直仁の「善き人のための」研究室

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マーラーの交響曲が好きなのだけれど

「好き」なものはいろいろあるが、問われた時に「好き」であることを思い出す。
四六時中それが好きだということが頭を支配していることは無い。むしろ普段は忘れている。
チョコレートが好きだとしても、おやつの時間に腹が減って何か食べたいと感じたときや、コンビニに入って陳列棚を見た時に「好き」が現前してくるが、そうでない時は忘れている。

今年、マーラー没後100年でイベントをやっていたのに、マーラー好きの私がそれを逃していたことにショックを覚えている。名古屋マーラー音楽祭というイベントで、今年1年かけて全曲演奏が企画されていたのだ。
もうほとんど終った。残るは来年7月の第8番千人の交響曲である。これには忘れずに行こう。この曲は名前のとおり超大編成なので滅多に生で聴ける曲ではない。

気がついた経緯はこうである。
先日、夜、面白いテレビ番組も無いので、過去に録画した番組を見ることにした。NHKの名曲探偵アマデウスという番組が録画しっぱなしで4,5本見てないものがあった。ひとつひとつ早送りしながら内容を確認していると、マーラーの交響曲第2番「復活」の解説があった。

「復活」は交響曲の集大成と呼ばれているという。全5楽章90分の大曲は、通常の2倍以上の人数の各楽器の編成と独唱、合唱からなる。音楽の始まりは「歌」であった。それが「宗教音楽」⇒「教会カンタータ」と発展する。もうひとつは世俗的な歌「ドイツリート」に発展。さらに、オペラを経由して、その序曲であったシンフォニアが独立した交響曲(シンフォニー)へと発展しベートーヴェンが完成させた。
これら3つの要素をすべて統合して作り上げたのがマーラーであり、「復活」だとのこと。

マーラーは10人兄弟だったが、半数近くが幼少時に無くなり、人間の生と死について深く考える人だったという。彼の音楽の創作を通して「生とはなにか、死とはなにか、人間は何のために生きるのか」を問い、自分なりの解答を模索し続けた。
「復活」は、まず第1楽章の葬列のテーマで、人間の死を直視する。第2楽章で生きる喜びや楽しい体験を表現する。第3楽章、第4楽章と進行する中で、人生の苦しみ、不安、悩みを突きつける。「なぜそれでも生きるのか」。
そして、第5楽章で解答を見出す。合唱の歌詞において。
「私はよみがえるために死ぬ」

だいたい以上のような解説だった。
マーラーが好き、と言っても、純粋に曲想、メロディーライン、迫力、緩徐楽章の美しさ、等々が好きだった。その旋律の意味(ある旋律はディーエスイレの旋律だとか)も知らず、何を問うているのかも知らず、それでも、一曲一時間以上もかかる交響曲すべて(1番から9番、大地の歌、未完成の10番)飽きずに聴けるほど気に入っていた。
ところが、先のように「復活」の解釈を知ったことで、例えばその5楽章の大合唱で盛り上がる箇所の感動が倍増し、番組で一部分しか演奏されなかったにも拘らず、涙がでてきた。これが、マーラー好きを再点火した。
単純に「復活」を生で聴きたい。それが今の望みである。
それでインターネットで演奏会の情報を探しているうちに、名古屋マーラー音楽祭の全容を知ったという次第である。

前に、考えることと音楽について書いたことがある。考える、ということは、頭の中で自分で言葉を発し、それを聴いているという過程を必ず通っている。言葉、言語無しに「考え」は無い。日常生活、会社生活での問題、課題、悩み、それらすべて、頭の中で必ず言葉として考えられている。当たり前のようで、しかし気がついてみると、何か大事なことを発見したような気分である。
一方で、音楽を聞いているときはどうか。音楽に集中すればするほど、余計な「言葉」は頭に浮かばない。そのような状態は、「何も考えていない」に等しい。もちろん、歌詞のある音楽で、歌詞そのものを言葉として受け入れて、その言葉に感動したり勇気づけられたりすることもある。しかし、歌詞の無い器楽曲ではどうか。
それにのめり込んでいる間は、すべてを忘れていられる、ということに気づく。その理由は上に書いたとおりだ。
マーラーの交響曲は長い。短くても50分。最長90分。これだけの時間、何も考えないでいられる、というのは
自分にとってのマーラーの音楽はある種の麻薬といってもいいのではないだろうか。
だから好きなのだ。
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