直仁の「善き人のための」研究室

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佐村河内守「交響曲第一番」

現代日本の作曲者、佐村河内守さんの著作「交響曲第一番」を読んで、どうしてもこの曲を聴きたくなった。アマゾンで注文したが、あと一週間くらいかかりそう。先日、テレビのNHKの特集で彼を紹介していたので、注文が殺到したのだろうか。
この本について、吉松隆さんがブログで評している。⇒こちら
ここに書いてあるように、小さいころから母親にピアノを叩き込まれ、学生時代から作曲家を志して独学で作曲をするのだが、ひどい偏頭痛、耳鳴りに悩まされ(発作と書いてある)、ついには全く耳が聞こえなくなり、さらに頭鳴症、精神病を発症するという壮絶な人生を歩みながら作曲を続ける著者の自伝である。吉松さんはブログで以下のように書いている。

「同情されて自分の音楽が聴かれるのはイヤだ」と書いているが、この書を読んで彼の音楽を公平に聴くことはもはや不可能だろう。それに、表紙にデザインされたスコアのページを見ただけで想像できる晦渋で巨大な交響曲を「聴いてみよう」という人間が現れるとしたら、「音が聴こえない人間が、音でどこまでの構築物を作れるか」という興味が重要なファクターになるはず。それは決して悪いことではない。

そのとおり、すでに僕は、氏の音楽を公平に聴くことはもうできない。最初から、ものすごい期待を抱いている。あるいは、公平に聴いたら、マーラーやブルックナーと同じような曲だな、とだけ思ったかもしれないところを、たいへんな感動とともに聴く終える可能性がある。あるいは、期待を裏切られて残念な気持ちになるかもしれない。この書を読んだことで、どのような感想を持って聞き終えることになるのだろう。

そもそも公平に聴く、とはどういうことか。それは果たして必要なことなのだろうか。音楽評論を専門にしている人や、音楽学を専門にしている人は職業柄、公平に聴かなくてはならないのかもしれない。しかし、人が音楽に求めるのは、作曲技術ではない。感動や(極端な場合には)思想だ。これらは生身の人間だから感じ取ることができるわけで、その感じ方は人それぞれだ。その時の気分や環境や過去のいろいろな感動の経験のすべてが蓄積された受容体としてのその人の耳(脳)が聴くわけだから、公平などというものは考えにくい。
どうせ感動するなら、不公平でも何でも、感動しやすい状況や環境の方がよいのではないだろうか。
吉松さんは、公平に聴かなくてはいけないとは書いていない。公平に聞くことができないことは、「悪いことではない」と言っている。

僕にも好きな曲は人並みにある。マーラーの5番だったり、チャイコフスキーのくるみ割り人形だったり、ドビュッシーの沈める寺だったり、ほかにもたくさん。
それらを聴くとき、あるいは思い出すとき、何かを思い出す。あるいは、過去にそれを聴いたときの感覚や周りの雰囲気や時代のにおいを思い出す。それらを込みで好きになっているのがわかる。おそらく誰でもそうなのではないだろうか。

だから人間やってて楽しいのだ。

(ちょうど今、フィギュアスケートのNHK杯を見ている。アイスダンス。シブタニきょうだいもデービス・ホワイト組は相変わらず優雅で美しい。素晴らしいスケーティング技術の基礎の上で、音楽に合わせた踊りの表現の素晴らしさに見入ってしまう。スポーツと芸術の完全な融合を見ている感じだ。)
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