直仁の「善き人のための」研究室

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人生の科学

人生の科学 無意識があなたの一生を決める という本を読んだ。

一生を決める、とは大胆に思えたが、人間の行動への無意識の影響は少なからずあるとは思っていたので、興味を持って読んだ。
この本の特徴は、単に学説を説明するという形ではなく、ハロルドとエリカという男女、夫婦の生い立ちから出会い、結婚、事業、晩年までの一生を描く中で、彼らの生き方を無意識がいかに重要な位置を占めたかを都度解説するというスタイルである。二人の人生物語はアメリカンドリームに近い話で小説として読んでもそれなりに面白いが、無意識を主とする人間の心理や脳の働き、経済・社会行動の最近の研究結果を踏まえた解説が適宜挿入されていて、その内容も興味深いことが多かったので、今までにないスタイルの著作であったが楽しむことができた。

二人の物語はさておいて、無意識の働きに関連した説をいくつかここに引用する。
これがこの本のポイントかどうかはわからない。一読後、ペラペラと再読してみて再び頭にひかかってきた部分なので、これらが僕の脳の無意識の部分が共感もしくは喜んで応答した説だと言えるだろう。



本人の自覚としては、自分で決定を下したという感じではない。
先に決定があって、その決定に動かされるという印象だ。
「心には理性でわからない理屈がある」とブレーズ・パスカルはいう。
自分が何を望んでいるのかは後から知ることになる。
例えば、恋人、結婚相手、仕事などがそうである。
意思決定は、理性の仕事ではなく、実は感情の仕事なのだ。

私たち人間は人生において、無意識のうちに感情に基づいて進むべき道を決めていることが多い。


日常生活の中で意思決定する瞬間は数限りない。今、歯を磨こうとするのも、トイレにいこうとするのも、テレビをつけてみるのも、自分で意識的に考えて実行するというよりも、何気なく知らぬ間に足が向いていたりリモコンを操作していたりする。だいたいのことは追認である。電車の時間に間に合うように家を出よう、というのは理性的な意識による意思決定であるが、そういうことは考えてみれば限られている。
就職先を決めるのも大きな意思決定のようだが、思い起こしてみると、今の会社に決めたのは数社を値踏みして選んだというより、友人から紹介された瞬間に決めていたような気がする。おそらくそうだ。会社概要を調査したりしたのは、その意思決定を追認するための作業だったように思う。
結婚についても、おそらく、親戚の紹介で対面したその瞬間か、もしくは、その前に写真を見たときに決めていたのではないかと今は思えてくる(こういうのも脳の働きで、後から、記憶を都合のよいように、自分が気持ち良いように操作しているのだという説もあるが)。



いくつかの選択肢がある場合、そのどれが好ましくて、どれが危険なのかを
ソマティックマーカーが教えてくれる。
私たちが意識して深く考えなくても、個々の選択肢にはソマティックマーカーが付けられるので、
それを手掛かりにすれば、危険な選択肢は最初から検討の対象にしなくてすむ。


ソマティック・マーカー仮説とは、神経学者アントニオ・ダマシオ(1994, 2005)が主張する説で、外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情(心臓がドキドキしたり、口が渇いたりする)が、前頭葉の腹内側部に影響を与えて「よい/わるい」というふるいをかけて、意思決定を効率的にするのではないかという仮説。この仮説にしたがうと、理性的判断には感情を排して取り組むべきだという従来の「常識」に反して、理性的判断に感情的要素はむしろ効率的に働くことになる。)

何か直感的にひっかかってやめておいた方がよいと思うことがあるが、それは身体的感情として無意識が過去の経験(意識上では忘れている)を踏まえて危険と判断しているのだろう。若いころはよくわからなかったが、近ごろ、そういう身体的感情に注意するようにしている。



人間は他人を見るとき「もしあの人と同じ体験を自分がしたらどうなるか」というシミュレーションを頭の中で自動的に行うのだ。そうして他人の感じていること、考えていることを理解するのである。
ミラーニューロン仮説:脳内には他者の脳内の処理を自動的にシミュレーションするニューロンが存在する。
人は他人の経験をまるで自分の身に起きたことのように感じることができる。


こういうことが無かったら、他人に共感するということは一切ないだろう。社会が成り立たない。


プライミング:先行する知覚が後の知覚、ひいては後の行動に影響を及ぼすという現象。
例えば、スポーツの試合の前に「成功、名手、勝利」などの言葉を言ったり聴いたりしただけで結果が良くなる。自分の電話番号の最初の3ケタを書いてもらったあと、チンギスハーンの亡くなった年を聴くと、3ケタで答える人が増える(実際は4ケタ)。


大事な舞台、試験、試合、プレゼンなどの前に、成功をイメージする言葉を聴くと良いということはよく言われることである。逆もしかりで、否定的な言葉をかけられ続けると実力を出せないか失敗する。統計的なデータが無いので気のせいだという人もいるかもしれないが、上記のチンギスハーンの話など、プライミングを試す実験をしている研究例があるそうで、気のせいなんかではなさそうだ。


