直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

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人が電車と接車・・・

JR中央線は人身事故が多いらしい。通勤に使うようになって13年になるが、もう何十回あったことだろう。多いときには、金曜日夕方3週連続なんてことも記憶にある。他の線でもそうかと思っていたが、JR中央線は多いと書いているサイトがあったので、やはり多いのだ。

今日も用事を終えて帰ろうとして駅に行くと、「勝川駅と春日井駅の間で人と電車の接車事故があり・・・しばらく上下線とも動かない」というアナウンスで、次の列車の情報は掲示板から消えていた。
正直、またかという気持ちが湧いた。おそらくその事故は飛び込み自殺であり、どのような事情かは知らないが尋常な心理状態ではなくなった彼か彼女かが身を投げたのだから、それはしてはいけないことだと思うのだけれど、またか、と思うのは不敬だと反省した。
また、考えても見よ、これまでに飛び込んだ人と今日飛び込んだ人は別人であり、またか、と言われる筋合いない。僕のほうの感覚がマヒしているのだ。飛び込みをする人は、僕の頭の中で「飛び込みをする人」という同じ誰かになってしまっている。

自殺者は皆違う個人なのに、なぜ同じような方法で自殺するのか。自殺の仕方を書いた本が出たこともあるが、そうした本でなくとも、新聞やテレビやネットやに自殺の情報が流れることによって自殺の手本になり、自殺者が自殺に至るまでの間に、それら情報が彼らに記憶に忍び込み、その中から自殺の仕方を選びとった結果として、同じ自殺が続くのだと思う。自殺した人の情報を一切公表しない世の中にならないのだろうか。

電車に飛び込む時に、運転手のことは考えないのだろうかと素朴に思う。たぶん、人のことを考える心の余裕はないのだから自殺するのだろう。飛び込まれた運転手は、平気でいられるはずが無い。運転手の心のケアはどうしているのだろう、そのことが実は心配だ。あるサイトで同じようなことを質問している人がいて、電車の運転手の知人を名乗る人が答えていたが、運転手は人を跳ね飛ばしたことについてそれほど心の傷を負うことはないそうである。どのようなことでそうなっているの正直理解できないが、本当にそうなら安心だ。毎週のように自殺者がでて、その都度、運転手が心の傷を負っていたら、JRがどれだけ運転手を養成しても足りなくなってしまうだろう。そんな話は聞かないから、淡々と運転を続けていらっしゃるに違いない。

とにかく、電車がしばらく動かないのだが、急いで帰る用事もないし、「待つ」ということも修行のひとつかと思い、本もゆっくり読めるからと思って、ちょうど駅に入ってきてドアが開いたままの車両に乗り込んだ。人はまばらで席はたくさんあいていたので、ゆったりと座った。飛び込み自殺で人がおそらく亡くなったというのに、その事故で止まっている電車にゆったり座って僕は神谷美恵子著「生きがいについて」を読んでいる。そのことに気がついて、どういうことだこれは、何かねじれているようなおかしなことになっているのではないか、そういう違和感を覚えた。生きがいを無くして自殺した人が作った時間で「生きがいについて」を読んで人の生きがいについて考えている自分は何者なのか。周りの人たちもあきらめて電車が動くのを待っているが、何を考えているのだろう。きっと、自分のことしか考えちゃいない。自分のこと、家族のこと、恋人のこと、明日の仕事のこと、来週の旅行のこと、今夜の晩御飯のこと、夜のテレビ番組のこと、なんだろう、つながっていない。
そうだ、彼と我とはつながっていないのだ、これほどまでに。それはどうしようもないことなのか。
当たり前ではないか。ずっと遠くの線路に飛び込んだ人と、「生きがいについて」を読む僕とは、どこでつながり得ようか、この現世において。

やはり、この先も事故がおきて電車が止まれば、またか、と思ってしまうのだろうな。
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