全文が掲載されている。

http://megalodon.jp/2011-0611-0101-51/www.47news.jp/47topics/e/213712.php?page=all

しばらく前に新聞のコラムで、このことを批判的に書いてあったのを斜め読みした。彼が原爆や原発に対してノーというメッセージを示したのは初めてだ、云々。どんな内容だったか忘れた。

全文を読んでみて、素直な自分は、なるほど我々は(日本人は)間違っていた、と反省気分になる。
しかし考えてみると、こういう発言は福島で起ってしまったからこそできたんじゃないか、起ってしまえば誰でも言えるんじゃないか、と言う事もできる。
それでも、あえて言葉にして人々にメッセージを送ることが物書きの仕事であるとも言える。
できるだけ論理的に情緒的に説得性を持って、人々の心にしみる言葉を駆使して表現するのが物書きの使命だ。
そういうふうに村上氏のスピーチを好意的に受け取ることはできる。

さらに一歩進めると、福島の事故が起きなくても、持ち前の想像力によって、もっと前から同様のメッセージを発信しているべきではなかったか。それが本物の物書きの姿ではなかろうか。

少し調べてみれば、小説家、文学者、思想家、哲学者と称される人々の中には、すでに前から反原発を訴え続けていた人はいるはずである。しかし、知る人ぞ知るでは力にならない。村上氏にしても、日本の社会・国家を動かす事はそうそう簡単ではないだろう。氏もそれは当然認識しているからこそ、「非現実的な夢想家」という言葉を使っているのだろう。そして、あえて、皆が「非現実的な夢想家」にならなければならないと訴えている。長い年月の間に、現実になることを夢見て。

今回の事故を踏まえて、技術神話の崩壊、と一言で片づけられることが多いが、世の中の技術者はどう感じているのだろうか。うまく言えないが、この言い回しには違和感を覚える。これは誰の「技術神話」だったのか。
世の中の技術者には、神話になるほど素晴らしい技術にまみれている人はほとんどいないと思う。たいていの技術には欠点があり、不完全さがあり、限定的な使い方しかできないものであることは誰でもわかっている。ましてや、ひとつの技術をある程度ものにすることがどれほど大変なことか、一生かけても成功体験をできない人は多い。
誰が「技術神話」を語ったのか。そしてそれを信じたのか。象徴的、無検証的な言葉を使うことは確かな議論を阻害するのではないだろうか。「技術神話の崩壊」は技術論ではおそらく無いのだと思う。
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