アンカリング:人間は、どのような情報も単独で処理することはない。情報はすべて他の情報との関係を考慮して処理している。あらゆるものは、他の何かとの比較によって評価される。例えば、$30のワインは$9のワインのとなりにあると高いと感じるが、$140のワインのとなりにあると安いと感じる。

ワインの話はわかりやすさの事例であって、俺はそんなふうに騙されないぞという人もいるかもしれない。確かに、時間をかけて落ち着いて冷静に意識的に考えてみれば、$30は$30である。しかし、ここで議論しているのは、その情報を取り込んだ瞬間の判断である。高いと感じたり、安いと感じたりする感覚は身に覚えがある。こういう人間の認知の癖を利用した広告、陳列方法はすでに商業のノウハウとなっていることだろう。仕事でもアンカリングの影響は大きい。上司がどういう比較情報を持っているかで判断や指示が左右されるのは長年サラリーマンをやっていると経験的にわかる。自分も毎日やっている。できるだけ客観的な判断をするには、一歩引いて時間をおかなければならないだろう。



フレーミング:同じ状況に直面して、事前にどのような情報が与えられるか、また、その情報がどういう形で与えられるかによって見え方がかわり、その後の意思決定にも影響を及ぼす。
・手術の成功確率が85%と言われた人は実際に手術を受ける人が多いのに対し、失敗確率が15%と言われた人は手術を断る人が多い、という調査結果がある。
・スーパーでスープ缶はふつう、1,2缶しか買い物かごに入れないが、「おひとり様12缶まで」と書いてあると、4,5缶入れる人が増える。


ものは言いよう、とはよく言われる。同じ内容なのに、言い方、言うタイミング次第で気持ちよく受け入れられる事があれば、反対意見を言われることもある。これも仕事では日常茶飯事である。だから、報告のタイミングとストーリー選択に苦労するのだ!



慣性:脳は倹約家だ。認知に費やすエネルギーをできるかぎり節約しようとする。
   人間に「現状維持のバイアス」があるのはそのためである。
   誰もが、今の状態は永遠にそのまま続くはずという偏見を持っているのだ。
   現状がそのまま変わらないのであれば、外界から多くの情報を取り入れる必要は無く、
   認知のエネルギーを節約できる。

頑固者というのはこういう脳の働きが強い人の事なのだろうか。企業では新しい情報をどんどん取り入れ、自分を変化させてでも、認識を新たにして新しいことにチャレンジしていかないとダメなのに、もともと人間に「慣性」の性質があるとすれば、そういうものが薄い、もしくは、知っててあえてチャレンジ精神旺盛な稀有なリーダーがいないと、物事は進んでいかないのだなあ、と納得してしまう。



無意識は衝動的で、目先の報酬に飛びつきやすい。無意識はとにかく今、気分よくなりたい。苦痛や恐怖からはできる限り逃れようとする。


何気なく行動しているときは、きっとこうなんだと思う。大勢の集まりの中で、これに素直に行動できている人にその集まりが支配されていると、本能的に逃げたくなる自分はまさに、逃げた方が良いオーラがありありなのだ。


第一に、意識は無意識に包まれるように存在している。
無意識を抜きにして意識の事を考えるのは無意味なことである。
意識は、無意識から入力される情報を受け取って働く。
目標や方向性についての指示は無意識からなされる。
両者がより合わさって機能することで人間はうまく生きていくことができる。
無意識は意識より強力である。
無意識は遠い過去から蓄積された、本人も持っていることを自覚していない膨大な記憶を利用することができる。
しかし、意識が利用できるのは、ほぼ脳のワーキングメモリに収められた直近の記憶だけである。
無意識はいくつもの要素からなり、それぞれが独自の機能を持っている。
一方、意識は要素に分かれたりはしていない。全体が均一である。
情報処理能力は無意識の方がはるかに高い。


かなり断定的なので、これを証明する研究データがあるのだろう。無意識がとてつもなく膨大な記憶を利用して勝手に判断しているらしいのは、なんとなくわかる。注意すべきは、これが本当だとすると、無意識による判断の起源は、膨大な記憶によるということである。本書には、無意識の判断は生得的なものもある、と書かれている。正義感のようなもの。美しいか醜いか、など、基本的な人の認知は万国共通らしい。そのうえで、生まれた国、地域、家族、その文化、経験によって意識しなくても多くの情報が体験と感情とともに記憶され、無意識の判断に貢献しているのだ。それから、意識が無意識をある程度制御できるともいう。学習ということだ。学校の勉強と同じだ。同じ個所を何度も学習することによって頭に入り問題が解けるようになる。長じてくれば何も考えなくてもすぐに答えが出る。九九と同じだ。スポーツもわかりやすい。名人は、技を行うとき、脳の働きは実に静かだそうだ。
繰り返し、人道支援のボランティアを行っている人は、例えば、大震災に遭遇したときに、すぐに救援行動ができるそうだ。



