直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

平野啓一郎がドラクロワに語らせたこと

平野啓一郎「葬送」をゆっくりと読んでいる。
ショパンとドラクロワを主人公にした小説だ。
その中で、ドラクロワに次のように語らせている。

・・・・・この胸の中から、言葉が失われれば、どれほどの静寂が得られるだろうか?どれほど安らかで、平穏な静寂が。――密やかに発せられようと、声高に発せられようと、いずれにせよ、言葉は精神の為には喧噪である。それは無限に精神そのもののようでありながら、何時も何処かで精神を裏切っている。自分の言葉が、他の数多の人間の言葉とともに、煉獄に至ってその炎に清められ、次第に遠く、幽かになって、何時か神の威光に呑まれつつ、静かに雪の融けるようにして消えてゆくのであるならば。・・・・その時この胸の中には、ただ無邪気な純粋さばかりが残されるのであろうか。苦悩することさえをも知らぬような無邪気な純粋さばかりが。・・・・

しばらく前の記事に、考える=頭の中で言葉を発する ということだと考えたことを書いた。自分はいったいどこで考えているのかと探ったときに、頭の中で考えているように知覚するのは、実は聴覚に頼っていることに気付いたからだ。頭の中で自分が言葉を喋るのを聞いている。考えるということは、そういうことだ、と思った。
そんなことを書いてそれほど時を置かず上に引用したような箇所を見つけて、自分の考察が支持されたようで少し嬉しかったと同時に、平野さんの洞察はもっと深いか違う道を見つめているようにも思われた。言葉の無い世界の静寂さは、凄まじいと思う。平穏かどうかは想像できないが、おそらく、天国的に平穏なのだろう。それは、逆に言葉というものが以下に人間をひっかきまわしているかということの裏返しである。何時も何処かで精神を裏切っている、という表現に平野さんは何を込めたかったのか知りたい。このことだけを掘り下げていくのでも大変な作業だろう。

一方で、頭の中で言葉を発するということ以外の状況がありうるのか、と考えてみると、ひとつ大きな見落としがあるのに気付いた。それは、音楽だ。特に、歌詞の無い音楽は、考えることと一線を画している。音楽を集中して聴いている時、私は何か考えているのだろうか。おそらく何も考えてはいないと思う。正確には、頭の中で何か言語表現はしていない、ということだ。言語表現してないということは、何の論理も浮き出ていないということだ。音楽の音の種類と時間変化を追っているだけ。そこには、気持ち良さの感覚、興奮の感覚、その他さまざまな感覚がありうるが、それのみが支配している。音楽は、言葉と同様、精神にとっては喧噪であろうか。平野さんはどう思っているのだろうか。意見を伺って見たい。音楽は、精神にとって必ず喜びの作用をもたらすものと自分は思う。悲しい感情や奮い立つ感情といった直接的感情をひっくるめて、精神の喜びにつながるものである筈だと思う。また、そういったものしか音楽として成り立ってない。自然の音、虫の声なども含めて、音楽的と言われる音の群れはすべてそのような性質を持っているのではなかろうか。

言葉と音楽

この聴覚による知覚という類似性と精神に対する作用の大きな違いに、今こうして書きながら気付いた。
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