直仁の「善き人のための」研究室

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詩を書くなら野心を持て

カミさんが買ってきた大泉その枝さんという詩人の詩を読んで打たれるものがあった。
何事にも徹しきらず流されるままに生きてきた自分の人生あるいは態度の曖昧さに剣を突き刺された感覚である。
軸が一本通った人間になりたい。誰が何と言おうと僕の信ずるところはこうなんだ、と言える人間。
そうじゃないから、かの詩に打たれる。

人を突き刺す詩を書ける人は軸が一本通っているのだろうか。
昨年だか一昨年だか話題になった柴田トヨさんはどうだろう。あの方は確かに軸が一本通っているように見える。なぜか。当時テレビインタビューを受けたり特集を組まれたりしてご本人が話す言葉を聴いた。「私の詩なんか売れるなんて」とか「みんなが読んでくれてありがたい」といったコメントは聞かなかった。詩と同じように語る姿を見て、この人は詩人でなければ哲学者だと思った。彼女の詩作を思い起こすと、まさにそこには野心があることに気が付いた。

野心

この言葉は詩には似つかわしくないように思えるが、詩人に野心が無ければ詩人たり得ない。
実は、この「野心」は私の高校時代の同級生M君の受け売りであることを白状する。
高校時代、私は少女趣味の日記のようなものを時々書いていた。時に、それは詩の形をとることがあった。
親友というほどではないが、通学の電車で一緒になることのあったM君とたまたま詩の話になった。
「詩って、自分の思うことをそのまま書けばいいんだよね」と私が言うと彼はそれを否定した。
「そんなのは少女趣味のお遊びだ。詩を書くなら野心が無ければだめだ!」と。
これには何も切り返せなかった。野心の意味がわからなかったからだ。詩に必要な野心の意味がである。

大泉さんの詩を読んで、ふとM君の言葉を思い出した。そして、野心の意味がわかった気がした。
その詩には少なくとも「野心」があった。詩を発表する以上、読むものに何かを突き付けなければならない。自己満足の言葉の羅列ではだめだ。自己の言葉でありながら自己を超えた何物かを内包した言葉でなければ剣で刺すことはできない。それを実現するための詩作りを「野心」とM君は表現したのだと思う。

野心で表現した詩もあれば、野心で生きている人の詩もある。柴田トヨさんは後者だと思う。それは、柴田さんが軸が一本通っている人間だろうからだ。軸が通ってなくても野心で詩を書くことはできよう。そうなりたいと思う切ない心から絞り出すように書けば、だ。

高校卒業以来会っていないM君は今どこでどうしているだろう。詩を書いているのだろうか、野心たっぷりに。
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