無意識は身体の各部分が今、どこにあるのかを常に監視している。そのためには、「固有受容感覚」と呼ばれる感覚が使われる。

これはどいうことかというと、例えば自分の足がそこにあるということがわかるという感覚のことだ。これは当たり前のようだが、脳の重要な機能だそうだ。脳の障害によってその感覚が麻痺している人は、日常生活もまともにできないという。苦労して意識的にその感覚を持てるように訓練した人がいるそうだが、その人が突然停電で真っ暗になった瞬間、足がどこにあるのか認知できず、倒れてしまったそうだ。視覚によって身体の各部を認知していたようだ。自分も昔、手術で下半身麻酔をしたときに、足がどこにあるのかわからなかったが、そういう感覚だろうか。
ここに手がある、指があると意識していなくても、無意識が常に監視しているから、パソコンを操作できるし、ごはんを食べることもできるし、歯を磨くこともできる。ということらしい。
今日もヨガのレッスンをしたが、そこでは、呼吸が会陰から脊椎を通って頭から抜けるように意識しましょうと言われる。実際に脊椎を外から押えてみることなしにただ感じることはできないけれども、想像によって知覚しようとする。骨盤とかハムストリングスとか、だいたいは、身体の内部の各部に意識を持っていくように指導されるが、無意識が知覚していることを意識で行おうとしているようだ。この訓練が何の目的なのか、それがわかる境地に達するにはほど遠いレベルだが、自分の無意識を知覚することができるようになるのだろうか。それはまさに瞑想が目指すところである。


私たちの脳はどのような状況についても早く判断を下したがる。大量の感覚情報が絶えず流れ込んでくるのだが、そのすべてについて早く判断をしたいのだ。早く何らかの解釈を加えた上で、情報を処理してしまいこみたいのである。人間は「わからない」ことをきらう。それで、解釈らしきものが目の前にあるとすぐに飛びついてしまう。「わかった」ことにしたいからだ。
謙虚な態度とは、この「わからない」という恐怖に耐える態度である。賢く謙虚な人は物事を急いで理解すようとせず、自制することができる。


ちょっと浅いかもしれないが、思い当たることがある。他人の話を最後まで聞かずに答えたがる人がいる。質問をしている途中なのに、勝手に質問の意図を誤解して答え始めてしまう。たぶん、相手の質問を最後まで聞き終えるまえに、その質問の意図を、自分が回答できる内容の範囲で勝手に読み取ってしまい、早く回答して済ませてしまいたいのだろう。最後まで辛抱強く話を聞いて、その質問という「情報」をきちんと解釈することに謙虚に対処できる人は、思えば少ないように感じる。周りの人で、上記の意味で「謙虚な」人は思い当たらない。
自分は謙虚でありたい。それは上記の意味で。



ヴィクトール・フランクル「夜と霧」
人生の意味について抽象的に考えても無益だ。
あらゆる人の人生に共通する意味など考えても無駄である。
個々の人の人生の意味は、その人が置かれた状況に照らして考えなければわからない。
私たちは自ら学ばなければならない。
また何より、絶望した人たちに教えねばならない。
大事なのは、私たちが人生に何を期待するかということではなく、
人生が私たちに何を期待しているかである、ということを。
人生の意味など問うのはやめよう。
自分の事を日々、刻々と、人生から意味を問われている存在だと考えるべきだ。
答えは常に一貫していなくてはならないが、
ただ言葉や思考の上で一貫していればいいわけではない。
正しい行動、行為をし、その中で一貫している必要がある。


この言葉に出会って、それまでの無意識に関する学説や解釈が子供の遊びに思えてきた。(だから字を大きくした)
フランクルがこれを書いたのは、ナチスのユダヤ人強制収容所である。その人の人生の意味がその人の置かれた状況によって異なると言えるのは、もうすぐ殺されるだろうことがわかっている立場の人だからはっきり言えるのだ。このような状況だから、このように考えることができたのだろうが、そうでなければ気が付かないほど、重要だけど皆わかってないことだ。
正しい行動、行為とは何か。それは自分にはわかっている。誰にでもわかっている。その人にとって正しい行為というものは。人を殺すことが善いことかどうか考えるまでもなく「わかっている」ということと同じように。
そして、正しいと思う行為をだた結果を考えずに為すだけである。(池田晶子さんとバガバッドギーターの教えにまたまた無理やり結びつけてしまった。)

自分は何のために生きているのだろうと考えるのは無意味で、人生は自分に問いかけているのだ、と認識すれば、自分が人生を意味づけする主人公であると本気で気づくことができ、今からすぐに行動できるのである。



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