直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

一枚起請文

昨年の5月の連休中にふと思い立って、一枚起請文を朗読してYou Tubeに投稿した。
これを書いている今現在、再生回数が999回になっている。
それほど多くは無いけれど、約9か月の間にコンスタントに再生回数が増え続けてきた。

いったい誰が聴いているのだろう。

You Tubeには投稿者のために解析ページが用意されていて、いろいろなデータがわかる。
再生者の地域はほとんどが日本だが、海外ではアメリカ、カナダ、台湾、シンガポール、ブラジルなどである。
視聴者維持率という解析があり、全体で2分7秒の長さのうち、何秒まで打ち切らずに再生し続けたか、その割合がグラフでわかる。これによると、1分50秒というほとんど終わり近くまで聴いてる人が56%もいる。半数以上の人が最後近くまで聴いているということだ。

もともと、何の目的もなく、ほんの思いつきで投稿したものであり、朗読と言っても訓練してもいなければ、もともとそういう特技があるわけでもないし、面白おかしく演出してもいない。ただ真面目くさって読み上げただけだ。その音声をただ最後まで聴く人が意外に多いということに驚いている。

そもそも「一枚起請文」とは何か?
鎌倉時代に浄土宗を開いた「法然上人」のご遺訓である。
説いてきた教えが自分の死後間違って伝わらないようにエッセンスをきちんと言い残しておくべきということで、弟子に頼まれて書いた遺言だという。

なぜ朗読したのかを思い出した。当時、佐伯啓思「反・幸福論」(新潮新書)を読んで、その中に「一枚起請文」の一節が出てきて、なるほどと思ったのがきっかけだった。
「一枚起請文」そのものは以前から知っていたし、唱えてもいた。実家が浄土宗で、祖母や祖父が亡くなって葬式や法事を行うといろいろな読経を行うのだが、かならず「一枚起請文」も唱える。和尚の独特の節回しが面白く、ついつい覚えてしまった。投稿した朗読もその節回しに倣っているので、いわゆる朗読とは少し(かなり)違う。
もしかするとそれが面白いのかもしれない。
それはさておき、「一枚起請文」では次のように言われている、と佐伯氏は言う。

救いをもたらすのは、智者の観念でもなく、学問でもなく、一文不知の愚鈍の身になって、智者のふるまいをやめてただ念仏することだ。

さらにこれを次のように解説する。

平安末期は諸悪が横行し天災も続いた末法の世であった。この現実を前にして、いくら偉くても学者の理屈や知識人の学識など何の意味もなかった。それどころか、理屈をこねたり、さかしらに物事を知った気になる方がもっと罪深いことだった。だが智者というものは、昔も今も容易にはその罪を自覚できないものです。それよりも現実の生をだた生きている「一文不知の愚鈍の身」の方がはるかに罪を自覚できる。なぜなら、人々が生きることに精いっぱいの乱世では、生きるということ自体が罪深いことで、殺傷をし、ものを盗み、人をだまし、身を売り、といったことの連続だったからです。とすれば、下手に学問や知識など身に着けない愚鈍のともがらの方がかえって阿弥陀仏に帰依できるでしょう。(阿弥陀仏とは、われわれのはかりしれない無限のいのち、いわば宇宙的な生命の象徴)

現在も末法の世だとして、我々も生きるということ自体が罪深いことだと言うのは言い過ぎのように一見思える。確かに、直接的に他人を殺傷したり、窃盗を働いたり詐欺を行ったりなどは一部の特定の犯罪者がするもので自分たちは罪を犯していないと言えるかもしれない。しかし、世界に目を向ければ、内戦や紛争が絶えず、どのような理由にせよ個人的な悪というより政治的、宗教的な理由から他人を殺傷し、あるいは、その道具である兵器を作り続けている。我々も日常生活を豊かに暮らせるのは、地球の資源を再生不可能に搾取している結果とも言える。間接的に他の動物種、植物種を絶滅に導いているという意味では罪深いと言えるのだろう。
あるいは心無い言葉で他人を傷つけ、客という立場で店員に無碍な言い方をしたり(同じ職業人なのに)したりもする。意識していないところで、この社会の仕組みや習慣の中に埋没することで、罪作りなことをしている。
とすれば、小賢しい理屈で自分たちの生の正当性を論じ、正当に見えない他者を批判などしていること自体が法然上人のいう「智者の観念」に他ならず、そんなことでは救いにならない、ということなのかもしれない。
では、自分の生の「罪」を自覚すればそれでいいのか?
こうした問答自体も智者の観念だと言われてしまえば救いがない。

なにはともあれ、日々楽しく暮らしたいのが僕たちの本音である。だが、たまにこういう真面目な本でも読んで、「生」と「死」に思いをいたすことも必要だろう。

一枚起請文全文を載せて終わる。

唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に
もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には
別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と
申すことの候(そうろ)うは、皆決定(けつじょう)して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、
本願にもれ候(そうろ)うべし。
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、
一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証の為に両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、
滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために
所存をしるし畢(おわ)んぬ。

建暦二年正月二十三日 大師在御判


さて、昨日の朝、鶴舞公園で出会った白猫君。野良猫は人を警戒するので、しばらくじっと動かずこちらを凝視してくれるので、まさにカメラ目線で写真が撮れる。

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