直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

天才と努力と、もうひとつ

故糸川英夫博士の「逆転の発想」新装版を読んだ。約40年前に出版された本の再版である。古いけれども現在に通用する言葉があまりに多いので驚いた。マネージメントや経営や新商品開発やエネルギー問題など。1970年代に2000年までの予測を試みているが、時期の違いはあれ、およそ当っている。当っていることに価値があるというよりも、予測できた理路とその根源たる物の見方と見識の広さに憧憬の念を覚える。

内容はさておき、面白いと思った言葉のひとつに次がある。

天才は単に努力の階段を隠しているだけ。隠さず表に出す人が努力家と言われている。

直感的にこれは正しいと思った。天才だと言うのは結局他人であり、他人は本人をどのくらい知っているか?ということである。天性のものがある、ということはあるかもしれない。それが生れつきなのか、生れてからの環境によるものなのかは結局最終的には判別不可能である。

とはいうものの、知識にしろ、芸術にしろ、スポーツにしろ、その分野で成し遂げられるものは時代を追って高度化し、かつ、より若い個人によって達成されているのを我々は目撃している。例えば、今朝放映された「題名のない音楽会」で紹介された、11歳のピアニストの牛田君とか、13歳のバイオリニストの服部さんなどは、すでにとんでもない演奏技術と味を持っていて驚いた。服部さんの演奏は見ていて涙が出そうになったくらいである。こういう事態は何故生じるのか。努力はものすごいのだろうが、それだけでは説明できない何かがある。音楽性、あるいは演奏技術の元となる何か勘のようなものは世代を越えて引き継いでいるとしか思えない。「生まれながらにして」というものがあるのではないか。あるいは、そういう素質を持って生れる子供は確率的に結構多く、ただ、その中でたまたま音楽家の家庭に生まれた子が、その素質に加えて尋常でない努力によって神童になるのではないだろうか。

そうなると、天才は単に努力の段階を隠しているだけでなく、その素質がたまたまその分野と出会った幸運を身にまとっていると言わなくてはならない。
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