直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

死ぬまで向上心

2月20日に誕生日を迎えて47歳になった。このくらいの歳になると、会社では、現場で知恵を出す若い人達に対して、自分はもう頭が硬いから君達いい知恵を出してくれよと言うような年代である。
こんなことを言うのを50代の人が聞けば、君はまだ若いのだから頑張ってくれよと言うし、30代の若手が20代の新人達に向かって同じようなことを言うのを稀に聞くことがある。どうも人は自分より若い人に、自分の方が脳をより長く使って来た事を自慢したいらしい。

いやしかし、本当は年齢がいくつになっても頭柔らかく進化し続けたい。

先日、同僚が飲み会の席で彼の部下に向かって「僕は申し訳ないけれど自分を変えられないから、それで困るなら、僕はできるだけいない時間を作るようにするから、その時間に君達がいいと思うようにやってくれ」と説いていた。彼は部下に厳しく、時には自分の主張を押し付け、部下の意見を押さえつける、または部下がものをいいづらい雰囲気にしてしまうところがあり、本人もそれを気付いているものの、いざその時になるとストレートな自分の主張と気概をコントロールできないのだろう。それで先ほどのようなことを言ったようなのだ。
一見それはそのような上司としては理解があり、よい思いつきのように聞こえる。いくらかはそれで状況が良くなるかもしれず期待したいところだ。
ただ、彼にとってそれは善い事ではないと思う。まだ40代にも拘らず自分はもう変えられないと思い、それを公言してしまう。口に出せば本当にそうなってしまうのに。年をとれば頭は固くなり(脳が柔軟性を失い)、自分の行動パターンや言動パターン、考え方、感じ方もろもろのことを変えられないと思い込み、宣言して自らその「迷信」に嵌ってしまう。確かに経験の影響は大きい。良い意味でも悪い意味でも過去の経験が自分を作っているのだ。しかし、だからといって今の自分がこのまま固定化される保証はなく、今からでも新鮮なる経験、それを求める行動によって変っていかない理屈は無い。人は「求める」ことによって事象を引き寄せ、新情報と新体験を得てシナプス網を改変し続ける。「求める」、「アンテナを張る」いろいろ言い方はあろうが、この心の志向性さえ意識すればよいのだ。自分はこういう人間だから、と言ってしまってはおしまいだ。そこに留まろうとするのは、時間を止めることに他ならない。生きるのをやめるのか。生きるということは時間とともにある、ということであり、時間を生きるということは、変るということだ。人は死ぬまで生きる存在で、変り続ける存在だ。
言うのは簡単だがそんなに簡単なことではないのは承知している。だからこそ、意識することが肝要なのだ。自分を「今ここ」に引き留めない生き方を目指したい。
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