直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

潮干狩り

どうしても何かに集中したくなって潮干狩りに行った。
浅蜊採りほどに集中できることは、ほかにあまり思いつかない。
釣りを趣味にしていたら熱中するかもしれないが、当たりが無い時間が長いのはおそらく耐えられない。

場所は南知多の矢梨。昔から家族で行っている場所だ。
海鮮物の食事ができるので有名な魚太郎のすぐ近くにある。
矢梨海岸は、砂浜ではなく岩や石だらけで歩きにくいが、石の下にある泥のような砂は如何にも栄養が溜まっているような黒々とした色である。ここで採れる浅蜊はコクがあるというか、色も黄色っぽくて見た目だけでも味が濃そうな感じがするが、食べてみると見た目通りの美味しさである。

げんこつほどの大きさの石で覆われたような浜で、その石をひとつひとつ脇へ除けながら少し砂をかくと、たまに大粒の浅蜊が顔を出す。ひとついれば近くに30はいると言われるので、丁寧に石をどけながら、砂の表層を削るようにして、浅蜊が縦に砂に埋まっているその一部を見つけて軍手をはめた手でほじくりだす。その時の浅蜊の貝殻の丸っこい感触が快い。手の中に丸々と肥えた大粒の浅蜊を握った瞬間を求めて、無理な中腰なんのそので2時間はぶっ続けに採りまくる。

そういえば子供のころから○○狩りや○○採りによく行っている。親に連れられ、蕨採りに行ったことは覚えている。なぜかというと、誰もいない山の中に置き去りにされたかのような心細い思いをしたからだ。山の中に連れて行かれ、祖父、祖母、父、母はそれぞれ僕を中心に四方に散って行った。ずーっと遠くまで蕨を採りながら離れていく。誰もどこにも見えない時間が長かった。人里離れた山の中の下半身が埋もれるほどの草の原に立ち尽くしていたという記憶。気の遠くなる時間の後に親たちが戻ってきて、たぶん泣いただろう。それでも、近くの土手に野兎がいるのを見つけて心の慰めになったこともおぼろげに覚えている。
今になってみれば、親たちが子供をおいて蕨採りに集中していた気持ちがよくわかる。今の自分が蕨採りにいったなら、おそらく同じように子供をおいてどんどん進んで行ったに違いない。

自分を取り戻すために、あるいは、自分が自分でいるために、何かに集中したいのだと思う。今日はそれができたのでうれしい。



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