直仁の「善き人のための」研究室

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宇宙論を自分事として

前回記事へのシューさんのコメントに対する私のコメント;
「最前のような科学的知見以外に何か未知の「宇宙の理」があるのかもしれないですが、そうでなければ、ビッグバン宇宙論から感じるのは、自分の存在のあまりにもの不思議さです。ビッグバンから私への因果関係が全くわからない(あたりまえか)。なぜかっていうと、ビッグバンの瞬間のことは誰にもわからないからさておき、その直後の
0.00000000000000000000000000000000001秒間の何十億度の温度の水素原子核のスープの状態から、今、ここに地球と生命と人々と自分という極端な偏析が生じていることへの履歴の認識の超超困難さです。そして、まだ揺れ動いていますが、①この宇宙論から見たらあまりにも矮小すぎる自分とその価値の無さ、②だからこその存在の価値  どっちなんだろうって思ってます。ただ、どちらにしても、それを考えて突き詰めてゆくと、生きることの生きにくさなんてなにほどのこと、と思えてくる予感がしています。」

結論を急いでいる自分に気付きました。

宇宙論は考えやその体系ではなくて理論と証明による科学的真実です。
一方で、人生論や幸福論は考えのまとまり、理屈、主義主張にすぎないもので真実性を問うものではありません。
宇宙論は人生論にどうかかわるか、それが今一番の関心事です。
ビッグバン宇宙論のエピローグに、宇宙論と哲学の関係についてのいくつかの考察が紹介されていました。
私はキリスト教的世界観を肌で感じれる人間ではありませんし、知識もほとんどありませんが、宇宙に(正確にはこの宇宙に)始まりがあったとするビッグバン宇宙論がほぼ正しいとなった時には、当然、神による天地創造という宗教的概念との関係を多くの人が考えました。ビッグバンはなぜ起こったのかは誰も説明できませんが、神が起こしたと言ってしまえばそれまでで誰にも否定はできません。

原初の宇宙の問題にはあとで立ち返らなくてはならない予感がしますが、少なくとも、とりあえず、ビッグバンによってこの時空が生じたというところから始めて人生論につなげていきたいと思います。
ビッグバン直後の何十億度の温度の水素原子核のスープの状態に、私の起源はあるのでしょうか?
たぶんあるでしょう。肉体的には。または物理的には。
私の体、血液、脳を構成する分子、原子は、この宇宙に存在しているすべての原子と同様、かつて水素原子の核融合によって生成したという説明ですから。
では、私の意識の起源はあったのでしょうか?
人の意識がすべて脳の働きによるのだとすれば、私の脳が動き始める前には私の意識はなかったことになります。
すべての人の意識は、その人がこの世に生れてから始まりました。従って、ビッグバンの水素原子核のスープの中には、誰の何の意識の起源もあり得なかったことになります。
当たり前ですが、意識も何もない時空がかつてはあって(というより、その時間のほうが圧倒的に長い)、百億年の宇宙の歴史の末端に、ちょと意識が生まれた、ほんのちょっとだけ。なんででしょう?何の意味があって?そもそも意味があるのでしょうか?

(頭を冷やして続く・・・)
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