直仁の「善き人のための」研究室

読書、ペーパークラフト、フィギュアスケート、散策などの雑感

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なぜ・・・してはいけないのか?

なぜ人を殺してはいけないのか?

先日、裁判員裁判で殺人犯の審理が行われ、死刑でなく無期懲役の判決が出された事例を挙げ、実際に裁判員を務めた人の意見を聴くニュース特集を見た。一般人が死刑か無期懲役かを判断するというのはいかがなものか。
裁判員の女性は、公判で犯人が涙を流して反省している姿を見て、更生する可能性がある人を自分の判断で死刑にしてしまってよいものか、と疑問を生じたという。短絡的な批判をしてみるならば、そこまで人間味を持ち心を持つ人こそ、自分の欲望のために他人を殺してしまった罪はなお大きいと言えないだろうか?ということができそうだ。おそらくもっといろいろな意見、見解はあろう。百人百様であり、誰かが意見を言えば、必ず反対意見、修正意見、発展的意見、補足意見等々収拾つかなくなり、結論などでないだろう。

それもこれも皆頭で考えているからだ。死刑とか無期懲役とかは、人間が頭で考えだした決めごとであるし、法律に基づくものである。どのような行動をそのルール(法律)にどのくらい当てはめて考えるのが妥当かということを決めるわけだから、一律に決まりようが無い。人はそれぞれ別の頭を持っていて、決して全く同じ判断、理路回路を持ってはいないからだ。素人に判断させる意味がどこにあるのか?冷静に判断しろと言ったって無理だ。ならば、心で判断すればよいか?本来はそうあるべきかもしれない。人間の善の精神に基づいて心の感ずるままに意見を述べてみればよい。

そこで、そもそも、人を殺すことは善いことなのか、悪いことなのか。悪いに決まっている。
なぜ? なぜ人を殺してはいけないのか?
私もいろいろ哲学書もどきの本を読んだり、スピリチュアル世界の本を読んだり、人生論を読んだりしていて、この問いに答えを述べていた書物に最低二つは出会った記憶があるが、その答えそのものを覚えていない。あほか。何をやってる。ひとつは養老先生だったと思う。そして、もうひとつは池田晶子さんだ。
どうしても、再び紐解いてみたくなり探した。「14歳からの哲学」にあった。
こうして他人に頼らなければ、こんな大事なことまでも自分で考えることができないことに呆れてはいるものの、池田氏の言うことは本当だろうかと、何度も何度も反芻してみる。

なぜ、人を殺してはいけないのか? と問うのはなぜか? 理由がなければ、納得する理屈が無ければ人を殺してしまうの?あなたは。 こういう問いを発すること自体、「頭」偏重な証しだ。泉谷先生のモデルで説明できる。「心」は、そんな問いを発するはずがない。池田氏はいう。人は自分にとって善いことしかしない、悪いことはしないものだ。もし、世間的に見て悪いことをしているとしたら、当の本人は、その悪いことをするときに、そのことが自分にとって悪いことであるとは知らないのであると。自分にとって悪いことだと本当に知っていたなら、するはずがない。してしまったなら、「悪いと知りつつも」とたとえ本人が言おうとも、本当に本当のところは、ちょっとぐらい「よい」と思っていたからやってしまったはずだ。「悪い」100%でやるはずがない。死ぬということはよいことかわるいことかというと、それは、その理屈からいくと、悪いことだ。なぜなら、善い事ならそうするからだ。つまり、死ぬことが善い事なら、皆、死ぬはずだ。しかし、死なないのは、死ぬことが悪いことだと思っているからだ。善いことだと思っているなら、人を殺すより先に自分が死んでいるだろう。でも誰もふつうは死なない。つまり、自分であろうが他人であろうが、死ぬことは悪いことだと知っているからだ。であるなら、他人を殺してはいけない理由などあきらかだ。それは殺すことは悪いことだからだ。そして、そのことは誰に問われるまでもなく、誰もが知っていることだ。
そんな風な内容だった。いくら「頭」で理屈をこねようが、「心」はすでに知っている。「頭」でっかちで、他人から考え方を強制されすぎて育った子供は、「心」に蓋をするようになり、理屈で理解できることしか理解しなくなり、そういう「善いこと」と「悪いこと」を直観的に判る状態でなくなっている。泉谷先生の精神分析の基本と池田氏の問答を合わせると以上のようなことになる。少なくとも私はそう理解した。頭で?いや、心で。そして体で(胸で)。

さて、殺人犯に必要な刑は何か、ということに話を戻す。裁判員は大変だ。
殺された人にとっては、死ぬということは悪いことであり、自分では絶対にしないはずのことだ。それを赤の他人が壊した。自分にとって善くないことをを自分にはせずに他人にした。それは、やってはいけないことだ。当たり前だ。では、そのやってはいけないことをした人を、さらに周りの人はどう扱ったらよいのか。いけないことをしたのだけれど、その本人に、本来はいけないことを罰としてさせることもまた人としてその意に反するわけだ。だから、人は罪を裁いてはいけない。無理がある。ならばどうするか。そこで初めて社会、法律やその専門家に頼らざるを得ない。人の心をもたないものにしか判決できないんじゃないか。民衆は愚かだ。すぐに扇動される。いかようにでも言いくるめられる。流行に流され、他人の目を気にして自分の意見など言わない。皆の意見が自分の意見だと勘違いする。そんな比安定な人間(もちろん自分も含めて)に裁判員など務まろうか。

自分が裁判員になって、殺人事件を扱うことになったら、いったいどういう意見を出すのだろうか、といろいろ想像するうちに、上のようなことを何日も考え続けていた。結局無理だ。ソクラテスならどういうか。
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