直仁の「善き人のための」研究室

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赤松明彦「バガヴァッド・ギーター」神に人の苦悩は理解できるのか? を読んで

正月休みのいつか、ハイビジョン特集 菅野美穂 インド・ヨガ 聖地への旅 を見て、バガヴァッド・ギーターを知った。ヒンドゥー教の聖典であり、ヨガとは何かが書かれている、と紹介されていた。番組の中では、さまざまな装丁の本の姿でカラフルに書店に並べられていた。中にはポケットサイズの本もあり、日本の書店の会計近くによく置いてあるポケットサイズのお経に似た感じであった。大きな本には、サンスクリット語と英訳が一緒に載っていたりする。
インターネットで検索してみると、なんと日本語訳の全訳が載っていた。すでに「神の詩」という題で出版された本の中身と同じらしい。長編の詩である。
最初は、ヨガの経典、ヨガとは何かの宗教的解説書、もしくは、お経の類かと思っていたが、そうではなかった。
バガヴァッド・ギーターは、ひとつのまとまった詩編であると同時に、インド古代叙事詩「マハーバーラタ」の一部である。マハーバーラタは、パーンダヴァ族とバーラタ族の争いを軸として語られる大叙事詩であるという。バガヴァッド・ギーターは、登場人物である戦士アルジュナが、親族達との戦闘を前にして、道徳的な葛藤のため、戦意を失い、武器を置いてしまうのに対し、御者であったクリシュナが神としての姿を現し、戦え、行為を為せと説得する対話編からなっている。神クリシュナは戦士アルジュナに「結果への関心を放棄して、ただ行為のみを行え」と繰り返し説得する。これは、敵である親族を殺すことに悩むアルジュナに対し、「戦え」「殺せ」といい、それが義務であると言うわけだ。一読して理解しがたい。神がなぜこのようなことを言うのか。どのような意図で言い、この対話編が意図するものは何か。そういう疑問が湧いてくる。

掲題の赤松氏の書を図書館で借りてきて読んでみた。2008年発刊なので、わりと最近の本である。
ガンディーもバガヴァッド・ギーターを読んだ。彼は、「実際の戦場のイメージを借りて、人間の生において展開する精神の戦いを表すもの」として寓意的に読んだ。そして、「無私の行為」の教説を読み取った。
アルジュナは、何度も繰り返し説得を受けるが、いつまでも納得しない。最後にアルジュナは再び立ち上がるのだが、なぜ、立ち上がったのか、そこまでの長い対話の中で、アルジュナの人としての苦悩の深さは大きなものであり、神クリシュナが人の苦悩を理解するという試練に立たされたみたいだと、赤松さんは言う。そして、神も態度が変わった。最後に神が何と言ってアルジュナを説得したのか。その言葉の意味は何で、なぜアルジュナは説得されたのか。それを探るのが、この赤松さんの本のストーリーだ。
赤松さんは大学教授である。大学の先生の本というと、面白みがないものと想像しがちだが、本書は違った。確かに専門書的な論説で構成されてはいるが、比較的自由に、氏の心の赴くままのストーリーで、アルジュナがなぜ立ち上がったかの謎解きを最後に待たせながら、わきを固めて話を進めていくので、推理物を読むようで面白かった。

最後の説得の言葉はどうであったか。

「一切の義務(ダルマ)を放棄して、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない」

罪悪とは何か。罪過であり、無限の過去から行ってきた行為の結果、その中には善も悪もあるであろうが、そのすべてを含めて罪過である。彼の身の回りにまとわりついていたすべての罪から解放してやろうという。
一切の義務を放棄して、とは、すべての行為を私(神)のうちに放擲して、と同意である。
一切の義務(ダルマ)とは、善悪を問わずあらゆる種類の行為を意味し、それら行為の結果をも意味している。
行為の結果を放擲して、とは、行為の一切の結果を放棄するということである。
つまり、行為の結果を顧慮することなく行為を行う、一切の行為の結果を神に委ねて行為を行う、ということである。
以上は赤松さんの解説である。

なんだかキリスト教の教えのようだが、どこか違うようにも思う。
いずれにせよ、自分がやるべきと考えるものは、自分が生まれてここに生きる以上必要なことであり、行為すべく生まれてきた以上、怯むことなく、結果を顧慮することなく、為すべきことを為せ、という教えであり、そのために、すべての結果を神に委ねる心を持てということだ。あらゆる人の苦悩を取り除いて前に進ませる力のある教えとして、勇気づけられる想いである。

自分の身近に、本当は気が進まないが自分や家族が困らないための収入になるので我慢して続けている仕事と、本当はやりたい芸術家として本格的に活動することとの挟間で葛藤している人がいる。戦士アルジュナの葛藤に置き換えれば、やるべきことはあきらかだ。結果を顧慮することなく、為すべきことを為せばよいのだ。そうでなければ生まれてきた意味はないではないか。強く一歩を踏み出す精神のあり方が本当のヨガである、とバガヴァッド・ギーターは言う。

2000年以上も前から人々の苦悩は変わらず、解脱する方法も変わらない。これこそが輪廻の結果なのかもしれない。アルジュナはおそらく解脱したが、多くの人は真の行為のヨガ者になれず、生まれ変わり死に変わりながら、苦悩の中で行為の結果に怯えながら、選択を間違ったと後悔しながら、毎度毎度、解脱できずに過去も現在も未来も生き続ける。
しかし、バガヴァッド・ギーターが現在まで伝承されているという事実は何を意味するのか。それは、その教えの重要さ、真実性の故であろう。少数の理解者の中には解脱に成功した人もいよう。しかし、どんどん人は生まれてくる。その中の何割の人がギーターを読み、その中の何割の人が理解し、さらにその何割の人が実践し、最終的にその何割の人が成功するのだろうか。そのような人になれたらいいなと、きちんと読みもしないで単に憧れているのが現在の私です。
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