直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

いのちは時間

昨日行ったヨガのレッスンで、ひとつ気付いたことがある。
 土曜日のレッスンはときどきしかいかないが(普段は日曜日を基本としているので)、土曜日の先生は、毎度、最初の立禅で、「額を緩めてー、こめかみを緩めてー、眼を緩めてー、口の中を緩めてー、・・・」と導入をしてくれる。このなかで、「すべてを手放してー、今の自分を受け入れてー・・」というフレーズがある。待てよ、今ってなんだ、すべてを手放すって・・・とちょっとだけ何かを思いめぐらした。それは、今から思い出してみると、こういうことではなかったかと思う。
 すべてを手放しなさいということは、最近気になっていることや悩みや仕事での問題や何かとにかく頭にひっかかっている有象無象のことを忘れてみましょうと促しているんだなあと思った。そうすると次には、仕事でいくつか気になってることがあって、それを思い出すはずなのだが、そうはならなかった。次の「今の自分を受け入れて、」というフレーズに素直に反応して「今の自分」を探ろうとしたせいだと思うが、仕事で気になっていることが思いだせないことに気がついた。思いだせないというか、思い出すのが億劫であり、思い出す作業が面倒な一仕事に思えたのだ。

 この感覚を少し覚えていて、ヨガが終わったあとの食事の時にカミさんと話していてふと思い出し、言葉を発しながら気がついた。今というのは、究極に考えれば時間の流れの無い瞬間であって、あるいは、非常に短いミリセカンド、ナノセカンド、ピコセカンド、フェムトセカンドの無限小の時間だとすると、そんな短時間だけを切り取ってみると、命も思考もありえない。生命活動は、福岡伸一先生の言葉でいうと動的平衡であり、動的平衡というからには時間変化を前提としている。いのちは、時間の流れの中に、ある。思考も同じで、必ず時間がかかるのだ。僕なんかは考えをまとめるのが遅いからとくに時間がかかるけれども、どんなに切れる人でも必ず時間がかかるはず。よって、今、という刹那だけに意識を集中すると、それができたらの話だが、絶えず過ぎ去る「今」だけを意識の速度で追い続けると、思考している暇が無くなるんじゃないか。

 「今の自分」を探ろうとして「仕事で気になっていること」を思い出せない状態になったことは、実は感違いで、たまたま、今からヨガを始めるという雰囲気の中で、額から始めてリラックスモードに入りつつある心身がただ平和ボケ的状態になっていたせいなのかもしれない。けれど、「今」を追い続けて、思考が離れた瞬間が本当にあったのかもしれない。

 思考もいのちも「時間」がなければ、無い。とは当たり前で、新発見でも何でもないことかもしれないが、自分には腑に落ちたのだ。で? と尋ねる自分がいる。 そうですねえ、時間の中で変化するのがいのちであり、時間によって思考が生じるとするならば、その時間の中での変化の仕方に目を向けて、変化のコントロールが大事ということになりましょうか。 まだよくわからないけれども、ここから考えていきたい。何かわかることがある気がする。

 この話には続きがある。ヨガの帰りに本屋に寄った。ふと日野原重明先生の「いま伝えたい大切なこと」という本に目がとまった。目次の1が「いのち」で、2が「時」だった。何かが光ったとでも言おうか。最近、本が増えて本棚が一杯になり、二度は読まないだろうと思われる本をブックオフに持っていった。これからは、よほど大事な本でないと買わないぞと誓ったばかりだったので、買おうかどうか迷ったが、買わずに去ることができなかった。
 まだほんの少ししか読んでないが、10歳くらいの子供たちに語った言葉として、次のように書いてある。
「いのちは目にはみえないが、君たちみんなが持っていて使えるものだ。そしてそれは、君だけが持っていて自分のためにフルに使っている時間だ。その時間をこれから先、どう使うかがすなわち、君の生き方だよ」
「いのちは君たちが自分らしく使える時間なんだよ」
「君たちが持っている『時間』が、君たちの『いのち』そのものなんだよ」
 ぼくがヨガの最中に考えた時間といのちの関係とは、本質的に異なるのかもしれないし、同じことになるのかもしれないけれども、臨床医である日野原先生の百年近い人生の深みから語られる言葉には真実があるに違いないと思うので、しっかり耳を傾けて、自分の糧にできればと思って、ゆっくり「時間」をかけて読むことにする。
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