直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

自己意識にはたと気付く

橋元淳一郎「時空と生命」を読んだ。
本書の結論は著者によれば、

「私」の根源たる生命の主体的意思は、ミンコフスキー時空の中に時間の流れを創造し、それと同時に自らの宇宙を創造する

のだそうだ。
主体的意思は、バクテリアのような一見意識をもたないように見える生命にもそれは存在する。
生命はエントロピー増大という法則に真っ向から逆らって非平衡系における秩序を作りだしている。それが生命の主体的意思の根拠だと理解した。
ミンコフスキー時空とは、時間軸と空間軸とからなる空間で、物理的には、この空間において時間の非対称性は無い。つまり、時間が過去から未来に流れるという一方向の流れは無い。
主体的意思こそが時間の流れを生み出すという説である。

本書のポイントとなりそうなところを再度読みながら上のように書いてみたが、自分で理解できているわけではない。どうもそういうことらしいという程度だ。何となく面白く思われるのは、生命現象が確かにエントロピーを減少させるように動いているわけであり、そのような存在があるということが大変不思議といえば不思議である。なぜ、生命は物理の法則に逆らって存在するようになったのか、もしくは、そういうものを生命と呼ぶのかもしれない。このような不思議な存在だからこそ、細胞ひとつひとつにも、あるいは単細胞生物にも、主体的意思とでも呼ぶべきものがあるという著者の考えはわかる気がする。
次にそれがなぜミンコフスキー時空の中に時間の流れを創造するのかは今一つ理解できていない。
私は以前に、時間があるから生命があると当たり前のようなことに「気付いて」書いたことがある。しかし、どうも本書は生命の存在自体が時間をあらしめているといっているようなのだ。どちらが先なのか。

さて、本書には、哲学者や科学者のさまざまな説の引用が多い。とりわけ興味をひいたのは、ニコラス・ハンフリーの自己意識に関する説である。自己意識というものを霊長類が持つに至った経緯が説明される。本書での説明はだいたい以下のような内容だ。

単独で生きる生命個体には自己意識が無い。ただひとり食べるものを手に入れて食い、排泄し、寝るときは寝ての繰り返しであり、自分が存在しているという意識などなくともただ生きていくことができる。一方、集団生活をする動物は、集団で生活することにより外的から身を守り食べ物も得ることができるので、大事なのは他の個体とのコミュニケーションをうまくすることである。とすると、必要なのは他の個体がどう考えているかを察知する能力である。自分の目の前の自分とよく似た個体の心をすばやく読めれば優位に立てる。どうしたら相手の心が読めるか。これはなかなかできない。しかし、自分の心ならわかる可能性がある。自分のことはわかるだろう。すると、自分と似ている相手の心も似ているに違いない。というわけで始めて自己意識を持った個体は、自分の存在というものに「はたと」気付いたわけである。

他人とコミュニケーションをとらなければ生きていけない動物が、それを賢く行うために、自分というものに気付いたというわけだ。そして、相手も自分と似ているはずと直観した。
そういえば、人の赤ん坊も最初は自他の区別が無いということを聞いたことがある。我々も生まれた時は、自分の存在に気付いていなかった。きっとある瞬間、はたと自分に気付くのだろう。その時のことは覚えていないが、例えば、自分の手と母の手は違うということに気付き、自分の手に気付き、自分の意思で自分の手を動かすことができることに気付いた瞬間があったはずだ。娘が赤ん坊の時、仰向けになりながら、自分のグーに握った手をじっと長い間眺めていたことがある。その手をひねりながら「これはひねろうと思えばひねれるんだ」と気付いた瞬間だったのかもしれない(馬鹿想像)。

他人とのコミュニケーション。他人の考えを予想する。その手段として言葉、言語という便利なものがある。だが、いくら、言葉を厳密に定義しようとも、それを認識するのは「私」であり自己意識である。自己意識は他者意識とは別物である。自分の理解を他人も同じに理解している保障はなく、他人の理解の仕方は私の理解の仕方に近いものに違いないと想定しているだけである。普段意識していないがこの事実は重い。言葉を通じて同じ認識を共有していると信じてこの社会を生きているのだ。表面的なこと、普段の行動、仕事、おしゃべり、家庭生活、これらの営みの繰り返しの中で多くの場合は誤解らしい誤解もなく、だいたい困らずに生きているのが実情だ。何か困ったときに、まさに困るのだ。ややこしいことについては困るのだ。困ったときに一番忘れているのが、他者の考えはどこまでいっても自己の考えからの類推でしか理解できないという当たり前である。冷静にならなきゃ。この事実は他者の側にも当てはまるということも忘れてはならない。他者も私を理解する時は、その他者の理解の仕方から私の理解の仕方を類推しているのだから。

この本の本当に言いたいことは理解できなかったが、別の気付きがあってよかった。
引用の中に、先日読んで挫折したダニエル・デネット「心はどこにあるか」があったので、妙なつながりを覚えた。
同時に借りた鶴見俊輔「言い残しておくこと」には、さらに同時に借りた埴谷雄高「死霊」の読み方に関する一文が載っていて、これらの符合を面白く感じた。
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